第37話 顔が赤いわけは……

 家に戻った俺は、風呂で湯につかりながら王子のことを考えていた。もちろん素敵な王子様を思って胸をときめかせていたわけではない。

 

「不死身、か……」


 おそらく鼻からの出血と鼻骨の骨折程度の怪我なら、治せる魔術師や魔導武器はそう珍しくない。この目で見たものだけで判断するなら、やつはまだ脅威と言えるような存在ではない。

 だからまだあくまで直感でしかないのだが、少なくとも俺の目にはあれは「本物」であるように思えた。自身の能力に圧倒的な自信があるかよほどの役者じゃない限り、俺の不可視の一撃を浴びてああまで平然としてはいられまい。

 俺とフローリアの兄貴の決闘も見ていただろうし。

 はったりならそれはそれでいい。向こうはこれで敵意を明確にしただろうし、警戒しておいて損することはない。明日辺り少し調べてみてもいいかもしれない。

 と、ちょうど思考を一段落したとき、風呂の戸がノックされた。

 

「どうした?」

「あ、えっと……」


 他に誰もいないので当然だが、ステラの声が返ってくる。まあフローリアなら湯の中から湧いて出てきたりしても驚かないが。

 

「い、一緒に入ってもいいかな?」

「一緒に? ちょっと待ってくれればもう出るが」

「違うの! 早く入りたいわけじゃなくて……その、一緒に入りたいの」


 意味がわからない。確かに2人くらいなら余裕を持って入れる程度の大きさはあるが、なんであえて手狭になるようなことをしたがるんだ。何か話したいことがあるにしたって、出てから話せばいい。

 

「まあ、好きにすればいい」


 別に片方が入っている間は入ってはいけない、なんてルールを作った覚えもないしな。

 ほどなくして戸が開き、布切れで体の前を隠したステラが入ってくる。

 

「お、お邪魔します」

「ごゆっくり」


 ステラはそのまま湯船に入り、俺の正面に腰を下ろす。

 俺は一応首の角度をやや上にずらし、視界の下端でステラの顔をかろうじて捉えられるくらいにした。向こうから裸で入ってきて見るなと言われるのも理不尽だが目をそらしておくに越したことはあるまい。

 ステラは湯の水面に視線を落としたり俺の顔を見たり、と、落ち着かない様子だった。そのままお互い黙って、時間が流れるに任せる。

 

「あの……」


 湖面に小石を投げ様子を窺うように、ステラがかすれた声でつぶやいた。

 俺は少しだけ顔を下に傾けることで反応を示す。鎖骨のすぐ下にある、魔王の地位を継承していることを示す例の刻印が見えた。

 

「わ、私……今日独りで留守番してて改めて思ったんだけど……」


 そこまで言うと、ステラはゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「私、やっぱりベルガと一緒にいたいなって思うの」


 真意をはかりかね、俺は黙ったままステラの目を見つめた。

 ステラは目をそらして苦笑した。

 

「いきなり意味不明だよね。でもほら、その指輪の件もあるし、このまま放っておいたら全然一緒にいられなくなっちゃったりするのかなって思ったら……言わずにいられなくて」


 俺は1度息を大きく吸い込み、それを吐き出してから少しだけ首を傾けた。

 

「なぜ……なんでそう思う? 独りで家に残ったのが不安だったか?」

「違うわ」

「じゃあなんでだ」


 ステラはきっぱりと否定する。

 よくわからない。なんとなく違うんだろうとは思っていたが、用心棒役以外に俺と生活や行動を共にするメリットがあるとは思えない。何を求めてステラは俺と一緒にいたいというのか。

 ステラは何かを言おうとわずかに口を開く。しかし言いよどんで数秒の間そのまま固まった。やがてその口も閉じてしまう。

 

「…………」

「…………」


 何も言わない俺たちの間を、かすかな湯気が漂っている。

 ふと、俺は昼間のフローリアとの喫茶店絵での出来事を思い出していた。

 

「今日フローリアに、『もしステラの面倒をウォズライン家で見てほしければ預かるが』というようなことを言われた」

「えっ」


 複雑な表情を浮かべていたステラの目が驚きに見開かれる。

 

「そ、それでなんて答えたの?」

「まあ結論から言えば保留だ。保留にしたというか、答えを出す前にフローリアがいきなり話を切り上げただけなんだが」

「そ、そう」


 安堵の息をつきつつも、ステラの瞳は揺れていた。

 ……わからない。何を考えているのかまったくわからない。

 俺を何かに利用しようとしているのか。俺がいなくなることでステラが失う何かは、こんなに不安げになるほど大きなものなのか。

 

「お前の希望がよくわからないんだ。最初は『独りで生きていく自信がない、心細いから』って言ってたよな。それならウォズライン家で暮らす方が絶対にいい。あの家ならこの上なく快適な暮らしができるだろうし、一応王国内では高い地位もあるわけだから安全だ」

「それは……」

「俺は追放された身だし、今後もいろんなやつの恨みを買う。たいした倫理もないしお前を見捨てないとも限らない。多分、手を組むべきはいずれやつらと手を切る俺じゃなくて、『竜卓十六鱗家』の貴族の方だ」


 言っていて少しだけ胸に針で刺すような痛みが走るのはなぜか。俺には俺自身のことすらよくわからない。

 

「それでもお前は俺と一緒にいるのか? なんで俺が必要なんだ」


 もう極力体を見ないように、とか考えている頭の余裕はなかった。俺は真っすぐに顔をステラに向け、少しだけ細めた目でステラを見据えた。

 ステラは澄んだ瞳をそらすことなく、それを受け止めた。

 そして静かに長い息を吐きだす。

 

「必要、とかじゃないの。利益とか、メリットとかそういうことじゃない」

「どういう意味だ?」


 改めて問うと、ステラは何か決断をするための間を取るように、口をつぐんでゆっくりと目を伏せた。

 ……謎かけでもしているのか? 

 一緒にいてほしいが必要ではない。必要ない人間だが行動は共にする。そんな妙な話があるんだろうか。

 俺が眉根を寄せて考え込んでいると、ステラがそっとまぶたを上げた。

 

「私ね……」


 つぶやくように言ったステラの声が震えた。

 ステラは唇をなめ、覚悟を決めるように鋭く息を吸い込む。その目に宿る光は、今まで相対したどの敵よりも真剣で鋭かった。

 

「――ベルガが好きなの」


 そう言って、ステラは真っ赤な顔を隠すようにうつむかせた。

 

「……うん?」


 俺は思わず眉を寄せた。

 ……好き? 好きってなんだ?

 好きっていうのは、要は好ましいってことだろ? 好ましいっていうのは、必要というほどではないがあると助かるってことだよな? 

 実益のために一緒にいたいわけではない、というのは俺といることで得られる安全は必要と呼べるほどのものじゃないって意味だってことか? でもいると助かるから一緒にはいてほしい、と。

 確かに理屈としては通るな。ステラも街での生活に慣れてきて、保護者としての俺の重要度が下方修正された。だがまだ不要というところまでは行ってないから関係は留保したい。

 この緊張したような態度は、重要度が格下げされたことを正直に告げると俺が気分を害する恐れがあると考えたからだと考えれば、納得できる。

 あえてそれを今伝えようと思ったのは、今後「不要」になったときへの布石か。急に言うよりは間に一段階挟んだほうがこちらも心の準備ができる、という配慮だろう。

 つまりはそういうことだ。

 ……そういうこと、なんだよな?

 論理的な結論を導き出しながらもなぜか疑念が晴れない。何か思い違いをしてるような気もする。

 俺は頭を悩ませながらステラの頭を見つめていた。

 ステラがおもむろに顔を上げ、一瞬目が合う。

 

「――っ」

 

 ざぶんっ、とステラが湯の中に潜った。

 数秒間水面にぶくぶくと泡が浮いてきていたが、やがてゆっくりと頭が浮上してくる。パタパタと手で扇がれているその顔は、のぼせきってしまったように真っ赤になっていた。

 

「その、なんとなくわかった気はするんだが、もう少し詳しく説明してくれるか」


 ステラはごくりと喉を鳴らしてうなずいた。


「だ、だからね、好きだから一緒にいたいの。ベルガが必要だからとかじゃなくて。なんなら私の方が必要とされたい。だから近くにいてほしい」


 必要とされたい? ステラのメリットの話ではなく? それはどういう……。


「……へ?」


 理解は唐突に訪れた。

 

「つまり、それは……」


 ステラが言わんとしていること。ステラが考えていること。

 そして、ステラの顔が赤いのは――お湯でのぼせたからじゃないということ。

 それが今突然に、急にわかってしまった。

 

「ちょ、ちょっと待て。それは、なんというか……」


 柄にもなく動揺して、声が裏返りそうになりながら言った。


「……俗に言う恋愛的な意味で?」


 ステラは少し間を押して、しかし確かに首を縦に振った。


「……俗に言う恋愛的な意味で」

「待て待て。待て待て待て待て」


 わかった。わかったがわからない。

 ――俺が? 俺のことが? ステラが? この愛だのなんだのから1番縁遠いこの俺が? 好きだと?

 

「……ふ、人違いじゃないのか?」

「違います」

「じゃあ俺が人違いをしてる? お前が実はステラによく似た偽物とか」

「正真正銘ステラです」


 俺は混乱する頭で、必死に納得のいく解釈を探し続ける。

 

「……そうか」


 少し考え込んだところで、合理的な説明が思い浮かんだ。

 それが意味する残酷な現実に胸を痛めた俺は、悲痛な思いを顔に表して首を横に振った。

 

「ステラ、お前……とうとう頭がおかしく……」

「失礼よ!!」


 今度は怒りで顔を真っ赤にしてしまった。俺は頭が真っ白だった。

 

「だって俺だぞ!? この手は人を抱くためでなく殴り倒すために、この口は愛を語るためでなく人を罵倒するために、この足は人とともに歩むためでなく倒したクズどもを蹴り上げるためにあるんだぞ!?」

「なんで急に詩人みたいになるの」

「俺にもわからん!」


 何もかもがわからん!

 

「説明を要求する! 何がどうなってそうなった!」


 俺が言うと、ステラは視線を泳がせた。

 

「それはつまり……本人の前で、どこが好きなのか赤裸々に語れと?」


 ……なるほど。人を好きになる感覚はよくわからないが、惚れた弱みというくらいだしそういう理由を明かすのはためらわれるものだろう。

 ――だが、今回ばかりはそうしてもらう他あるまい。

 

「そうだ」

「……わ、わかったわ」


 ステラはうなずき、咳払いをした。

 

「なんていうか……真っすぐなところ?」

「いや、歪みきってないか俺?」

「物理的な話じゃないから体はくねくねしなくていいわ」


 俺は左右に波打たせていた背筋をしゃきっと伸ばす。頭の混乱が体の方にまで悪影響を及ぼしているようだ。落ち着け、俺。

 

「まあ、曲がりすぎて一周回って真っすぐっていうか……ちゃんと信念を持って生きてるじゃない。ほら、初めて会ったときだって曲がりなりにも魔王を倒したのにそんなことそっちのけで私のこと気にしてくれたし」

「単に魔王とかどうでもよかっただけだ」

「でも私を傷つけたことはどうでもよくなかった」


 俺は言葉に詰まり、思わず苦虫を噛み潰したような顔になる。

 ……それじゃあまるで俺がいいやつみたいじゃないか。


「つまりそういうことよ。自分が通すべき道理ってものを持っていて、いついかなるときもそれを曲げない。そもそもその道理が歪んでるのかもしれないけど、私はベルガのその歪んだ真っすぐさに救われたの」


 ステラは淀みのない瞳で、それこそ真っすぐに俺を見つめた。


「世の中の正しさに背いて生きることもできるんだって。魔王である私なんかをちゃんと見てくれる人もいるんだって。魔王でも、こんな私でも……生きていていいのかもしれないって、そう思えたの」


 そう言って微笑むステラの顔はあまりに慈愛に満ちていて、やはり魔王と言うよりは聖人や聖女のようだった。

 いってみれば聖なる魔王だ。「悪い正義」の俺を歪んだ真っすぐだと言うのなら、「良い悪」のステラだって真っすぐな歪みではないか。

 そう考えたら、なぜか笑いがこみ上げてきた。

 その笑いは微笑に留めて顔に浮かべると、ゆっくり首を横に振った。

 

「すまん。正直今はまだそういうのはよくわからない」


 実際、本当に愛なんてものとは無縁で生きてきた。はっきりいえば、そんなものは欺瞞だとすら思っている。

 もっと汚い諸々の欲望を美化するために発明された、口当たり、耳触りのいい言葉。俺にとっては愛なんてそんなものだ。

 

「でも軽々しく突っぱねたりしていいものじゃないっていうことは知ってる。何よりお前の目を見れば、そう簡単に片付けるべきじゃない話だってことはわかる」

「……うん」


 ステラが穏やかにうなずく。

 

「だから時間をくれ。もしかしたらものすごく時間がかかるかもしれない。完全に今までの俺の常識とか価値観から外れた問題だからな。明日、あさってとかじゃなくて、もっと長い時間。でも必ず答えは出す。だから待ってくれるか?」

「わかった」


 素直にうなずくステラを見て、俺はひとまず安堵の息を漏らす。

 

「そういう真摯なところだよ、私が好きなの」


 ……安堵の息は咳き込みに変わった。

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