春をいただく
ほしちか(上田 聡子)
早春、帰る
三月の下旬、ようやく陽射しがぬくもってきた時分、私は息子を連れて港のほうへと歩いていた。さっきからうっすら匂ってきていた潮の香りが、ひとつ通りを裏道に入っただけで、いっそう濃くなった。あちらの家でも、こちらの家でも、軒先にイカや魚の干物が網をかけられて干してあり、独特の生臭い匂いが、漁師町の路地には染みついていた。
「ねえママ、ママったら! どこに行くの。どこまで行くのっ」
さっきから私が手を引いている息子の真人(まさと)が、苛立った声を上げた。真人としては、急に今までの家を出て、いきなり北陸の田舎の港町に二人で引っ越すことになって、十歳の彼なりにひどくとまどっているはずだ。でも、私には、もうここしかなかった。自分の帰る場所が、この小さな小さな漁村にしか、なかったのだった。
路地の出口まで来ると、一気に目の前に、白い漁船が並ぶ港へ出た。むせるような潮の香りと、空を舞うウミネコの群れを見上げる。その風景が、家を出た十八の頃となにも変わっていないことに、私は安堵と複雑な思いを同時に抱いた。
目の前を、茶トラの毛並みをした、痩せた野良猫が横切って、息子が「あ」と声を上げた。
「猫だ、猫!」
草むらの陰にあっという間に姿を消した猫に、「あーあ」と残念そうな声を上げる息子を見て、私は声をかけた。
「この町では、猫飼ってもいいよ」
「ほんとっ」
私の声に、真人が頬を上気させる。それくらいしか、私は真人を喜ばせてあげられることが思いつかなかったけど、彼が喜んでいるようなのでほっとした。離婚した夫は、猫アレルギーで、絶対に飼うなと、私にも真人にもきつく言っていたから。夫と暮らしてきた家を、真人と二人出てきた今、猫だってなんだって、自分の飼いたいものは飼ってやろうと思った。
「真人、神社にお参りしていこうか」
「えー、まあいいけど」
港を背にすると、小さな坂が続いていて、そこを五分ばかり登って行くと、苔むした鳥居が現れた。木造の古い社殿の前に二人で立ち、さい銭箱に小銭を放り込んで、参拝する。
真人も私も、ぶつぶつとお願い事を唱えた。神社から出るとき、真人が口を開いた。
「ママはなんてお願いしたの?」
「うーん、この町で無事に暮らせますように、って」
「僕はねえ、早く元の町に帰れますように、ってお願いしたよ。反対だね」
そう言われて、胸がきゅっと痛んだ。学校の友達からも、慕っていたサッカー部のコーチからも、真人を引き離して、私の一存でこの町へ真人を連れてきたことに、今更ながら、これで本当によかったのか、と考える。
「さ、じゃあ、おじいちゃんの家に行こうか」
もやもやしてきた思いを振り切るように、私は真人に明るい声で声をかけた。これからの暮らしが、きっといいものであるようにとの思いをこめて。
古びた家の引き戸をがたつかせながら開けた。ひどくきしんだ音がしたが、それは昔だって同じだった。玄関から目の前に伸びる薄暗い廊下には、まだ明かりがついていない。私は、壁のスイッチをぱちんと入れて、廊下に灯をともした。
靴を脱いでたたきにそろえ、真人と二人、家にあがりこみながら、呼んだ。
「おとうさーん」
そのまま暗い居間へと入ると、台所のほうで物音がした。居間との間にかけてあるのれんをくぐり、台所へ入ると、コンロの前で、父が何やら炊事をしていた。
私たちの入って来た音に、父が振り返る。くたびれた丸首の白シャツに、灰色のハーフパンツを穿いている猫背姿は、前に見た時よりもいっそう小さくなっているようだった。
「帰って、きたか」
父のつぶやきに、こう返すしかなかった。
「帰って、きたよ。帰るしかなかった」
「そうか。いろいろ、大変だったな」
無骨な父の気遣いの言葉に、思わず目頭が熱くなった。少しこちらを慮ってくれる、その気持ちにただ、ほっとした。
「ちょうどお前の離婚のタイミングと、ばあさんを老人ホームへ入所させる時期が同じだったからな。とりあえずこっちはひと段落したから、お前が帰ってきたのが入所のあとで良かった」
「本当にお世話かけてごめん」
父は、私の言葉には答えず、壁の古時計を見上げると言った。
「真人、腹へったか。五時半だが」
「……うん」
真人は言葉少なにうなずいた。久しぶりに会う祖父——私の父に緊張しているのだろう。
「今、小鯛を焼いとるからな。せっかく来たのに、じいちゃんの下手な料理しかなくて申し訳ないが、勘弁してな」
夕食の卓袱台には、焼いた桜色の小鯛に、漬物、アジの刺身に、ご飯と味噌汁が並んだ。真人はお腹が空いているはずなのに、少しずつしか箸をつけない。父が、とまどったように聞いた。
「真人は魚、嫌いなんか」
「あまり東京で食べさせてなかったから。ほら、義時さんが、お肉しか食べなかったから、魚はほとんど食卓に出さなかったの」
そう言うと、父は渋い顔で「ああ」と合点したように頷いた。
離婚した夫——義時は、魚が食べられない男だった。骨があるのがめんどくさい、味がたんぱくで好みに合わない、肉なら好きだ、食事には肉を出せ。そういう方針で、献立を考えるはめになったため、私は真人にほとんどこれまで魚を食べさせる機会に恵まれなかった。
「おいしくない?」
真人に聞くと、真人は困ったように、小鯛の身をつつきながら、
「あまりよくわからない」
と言った。家ではハンバーグやカレーといったものを好んで食べる子だから、本当に今日の質素な食事は食べなれないものなのだ。真人はただでさえ、食が細く、体も小さいから、本当はいっぱい食べてほしいのだけど、なかなか難しいようだった。
「なんか冷蔵庫に食べられるものないか、見てくる」
そう言って席を立った私に、父が声をかけてきた。
「千香子。鍋に熱湯を沸かしてくれんか」
「え、なに? お湯割りでも飲むの?」
父が焼酎のお湯割りを好きだったことを思いだしながら、けげんな顔で聞く私に、父は、
「いいから」
と言って、湯を沸かすよう促した。
私は台所の棚から鍋を取り出すと、コンロに火をつけた。お湯が沸く、こぽこぽという音がしはじめた頃、父も台所にやってきた。真人もついてきている。父が一緒に来るよう言ったのだろうか。
父はどんぶり鉢を食器棚から取りだすと、自分が食べ終えた骨だけの小鯛をどんぶりの中に入れ、そこに鍋のお湯を注いだ。そうして小瓶から醤油をひとたらしする。化学調味料の瓶も降り、軽く味付けした。
ふわっと、魚の出汁のいい香りがあたりに広がり、どんぶりの中に沈む骨から出たあぶらで、薄茶色のスープに丸い金の粒が浮かぶ。
「ほら、真人。いい匂いがしないか?」
「……うん、美味しそうな匂いがする」
真人も、自然と鼻をひくつかせていた。三人で卓袱台のある居間へと戻り、父はどんぶりを真人のほうへ差し出した。真人はどんぶりを、おそるおそる手にして、熱い汁を、一口すする。——飲み終えた顔は、上気していた。
「……おいしい! おじいちゃん、これすごくおいしいよ!」
父が顔のしわをゆがめて嬉しそうに笑った。
「そりゃあ良かった。魚の骨から出た出汁は、こうやって飲むとほんと美味いんだ。ここにごはんを入れて食べても、雑炊みたいで美味いぞ」
父のうながしで、真人がさっそく、白飯をどんぶりの中にぶちこんだ。かきこみながら美味しい美味しいと連呼している。私も同じように、自分の食べ終えた小鯛の骨を小さな器に入れてお湯を注ぎ、そのスープを飲んでみる。とても滋味あふれた味がした。
「——私、これ子ども時代に食べたこと、思いだした」
「おお、そうか。お前にももしかしたらつくってやっとったかもしれんなあ」
優しい優しい魚の出汁の味に、ふわっと傷んだ心ごと包まれた気がして、私は思わずどんぶりを置き、膝を抱えてつっぷした。自然と、涙が出てきてしまったのだ。
「ママ、あれ? 泣いてるの? なんで?」
不思議そうに聞く真人の気をそらすように、父が、どんぶりの中から魚の頭を取り出す。
「真人、魚は、めだまも食べられるんだぞ。ゼラチンみたいで、ぷるぷるして、美味いんだぞ」
「えー、めだまなんて、ちょっとこわいよ」
父と真人のたのしげな会話を聞きながら、私は上手く嗚咽を押さえられない。父が、ふとこっちを向いて、私の頭をぽんとなでた。『おかえり』とでもいうように、私の頭をなでたのだった。
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