フューシャと愚者のエスカトロジー

景崎 周

第1話:ピリカとカナン




「旦那さま! 旦那さま! 次の葉地ロトスまであともうちょっとですよ!」


 僕をまどろみから呼び戻したのは、ピリカの弾んだ声だった。


「……ありがと。敵影は?」

「ナシ、です!」

「順調すぎて逆に怖いなあ」


 どうやらピリカを膝に乗せたまま眠っていたらしい。

 あぐらを掻いた僕の腕の中に、すっぽりと小柄な体が収まっていた。


 深い深い霧の中。

 僕たちを乗せた二人乗りのゴンドラはゆっくりとくうを飛ぶ。

 いや、漂うと例えるべきか。

 とにかく微かな揺れとそよ風を感じる程度の超低速で、僕たちは目的地へと向かっていた。


「夜更かしさんは万病のもと、って旦那さまいつもピリカに言ってるのに。もう」

「ごめんって。以後気をつける」


 頬を膨らませたピリカの頭を撫でる。

 すると、すぐにピリカは僕に抱きついてきた。

 背筋が凍るくらい麗しく、ゆかしい微笑みを湛えて。


 肩上で切り揃えられた金糸の柔らかな撫で心地も、首筋から香る甘い体臭も、熟れたラズベリーのようなまん丸の瞳も、すべてが愛おしい。

 厚い生地のワンピースにジャケットを羽織っただけで絵になるのだから堪らない。

 背丈は僕の腰上あたりで、年齢は人間に例えるなら六歳程度。

 まだまだ幼く成長途中のこの子が、僕カナンのつがい、お嫁さんなのだ。


葉地ロトスはどっち?」

「正面です。旦那さまの目ではまだ無理かもしれません」

「うーん、見えない」


 眉間にしわを刻みつけても、葉地ロトスの輪郭すら視認できなかった。やはり人間の目ではピリカたちに敵わない。

 旧人類の創造した新たなる種族には。


「ピリカがしっかり目を凝らしていますからね!」

「頼んだ」


 再び前を向いたピリカのうなじに顔を埋めて、甘い匂いを堪能する。

 こうすると、考え事が捗るのは何故だろう。


「……旅って、命の駆け引きをしながら進むものだと教わったんだけどなぁ」

「ピリカの航路選択がとっても優秀だからですよ!」

「あはは、だろうね」


 自信満々な声色にひとしきり笑ったあと、深呼吸して耳を澄ませる。

 聞こえるのはピリカの脈拍と、僕の呼吸と、ぬるい風の囁きだけ。

 僕たちの周りには誰も何もいない。

 確かに息をしているものがいるはずの世界は、静寂で覆われていた。


 まるで、絶滅の瀬戸際にいる僕たちを嗤うかのように。


 遥か昔、人間は大地を踏みしめて生きていたのだという。

 しかし、いつしか大地は穢され、毒の沼で覆われてしまった。

 あらゆるものを腐らせる沼から、唯一芽吹いたのが巨大な蓮だったのだそうだ。

 地上で暮らせなくなった人間たちは蓮の葉を葉地ロトスと名付けて、次々と移住を開始した。その末裔が僕たちである。

 葉の上に都市を形成し、畑を作り、木々を植え、水源を確保し、近場の葉地ロトス同士をケーブルで繋ぎ、有毒の霧に耐えられるよう、自らを造り変えてまで、人間たちは生に執着した。


「ローブ……。旦那さま、ピリカのローブを――っ!」


 思い出したようにピリカが振り返ったその瞬間。

 荒れ狂う突風がゴンドラを襲った。

 僕は咄嗟に小さな体を片手で抱き、ゴンドラにしがみつく。

 幸いにも突風は間もなく過ぎ去り、体勢を持ち直した。


「怪我はない? 大丈夫?」


 猫背になって顔を覗く。

 臆病な彼女のことだ。

 パニックになって泣いてしまってもおかしくない。


「旦那さまぁ……うぐっ」


 案の定、涙ぐんだ生気の無い顔が僕をじっと見ていた。


「うぅ、ひぅっ……悲しい声が、しました……」


 まさか。

 いや、ありえなくはない。


「どこからかわかる?」


 尋ねてもぶんぶんと頭が横に振られるだけ。

 恐怖でまともな会話が成立しないのは明らかだった。


「大丈夫、大丈夫だよ。ピリカはずっとずっと僕と一緒にいるんだ」


 涙の伝う頬に口づけて、震える体を腕で包み込む。


「大丈夫。怖くない、怖くない」


 背中をトントンと叩いた手でゴンドラ後部の荷物を漁り、ピリカ用のローブを引っ張りだす。

 魔除けの刺繍が施されたクリーム色のそれを、優しく羽織らせた。


「これから行くところはとても残忍な人がいっぱいいるけどね、僕が絶対に護るから。だから絶対に離れちゃいけないよ」


 腕の中でピリカの頭が縦に動いた。


「僕のことはなんて呼べばいいか、覚えてる?」

「……ご、主人さま」

「ぶっぶー。不正解」

「カナン……さま」

「おしい。そっちじゃない」

「……うぅ、お兄ちゃん……?」

「大正解。僕たちがつがいだってバレたら、大変なことになるんだ。だから、僕とピリカは兄弟」


 また頭が縦に動く。


「フードも深くかぶって絶対に手足の先以外は出さないでね」

「ひぐっ、はい」


 やっと泣き顔が胸から離れた。


「じゃあ行こう」


 ピリカは目元を乱暴に拭って目的地へとゴンドラを再び動かし始める。



 目指すは有人廃都はいと

 肉欲に溺れた人間の住まう、退廃都市だ。

 


 *****



 かつて、人間には雌雄が揃っていた。

 だが、毒の霧への耐性を得る代償として片方の性を失ってしまった。

 そこで生み出されたのが新たなる種族、愛寵種フューシャだ。

 彼女たちは非常に愛情深く、陽気で、つがいの人間と最期まで添い遂げる性質を持つ。また、僕たちには使えない魔法と呼ばれる力を持ち、火を起こしたりゴンドラを飛ばしたりできる。

 女性性しか生まれない、優れた容姿の理想的な伴侶。

 願望をそのまま形にしたかのような愛寵種フューシャは、人間と共に時を歩み続けるはずだった。



 *****



 ケーブルの張られた正面ゲートを避け、そり立つ葉の淵から様子をうかがう。

 どうやら廃都の消霧機能は壊れていないらしい。

 視界が開け、覗き込んだ葉の外縁にゴミが積み上げられているのがよく見えた。

 人の気配もなく、侵入するにはもってこいの場所だ。


「だん……お兄ちゃん、ピリカ不潔なのは嫌です」

「端っこに下りるからちょっとだけ我慢して」

「いーやーでーすー!」

「僕だって嫌です。ほら、一瞬だから。有人廃都を出たら、すぐに水浴びできるところを探すから。ね?」

「本当ですか? ピリカに嘘ついてませんか?」


 ゴンドラの上、疑いの眼差しが僕を睨む。


「約束する」


 頭をなでると、ピリカの目つきが和らいだ。


「じゃあ、我慢します。約束破ったら怒りますからね」

「破らない破らない」


 説き伏せたピリカを抱えて淵に足をかけ、ゴミまみれの葉地ロトスへと降り立つ。ゴンドラは荷物ごと魔法で縮めて、いつも通りピリカのネックレスにした。


「くしゃいですぅ」


 軽い体を抱き上げたまま、僕は中央の居住区へと走った。

 ゴミ山よりもずっと高く天を貫く、歪な塔が目印だ。


 人口増や食料生産設備等の増改築で無秩序に太った鈍色の塔。

  まるで無数の太い腕が天に向かって救いを求めているかのような、悍ましい造形をしている。

 これまで通過した無人廃都とは一線を画す醜さに、だからこそまだここが有人でいられるのだと確信した。


 塔が立派であればあるほど、都市機能も優れている。

 浄水設備も、固形食糧生産も、人工燃料の合成も、人間が生きるために必要なものは全て塔が自動的に作り出してくれるからだ。

 塔が壊れれば間もなく人間は生命を脅かされ、略奪や病が蔓延する。

 この有人廃都には廃棄物を地上へと落とすだけの労働力はないようだが、これだけのゴミを生み出す人間は生きついているのだろう。


 旧人類の絶滅から数百年が経過し、僕たちはすでに塔に関する技術を失った。

 塔が致命的な故障を起こせば住人は生き絶え、廃都は無人となる運命だ。


 塔を横目に五分ほど走ると、荷馬車が行き交う石畳の道へとたどり着いた。

 ちらほらと通行人の姿もある。

 長い布をゆったりと体に巻きつけ、帯で留めた人間たちは、ほとんどが三十代以上の外見をしており、子供や若者は見当たらない。


「絶対に離れないで」


 再度念押しし、ピリカを優しく立たせる。

 固く手を繋いで、僕たちは居住区へと足を踏み入れた。

 居住区は掘立小屋が石畳の両脇に規則的に建ち並ぶ、粗末なものだった。

 区画ごとに濁った長細い用水路も散見される。

 トタン屋根の掘立小屋はどれも老朽化が激しく、パッチワークのように継ぎ足されていた。しかも、ほとんどが人一人が生活するのに最低限必要な大きさしかない。

 風呂は大衆浴場で済ますのだろうか。

 あるいは、濁った用水路が生活用水なのだろうか。

 僕としては絶対に触りたくない。


「ほわぁ、人間がいっぱい」

「びっくりだね」


 衛生環境はよろしくないが、賑やかで想像より人口は多そうだ。

 軒先を掃除する老人や道端で立ち話をする人もいれば、畜産物や野菜を売り歩く威勢のいい商人も見受けられる。

 旅人も珍しくないのだろう。

 僕たちに好奇の目を向けてくる住民はほとんどいなかった。


「よう兄ちゃん。随分暑苦しい身なりだが、遠くから来たのかい?」


 こんな風に声をかけてくる酔っ払いもいるくらいには訝しまれていない。


「北の生まれなんですよ。ここの人はゆったりとした服装で羨ましいです」

「だろ?」


 五十代中ごろの酔っ払いは立派な髭を撫でて豪快に笑う。

 濃紺のジャケットと、同色のズボンにブーツ。

 故郷では標準的な旅装束も、ところ変われば暑苦しく見えるらしい。

 簡単な世間話をした後、手短に市場の場所を聞いて、その酔っ払いとは別れた。


 別れ際、「その年でガキがいるとは、やるなぁ兄ちゃん。俺なんか六度も失敗しちまって、このザマさ!」と肩を叩かれたが、言葉を濁すしかなかった。


「お兄ちゃん」


 意味を察したのだろう。

 繋いでいた小さな手に力がこもる。


「用を済ませてすぐに出よう。人造石を換金して食料を買うだけだ」


 こくり、とピリカは頷く。

 市場は石畳の中央通りを直進して、酒場を右に曲がればあるらしい。


 僕はベルトに差したナイフを確かめ石畳を踏み出した。



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