6 裏の準備

 日向は硬質な床に叩きつけられた。

 声にならない悲鳴が漏れる。


 日向を投げた張本人――佐藤は心配の一言も掛けずに日向を見下ろし、


「『パラサイトくん』を取りに来たか思うたら、いきなりどうしたんじゃ。マゾにでも目覚めたか?」

「断じて違いますよ」


 苦笑しながら立ち上がる日向を見て、佐藤は目を見張った。


「おかしいのう。喋れるはずがないんじゃが」

「え、加減しなかったんですか?」

「日向なら大丈夫と思っての」

「大丈夫じゃないですよ。一瞬ひやりとしました」

「……他に試したいことはあるか?」


 微かな畏怖を抑えつつ、佐藤がぶっきらぼうに尋ねると、日向は「はい」即答を返した。


「次は関節技でお願いします」

「折ってもええか?」

「さすがに勘弁してください。もう盗撮動画を供給できなくなりますよ?」

「冗談じゃ。優秀なパートナーを殺す真似はせん」

「ありがとうございます」


 構える佐藤に、日向が突撃する。






「それじゃ訳を聞かせてもらおうかの」


 佐藤は淹れたばかりのコーヒーをすすりつつ、そばの地面でのびている日向に話しかけた。

 見るからに瀕死の様子で、佐藤は安否を確認するか一瞬迷ったが、日向はすぐに口を開いた。


「念のためですよ。戦わざるをえなくなった時でも、確実に勝てるように」

「護身術も武術もそんなにあもうないぞ」

「別に倒そうとは思っていません。逃げれば勝ちです」

「なら逃げれば良かろう。日向を捕まえられる奴なぞ、そうはおらんじゃろ。もちろんワシにも無理じゃ」


 日向は佐藤を見上げた。

 見た目は競馬場や釣り堀が似合っていそうな、ラフな中年である。しかし素顔は凄腕のエンジニアだ。表では有名なハッカーとして富を築き、裏でも悪名高いクラッカーとして財を成している。

 しかし、本質はそこではない。


 器量、要領、地力、地頭――根本的な賢さというものが、佐藤は特に優れている。

 だからこそ護身術も嗜み、武道も身に付けており、その服装の下にもそこそこ鍛え上げられた肉体を隠している。佐藤曰く、身体はすべてにおける資本らしい。

 だからといって、おいそれと身に付くものではない。それを簡単に身に付けているところが佐藤の強さであり、本質なのだと日向は思っている。


 そんな佐藤をして敵わないと言わしめる日向。

 日向自身、佐藤から一目置かれていることは自覚していたが、それでもおごりはしない。


「もちろん俺も逃げるつもりでいますよ。ただ、簡単に逃げられないケースがありえなくもない。目の前を塞がれた時とかそうですよね。そんな時に、それを越える力が欲しいんです」

「どんなケースじゃ。言うとくがの、具体的なイメージも無いまま漠然と心配する行為は、無意味にも程があるぞ」

「イメージはありますよ。トイレの個室とか」


 佐藤は黙ったまま、日向の意図を想像する。

 トイレの個室に追い詰められたら、確かに逃げ場はない。

 しかし、そもそもそんな状況に陥る展開がわからない。

 目の前の撮り師はカメラの設置による盗撮トラッピングを得意とするはず。慎重で念入りな性格も知っているし、どちらかと言えば、そもそもそんな状況に陥らないよう策を練るタイプだろう。


「佐藤さん、今日はありがとうございました。おかげでだいぶわかりましたよ」

「やられっぱなしにしか見えなかったがの」

「見た目はそうですが、学びはありました。体を張った甲斐があったというものです。効率的なフォームと動きで身体の一部を叩き込んでくる物理攻撃と、関節をきめたり勢いを受け流したりといった、抗えない人間の仕様や物理法則を突く技術攻撃。大別すると、この二つがあるみたいですね。特に後者は、一見すると力の無さそうな女性や子供や老人でも使えるから厄介だ――」


 後半は独り言になっていた。日向は天井を見つめたまま、ぶつぶつと呟いている。

 よく観察できているな、と佐藤は感心していた。


 日向の独り言が止んだ頃、佐藤もコーヒーを飲み終えた。

 思考の整理が出来たのか、日向は涼しい顔をしている。

 佐藤は結局、好奇心に従うことにした。


「それで、結局何をする気なんじゃ? ついに強姦ごうかんでもするんか」

「ついにって何ですか。しませんよ。俺のポリシーじゃない」

「あくまで盗撮をする、と?」

「はい」


 体術に備えるほどの盗撮活動――

 佐藤には想像もつかなかったが、日向が従来より大胆かつ過激なことを考えているのは間違いないだろう。


「次の作品。期待しとるぞ」

「期待しててください。佐藤さんの精を枯らしてみせますよ」


 二人は下品な笑顔を見合わせた。

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