3 浴室の攻防 中編
浴室は意外と広く、高校生二人でも窮屈には感じない。
祐理はバスタオルで身体を隠したまま、日向から距離を取ってしゃがんでいた。
どうしていいかわからず、もじもじしてしまう。
一方、日向はいつもと変わらないであろうマイペースで体を洗っていた。
「……背中。ごしごししてあげよっか?」
「断る。バスタオル持ったままだと力入らんだろ」
日向は祐理を
「そう言ってわたしの裸を見るつもりなんだ?」
「まあな。正直に言うと、楽しみにしてる」
「……」
それが上っ面の言葉でしかないということは、何一つ取り乱すことのない背中が語っていた。
服越しにはわからない、鎧のようにも見える背中。
昔からそうだった。触っただけで違うとわかる感触。ここに越してきてからも、どさくさに紛れて何度か触った。健在どころか、より強くなっているように思えた。
ただただストイックに鍛え続け、跳び続けた、トレーサーの証――
今だってそうだ。
風呂場には椅子が見当たらない。日向は空気椅子をしている。
そんな怪物のような男子を相手にしているのだ。中途半端では伝わるはずがない。
「……やったるもん」
祐理は小声で呟き、バスタオルをほどく。
瑞々しい裸体があらわになった。「ほう」日向が感心するかのような声を漏らしたが、体を洗う手は止まっていない。見向きもしない。
バスタオルをタオルポールに掛け、日向のすぐ背後でしゃがみ直した。
ちょうど背中をこすり始めたその手を掴み、泡まみれのボディスポンジを横取りする。両手で持ち直し、たくましい背中に押しつけながら全力でこすった。
「――……イッ!?」
堪え忍ぶ日向であったが、文字通り飛び上がった。
「ふふっ。効いた」
「当たり前だろ。皮膚は鍛えられ――」
日向の視線が祐理の身体を捉えて、一瞬固まる。
「鍛えられないからな」
何事も無かったかのように続けると、すぐに背中を向け、空気椅子を再開した。
「……」
「どうした? 洗ってくれるんだろ?」
「今、照れたでしょ」
「照れてない」
「じゃあ
「見惚れてない」
祐理は顔が自然とほころぶのを自覚した。
(わたしのカラダを見て、意識した……)
照れと呼ぶにはあまりに軽微な反応だったが、少なくとも無関心ではなかった。
男子が女子を見る目。
よくモテる祐理にはお馴染みの、多くの男子から向けられてきた視線――
「っふふ」
「……何がおかしい」
「べっつにー」
基本的に疎ましいものでしかなかったそれ。相手が違うだけで、こうも嬉しい。
祐理はニヤける表情と弾む声を隠しもせず、日向の背中を再び洗おうとしてボディスポンジを押し当てる。上下に動かそうとして、「およっ?」強烈な違和感が伝わってきた。
(……固くなってる)
金属みたいだ、と祐理は思った。
ボディスポンジを日向の肩に乗せ、空いた両手で背中を触る。
「何してんだ」
「なんでこんなに力入ってんの?」
「トレーサーたるもの、トレーニングは欠かさないんだよ」
「さっきよりもキレイな空気椅子だね」
祐理は気付いた。
さっきまでは鋭角だった。ひょっとすると祐理でも真似できるかもしれなかった、そんな空気椅子もどきの姿勢だった。
それが今は綺麗な直角が二つ、日向の空気椅子に反映されている。重力の存在を感じさせない、手品のようにも見える体勢だ。
しかし、触覚が伝えてくる感触が、イカサマではなく力業なのだと教えてくる。祐理にはわかるはずもないが、きっと全身の筋肉を総動員しないと実現できないのだろう。
「まるで何かを誤魔化してるみたいだね」
「何を誤魔化すんだよ」
「ふーん。そっかー……」
会話が途絶える。
祐理はボディスポンジを放置したまま、自分用のボディタオルを手に取る。湯で濡らし、石けんで泡立て、身体を洗い始めた。日向も再開した。
祐理は洗いながら、日向を覗き見る。日向は黙々と洗っていた。足の指先まで、細かく。直角はとうに解除され、肩が呼吸で上下している。
その往復に合わせるように、祐理の心臓も脈打っている。
祐理は緊張していた。
努めて平静を装いながら、期をうかがっていた。
いつ仕掛けるか。
普通に過ごしているだけでは、妹のような存在の域を出ることができない。出るためにはその境界を、一線を越えるしかない。
そのチャンスが今、目の前にある。
一線を越える。
それが何を意味するか。祐理は保険の授業で習った程度のことしか知らない。
それでも、日向となら構わないと思う。
日向だって、受け入れてくれるだろう。ただ、いつもは優先順位が低くて、相手にしてくれなかったというだけ。
今は違う。至近距離で、裸というシチュエーションだ。さっきも
脈はある。
隙はある。
仕掛ければ、おそらくは受け入れてくれる。
あとは一歩を踏み出すのみ。
「ふう」
シャンプーを流し終えた日向が顔を上げた。洗面器を壁のフックに掛け、湯船に浸かる。浸かる時に日向のそれが見えた。
鎧みたいな身体には似つかわしくないもので、思わずクスッと笑ってしまう。
「そんなに小さいか?」
「ううん、サイズは関係ないよ」
水面から顔だけを出している日向と目が合う。
「今、明らかに俺のムスコを見て笑っただろ」
「もしかして日向、気にしてる? コンプレックスだったりしてー?」
「いや別に気にしてないが、祐理ならサイズに詳しいだろうなと思って」
「……どういう意味だよぅ」
「祐理は俺と違ってモテるもんな。初体験はとうに済ませてんだろ? ちなみに俺は童貞だ」
ははは、と他人事のように笑う日向を見て、いらっとした。
冗談でも、そんな軽い女として見てほしくはなかった。
自分が見ているのは、見続けてきたのは、たった一人なのに。
「ねぇ日向。わたしも処女だよ」
祐理は微笑んだ後、湯船にダイブする。「おい待――」豪快な飛沫が日向を覆い尽くす。
間もなく、ずぶ濡れの顔が現れると、祐理は一気に距離を詰めた。
鼻と鼻が触れ合う距離にまで近づいて、
「はじめては日向のために取ってあるの」
正面から抱きついた。
胸を押しつけながら、「ひなたぁ……」耳元でささやく。
「わたしは、……いいよ?」
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