2 到着

 五月三日水曜日、午後十二時過ぎ。

 開始時間まで一時間近く空いているが、日向と祐理は会場に到着した。


 花博記念公園鶴見緑地、通称『鶴見緑地』。

 大阪府鶴見区に位置する都市公園であり、そこらの大学を凌ぐ敷地面積を誇っている。数字でいうと120haであり東京ドームおおよそ26個分。皇居と同等の広さだ。

 近隣住民のオアシスのみならず観光地としても知られ、過去には花の万博こと花博の会場となったこともある。


「人多いなぁ……」

「広いっ! おっきいっ!」


 乗用車が何台も併走できそうなほど広い道が伸びている。

 晴天に恵まれていることもあり、パッと見ただけでも百人を超える人が歩いていたりくつろいでいたりするが、それでも歩行者天国のような窮屈さは感じない。


「日向っ、早く早くっ!」


 子供のようにはしゃぐ祐理が日向の手を引く。


「わかったから落ち着けって」


 ちらちらと視線を向けられるのを感じる。祐理の格好を考えれば無理もない。

 上から白のTシャツ、小型で軽そうなリュック、ショートのデニパン、ピンク基調のランニングシューズとシンプルな格好だが、スタイルの良さもあってよく似合っている。何より豊満な胸や肉付きのいい太ももが眩しい。


 しばし歩いたところでトイレが見えてくると、「着替えてくるから待ってて」祐理を待つことになった。

 数分も経たないうちに祐理が出てくる。今度は上下ともグレーのスウェット姿だ。


「どうせ動くんだから最初からそれでいいだろ」

「今日はデートでもあるんだよ? わたしはしっかりおしゃれしてきたのにー」


 祐理が日向の全身を眺めた後、露骨にため息をつく。

 日向は上下とも黒のジャージだった。


「デートじゃねえよ。練習会だろ」

「そう思ってるのは日向だけだよ」

「お前な、練習会の場でそんなバカップルみたいなことしてたらどやされるぞ」

「知ってるもん。だから着替えてんじゃん」

「最初から着替えておけば楽だろうに」

「スウェットで新幹線に乗れって言うの?」

「問題ないだろ。祐理なら何でも似合うし」

「……そういう問題じゃないもんっ!」


 祐理が顔を赤くして言葉を詰まらせたが、呆れただけだろうと日向は捉えた。

 日向は身だしなみは整えても、おしゃれには無頓着であり、私服は基本的に着心地きごこちと機能性で決める。しかし女子はそうもいかないらしい。


 祐理は日向と出かける際、何かとおめかしをする。十分以上待たされたこともあった。

 別に恋人と出かけるわけじゃあるまいし、何をしているんだと日向は疑問に思い、ある日尋ねてみると、女子はそういう生き物だ、という何とも曖昧な回答が返ってきた。

 思えば道行く女性も、学校の女子も、大半が多かれ少なかれおしゃれをしている。日向は過去、盗撮目的で何人かの女生徒をストーキングしたことがあり、女子が鏡の前で何分も、場合によっては十分以上も留まることを知っていた。「そういうものか」とその時は納得したものだった――


 そんなことを思い出しつつ、祐理の背中を追う。


 さらに歩くこと五分――集合場所である花博記念ホール前広場に到着する。

 ここも人が多いが、一カ所だけ妙に存在感を放つ集団がいた。


 レールをひょいひょいと飛び越えている者。

 レールの上でバランスを取って歩いている者。

 その周辺にも、やたら動きやすさを重視した服装が複数人。外国人も混ざっている。

 そして全体的にスウェット率が高い――

 パルクール関係者であることは一目瞭然だった。


 日向はその内の一人に近づき、声を掛ける。


「新太さん」

「……やあ日向君。祐理ちゃんも」

「こんにちはー」


 トレーサー『アラタ』こと新井新太あらいあらた

 日本パルクール界の頂点とも呼べる人物であるが、日向と祐理にとっては気さくな知人だ。またそれは新太にとっても同じことだった。

 ただ、その事は誰にも知られていなかったため、「あの人達、誰?」「アラタさんと喋ってるぞ」「トレーサーか? 見覚えないけど」早速周囲がひそひそと盛り上がっていた。


「忙しそうっすね」


 新太は数枚の紙を手に持ち、何やら確認しているようだった。

 今日の練習会ではパルクール座談会も予定されており、話すのは新太である。そうでなくとも指導やサポートもこなすだろうから、運営側として忙しいはずだ。


「前半だけだよ。後半ははっちゃけるつもりでいるからね。日向君も付き合ってもらうよ」

「は、はぁ」

「わたしもわたしもっ!」

「祐理ちゃんは……うーん、また今度ね」

「新太さんひどいっ!」


 祐理を蚊帳の外にするほどの何か。


(またガチで勝負させられるのか)


 日向の目的は女性参加者の盗撮であり、盗撮が行えそうなのは前半の指導プログラムワークショップだけだと調べはついている。

 本音を言えば前半が済んだ後、さっさと帰りたかったのだが、新太の言葉から察するに叶いそうにない。


 日向が嘆息していると、一人の女性が近づいてきた。


「お兄ちゃんただいま。飲み物買ってき――げっ、渡会じゃないの!?」

「……新井か」


 新太の妹であり、日向のクラスメイトでもある新井沙弥香あらいさやかだった。


「やっぱり普段は演技だったのね。アタシを見てどぎまぎしてたのが信じられないわ」


 日向は目立つのを避けるため、学校では地味で気弱な男子を演じている。

 一方で沙弥香は容姿端麗、派手な身なり、校内屈指の運動神経に、誰に対してもずけずけと物を言う性格に、とスクールカーストで言えば最上位に位置する女子である。

 そのため日向は、沙弥香に対しては毎度緊張やら照れ隠しやらを過剰に演じていたが、先日ひょんなことで化けの皮が剥がれてしまった。新太に協力してもらい、他の生徒に漏らさない約束には漕ぎ着けたものの、今更沙弥香に対して演技を続ける意味はない。


「ていうか本当にお兄ちゃんのお友達だったのね」


 沙弥香は新太にペットボトルを渡し、「何見てんの」とプリントを覗き込んでいる。明らかに距離感が近い。


「新井こそお兄ちゃんとやらをずいぶん慕っていらっしゃるようで」

「学校で喋ったら殺すわよ」

「お互い様だ」

「まあまあ二人とも。それと日向君。新井呼びだと僕も反応しちゃうから、沙弥香のことは下の名前で呼んでくれないかな」


 新太が苦笑しながら提案する。隣の妹はゴキブリでも見るかのような目で日向を睨み、


「やめてよお兄ちゃん」

「俺は構いませんが」

「……」


 沙弥香の睨みが一段と増す。

 見つめ合っても仕方がないので視線を落としてみると、沙弥香もスウェットを着ていた。


 スウェットは動きやすい上に伸縮性があり、だぼだぼした見た目がパルクールの動きとマッチし、また長袖長ズボンで肌もガードできるためパルクールウェアとして重宝される。

 女性でありながら平然と着用する沙弥香は、明らかにパルクール慣れしている。


「じゃあ沙弥香ちゃんでっ!」


 言ったのは祐理だ。

 ずいっと沙弥香の前に出ると、その手を取って強引に握手した。


「新太さんの妹さんだよね? 会うの楽しみにしてたの。わたしは一ノ瀬祐理いちのせゆり。よっろしくー!」

「新井沙弥香よ。よろしく――いきなりだけどアンタ、アイツの何?」

「え? 彼女だよ?」

「違う。ただの幼なじみだ」

「でも一緒に暮らしてるもん」

「一緒にっ!?」


 沙弥香が叫ぶ。

 日向は大げさだと思ったが、冷静に考えれば年頃の男女が一つ屋根の下で暮らすなど相当なことだ。感覚が麻痺している、と日向は少し反省した。


「違う。ただ家が近所で、お互い行き来してるせいで敷居の感覚がないだけだよ」


 日向は祐理を強引に引っ張って沙弥香から距離を取り、耳打ちする。


「そこは隠せと言っただろうが」

「えー、別にいいじゃん」

「よくねえよ。来週から転入するんだろ。一緒に暮らしてると学校にバレたら面倒だぞ」


 そういえば祐理の住所はどうなるんだろう、と日向はふと疑問を抱いたが、施設長なら適当に対処するだろうと考え、頭の隅に追いやる。


「もー、仕方ないなー」

「頼むぞ」


 日向は祐理の背中を軽く叩いた後、その身を沙弥香に引き渡した。


「それじゃ沙弥香。今日はこいつの面倒をよろしく頼む」

「いきなり名前呼び? 馴れ馴れしくない?」

「新太さん。妹さんがガンつけてくるんですけど」

「ハァ!? いいがかりはやめなさいよ」

「無自覚って怖いな。美人の睨みって迫力があるんだよ」

「美人?」


 沙弥香がなぜかきょとんとする。

 学校の時のようにおめかししていないからかもしれない。今の沙弥香は普段下ろしているセミロングの髪をお団子にまとめ、メイクも無く、メガネを掛けている。しかし校内一と言われる美貌は健在で、そんなスポーツモードでも十分に美人だ。隠し通せるものではない。


「ねーねー日向、わたしは?」


 両手を頬に当てて首を傾げる祐理。きゃるん、と聞こえてきそうなほどあざとい。


「はいはい可愛い可愛い」

「おざなりー!」

「新太さん。俺、遊べそうな場所探しスポットシークしてきます」

「日向君、待ってくれ。みんなに紹介したいんだけど」

「人見知りなので遠慮します。それに俺は言葉よりも動きで示すタイプです」

「あーそう……」


 逃げるように走り去る日向。

 祐理は一瞬追いかけようとしたが、すぐに諦めた。どうせ追いつかないし、今日は参加者も多い。べたべたしすぎるのも印象に悪い。


 そんな祐理を見ていた沙弥香が、


「アイツのことが好きなの?」

「え!? べべべべ別にっ? 好きじゃないよ?」

「わっかりやすいわね」

「うぅ……沙弥香ちゃんひどい」

「青春してるのね。羨ましいわ」


 沙弥香は恥ずかしそうに縮こまる祐理の肩をぽんぽんと叩いた後、わざとらしく新太に視線をおくる。


「アタシの恋は報われないのよねー」

「ほー、沙弥香ちゃんも好きな人がいるんですなー」

「そっ。好きすぎて困っちゃうくらいよ」


 ちらちらとおくられる視線攻撃をスルーして、新太は逃げるように別の集団――レールで遊んでいるトレーサー達に混ざった。

 そんな二人の攻防を見ていた祐理にはピンと来るものがあった。


「好きなのって――新太さん?」

「……そうよ」

「そうだったんだ……」

「悪い?」

「ううん。気持ち、分かるなって」

「――え?」


 新太を愛する沙弥香だが、兄を恋愛対象として見ることが異常アブノーマルであることは知っている。

 てっきり難色を示されるかと思いきや、まさかの共感が来て、沙弥香は面食らっていた。


「わたしと日向もね、小さい頃からずっと一緒で、血は繋がってないけど兄妹みたいなものなの。日向にとってわたしは妹。恋愛対象にはならない」


 憂いを帯びた表情と声音で語る祐理を見て、同じ苦難を味わってきたのだと沙弥香は思った。

 同時に、同じ悩みを抱える同士と出会えたことが嬉しくて、思わず祐理に向けて手を差し出していた。


「お互い大変ね。頑張りましょ」


 祐理は目を丸くしていたが、間もなく微笑んで、


「――うんっ!」


 もう一度握手が交わされる。

 そんな美少女二人の、どこか微笑ましいやり取りは周囲の注目を集めていたが、会話内容を察した新太だけは冷や汗を流していた。

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