首なしの肖像画

一酸化炭素。

color:1 浅葱色

「お前の名前を、聞かせてくれるかな」


 キャンバスの小さな隔たりからひょっこりと覗いた、木炭のすすがついたつぎはぎの顔は微笑んだ。そんな笑顔を被写体は、じ、と見つめる。その顔が引っ込むと部屋を見回した。

 

 二人が住むにはいささか広すぎる部屋だった。しかし飾られたり立てかけられた色とりどりの絵描きのキャンバスや、旅行用ボストンバッグ程の大きな絵具入れ、並べられたミケランジェロ、ヘルメスというメジャーなものからヘラ、アポロといったマイナーな石膏像、粘土の作業台、そしてそれらを収める棚が、その空間を丁度良く見せる程度に人の歩ける場所を縮めていた。

 被写体のかつて訪れた、アカデミーの美術講習室よりも充実した芸術表現をするためのものを取りそろえた、アトリエだった。

 ワックスで磨かれたグレーの床には、彼が今まで制作をしていた跡であろう、絵の具の跡が散らばっていた。まんべんなく、というよりは彼が今イーゼルを立てかけている場所に集中している、彼は作業場にこだわりを持つ人なのだろうか。


 先ほどから絵描きと表記する彼は、だが絵描きではなく、それを趣味とした別の職種のものだった。しかしこの部屋に入れば彼は本物の画家のようにキャンバスを時に愛おしく、時に憎々し気に見つめる絵描きそのものだった。だから、この表現はいささかも違いないと、被写体は思ったのである。


「……貴方は、俺の名前を知っているでしょう」


 絵描きは、被写体と同じ役目を担っていた。通う場所もおんなじであり、何なら彼のアトリエと被写体の暮らす部屋は同じ建物の中にある、とにかく、彼らは日々を共にする”仲間”や”同僚”というカテゴリに入る間柄だった。


「自分の名前をどんな声音で、どんな抑揚をつけて呼ぶのか、そういった俺の記憶も、キャンバスに重ねておきたいなって思うんだ」


 絵描きは木炭を握った手を軽く振って見せた。彼の手の中の木炭は本来の半分もなくて、ところどころ僅かに削れたあとがある。絵具の散乱した床にも木炭の粉はあれど、折れた破片は見当たらなかった。使いこまれているんだな、と被写体はぼんやり思い、どんな人と比べてもわかるぐらい平坦で、温度のない声を紡いだ。


「ヴェノ・ディズシオ」


 空気をかき分けて、耳に届くためにまっすぐ歩いてくるような、通った声だ。絵描きは「ああ、よろしく」とまた、微笑むとパネルの壁へと顔を引っ込めていった。そうしてすぐ、ざりざり、と木炭がキャンバスを歩く音が聞こえる。絵描きは真っ白だったそれに、被写体の声を、今聞いた記憶を、色を、記録するように描くのだった。


「俺は、白秀矢人。……知っているだろうけど、お前も自己紹介してくれたからね」


 木炭の滑る音と、絵描きの声。それが昼にしてはやけに静かなアトリエによく響いた。冬の寒い日だからと、ストーブを付けて暖かいのに、”静か”は冷え冷えとして、不思議と入る前よりも体温が上がるような、暖かいという感触はしなかった。絵描きはここ以外ではひどく明るく、音の発生源は8割彼といわれるほどの騒音の発生源のはずなのに、静かで落ち着いていて、水の中にいる様にさえ錯覚させた。


 壁の隔たりの先にいる絵描きの浅葱色を彷彿とさせる雰囲気だった。ごみの少ない綺麗な、自分の故郷のエゼルタの海のような目だった。この静けさは深海にいけば味わえるんじゃないかとすら思った。水につかったときのような、冷たさ、でも次第にその冷たさが肌に馴染むような、そんな雰囲気だ。上を見上げれば、太陽の光を浴びてキラキラと不規則に揺らめく水面すらありそうだと思う。意識を常に覚醒的に保つ被写体には随分と珍しい、ぼんやりとした雰囲気だった。


「……、貴方がそうせよと仰ったからそれに従ったまでです」

「相変わらず義務的だな」


 ふふ、と笑いを零した後、あぁ、いけないと絵描きは咳払いをした。今の会話の流れで行けないと彼に感じさせる何かがあったのだろうか。


「いや、ね。相変わらずだなんていう先入観は消さなきゃなぁってね。初めて会った時のような、相手が何者であるか分からないような、そんな新鮮さをもってお前を描きたいんだ。ヴェノ」


 キャンバスからまた顔が覗いた。被写体はその言葉にどう返すのか脳を稼働させるが、わからずに沈黙を通す。


「……そうだな、お前と会った時のこと、お前自身から見たお前のこと、ゆっくりでいい、分かる範囲でいいから教えてくれね?」


 自分から見た自分。聞かれることも考えたこともなかった質問に、被写体は頭の中で文字列を形成する。客観的な事実、会った時の状況、情景。まるで動画を取っているかのような詳しい情景描写の思いつく彼の明晰で優秀な海馬の記憶を、適切で、今自分の使える言葉から一つ一つ、とっていく。


「少し、時間がかかりそうです」


 如何せん記憶だ。偵察書類、調書とは違い必要な情報だけを切り取るのではなく、相手にできるだけ適切に、分かりやすく伝わるように最善の文を打ち出さねばいけない。頭の中で、これは語弊を生む、これは堅苦しいとパズルのように言葉をはめては外す作業を繰り返す。相手は、高学歴、詩的情緒を兼ね備えた芸術家志向の男だ、それを念頭に置いて、正しい回答を絞り出す。

 そんな無表情を崩さぬまま思考に入った彼をみて、絵描きは笑った。


「どう伝えようか、と選ぶ言葉もまた、お前を構成する一つなんだろうね。ゆっくり考えてくれな」


 木炭をカッターで削る音が、沈黙の中静かに響く。そうして出来上がった鉛筆のように細くなったそれをざかざかと少し大振りに使う木炭の音が、思考の海で響いた。


「時間はたっぷりとある。お前の思うままに、自由に使うといいよ」


 絵の具の色選びをするような被写体の目を盗み見た絵描きは静かに笑うと、まだ白い目のアタリの部分に自分と同じ浅葱色を塗り付けるのだった。

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首なしの肖像画 一酸化炭素。 @notec0816

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