読後ゲロ味掌編

彩藤 なゝは

1. 心配傷

「未来」という言葉は、いっけん希望の光を感じさせるようで、実際は終わりの見えない暗闇だ。


 西口にしぐち 安子あんこはまさにこのとき、暗闇のわかれ道で立ちつくしていた。


 場所は自宅のリビング。


 机には安子と彼女の母親が向かいあうようにして座っている。

 そこに背を向けるかたちで置かれたソファには、安子の父親がタバコをふかし貧乏ゆすりをしながら腰かけていた。


 家族が集うこの光景を見て仲むつまじいと思う者は少ないだろう。

 そこにはひどくどんよりとした、重苦しい空気が流れていた。


 安子は悪いものを吸いこんでしまわないよう呼吸を浅くしながら、この家族会議が自分史上最悪なものになる、そう予感していた。


 時間は深夜の1時。

 普段なら母と父は眠りについている。

 しかしその日は3人とも、まだ眠れそうもない。


 ここ最近の議題はもっぱら安子の就職先についてだった。

 数ヶ月先に大学卒業をひかえた彼女は、幸運なことに2社から内定をもらっている。


 1つは出版社。

 安子が幼い頃よりずっと好きだった児童書レーベルを刊行しており、ここで働くことが彼女のかねてある夢だった。

 ただ会社は東京にあり、大阪で生まれ育った安子は実家をでて一人暮らししなければならない。


 もう1つは地元の食品スーパー。

 安子にとって特別入りたかったところではない。

 ただ自宅から徒歩7分で通勤できるところが魅力的だった。

 するとどうだろう、本命でなかった分リラックスしていたのが良かったのかもしれない。

 気づけば彼女は合格通知を手にしていた。


 もちろん安子の心は決まっていた。

 東京の出版社だ。


 彼女はやる気にあふれていた。

 幼い頃、自分が小説に夢中になっていたように、今の子供たちにも沢山の小説を読んでもらいたい。

 そして大人になっても大好きだと、心に残り続けるような作品を、それが世にでる助けを、もし自分が行うことができたなら、それはどんなに素晴らしいだろう。どんなに誇らしいだろう。

 これこそ私が産まれ、そして今まで生きてきた意味ではないか。


 安子は心からそう思っていた。

 しかし……


「東京なんて行ってどうするんよぉ。絶対スーパーの方がいいって!」


 安子の母は、かたくなに彼女の一人暮らしを反対するのだ。

 安子は必死に説得したが、母は一向にゆずらない。


 父は「安子の好きにしたらええやん」と言うものの、積極的に母を説得しようとはしない。

 安子も父には期待していなかった。


 何回も何回も繰りかえし話したことを、母はもう一度、染みつけるように安子へ言った。


「あんた貯金いくらあるん? 東京は物価高いんやから、引っ越し費用だけですぐ無くなるで? それに出版社なんてどこもブラックそうやのに、そんなん続けていけるんかいな。結局辞めることになっても、引っ越しまでしたんやからすぐにはこっち帰ってこられへんやろ? また就活するんか? 東京で? シッカリした子やったらな、お母さんも行って来ぃって言えるけど、安子は鈍臭いやんか。お母さん心配やわあ。東京で、しかも1人暮らしで、ちゃんとやってけるんか? 本読むんと作るんは全然違うやろ。本好きなんやったらさ、なおさら出版社なんて止めた方がええって。辛い仕事で嫌いになるかもせぇへんで? 好きなもんは好きなまま趣味でやったらいいやん。出版とかそういうんは一握りの特別な人だけがやれる仕事やで。安子が受かったのも何かの間違いちゃう」


 安子は耳を塞ぎたかった。

 今までずっと、自分の意思を捻じまげ母の言葉に従ってきた。でもこればっかりはゆずりたくない。


 夢が叶ったのだ。

 落ちてもガッカリしないよう記念受験と自分に言い聞かせながら、それでも企業研究や面接練習と、できる限りの努力をして掴みとった現実。

 それをそう簡単に手放せるわけがない。


 その一方で、安子は自分の気持ちを強く言い返せないでいた。

 母が言ったことはすべて、安子が漠然と気にしていたことなのだ。


 出版社での仕事に対するやる気や期待が大きくなるのと比例して、不安や恐怖もどんどん大きくなっていた。

 もし会社に馴染めなかったら、もし仕事があわなかったら、もし東京の見知らぬ土地で犯罪に巻きこまれてしまったら、もしお金が尽きてしまったら…………この心配事たちが、安子の中で肥大化し、彼女の夢にかげりをつくる。


 地元での仕事に、夢はない。

 しかし安心だ。

 見知らぬ土地で右往左往することもない。

 家に帰れば母の夕食が待っている。

 洗濯もしてくれる。

 お風呂も沸いている。

 朝は母や弟が起こしてくれるから、遅刻の心配もない。

 仕事が辛くなって辞めることになったとしても、この家にいれば金銭的な心配はいらないだろう。

 友達ともすぐに逢うことができる。


 安子にとって、母の言葉は蜘蛛の糸だった。


 期待と不安がないまぜになった混沌の世界で、天から垂らされた一本の糸。


 ただ安子にはわからない。

 それが自分を安らかな世界へ連れて行ってくれる救いの糸なのか。

 それとも未来の可能性を喰いつぶそうと怪物が待ち構える罠の糸なのか。

 あるいはその両方か……。


 ただ1つ言えることは、今まで大きな挑戦というものをしてこなかった安子にとって、その糸の魅力は時を重ねるごとに増していくのだった。


 結局その日は平行線のまま結論がでずに終わった。


 それから約1ヶ月、何度も家族会議を重ね、安子自身も自問自答を繰り返し、悩んで悩んで悩んで悩んで悩み通して、そして彼女は────


 平穏を選んだ。


「はい、はい、本当に申し訳ありません。ありがとうございました」


 通話が切れたことを確認し、安子はスマートフォンを持っていた右腕を下ろした。

 今まさに出版社の内定を断ったのだ。

 安子の右腕が少し震えた。


 何度も考え覚悟を決めたはずなのに、気を抜くと後悔しそうになる。

 電話は自室でかけていた。遮光カーテンが太陽の光を拒絶しているので部屋の中は薄暗い。


 ここにいたら、どうしようもない幼稚な感情に溺れてしまいそうだった。

 たまらなくなり安子は家を飛びだした。


 冬なのにジャケットも羽織らずでてきたため、冷たい風が身体につき刺さる。

 しかし安子にとってはこれくらい冷やしてくれた方がちょうどよかった。


 なんとなく小学校の方に向かって歩きながら、安子は周囲を見渡した。

 こうやって散歩のためだけに外を出歩くのは何年ぶりだろう。

 大きく息を吸いこむと、冷たく澄んだ空気が身体の中を循環する。


 見上げれば雄大な空がはるか向こうまで続いていた。

 遠くには山があり、それ以外でこの空を遮るものはない。


 横には建物と道の間をうめるようにして田んぼが広がっている。今は収穫が終わったあとで閑散としているが、いずれ美しい緑をなびかせるようになるだろう。


 この町は田舎だ。だがそれは都会と比べてであり、実際不便さはない。

 自転車で10分ほどの距離に駅や、コンビニや、ショッピングモールがある。

 もっと買い物を楽しみたければ、電車に30分乗ると繁華な駅に辿りつく。


 安子はこの町が好きだ。

 気疲れするほど都会ではなく、不便さを感じるほど田舎でもない。今でも連絡を取り合う幼馴染が何人かいて、そしてなにより、喜怒哀楽のすべてが詰まった思い出がここにはあった。


 ここで生きて行こう。

 やっと安子の心はさだまった。

 母の言う通り、好きなものに関わる方法ならいくらでもある。

 そうだ、感想ブログを立ち上げたら楽しいかもしれない。

 いつか私のブログを読んで本を買ってくれる人がいたら幸せだ。

 安子に目標ができた。


 郷土への愛情と、未来への希望を胸に、安子は新しい生活をむかえたのだった。




『──次のニュースです。

 大阪府で発生した通り魔事件について、近所に住む無職の男が殺人の容疑で逮捕されました。

 男は4月28日18時頃、仕事帰りの西口 安子さん(22)を背後から刃物で複数回刺し、殺害した疑いです。

 男と西口さんの間に接点はなく、「誰でもいいから殺したかった」と容疑を認めているとのことです。

 警察は引き続き当時の詳しい状況などを調べていく方針です。

 …………続きまして新コーナー、〈東京のココおいでやす〜〜〉の時間です。上京した新社会人の皆さんを東京の良いトコロへ案内したいと思います!それでは現場の────』

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