僕らの在り方

虚田数奇

僕らの在り方

 海の匂い。

 そう、海が近いのだ。

 家から歩いて数分もかからないうちに、海へと続く河口がある。そこから少し行けば、もうそこは海と殆ど変わらない。海なのか河なのか、どっちともつかない場所。そこで僕は、暇つぶしによく釣りをしていた。

 この街には、高校を卒業するまで、五年ほど住んでいた。

 気候は温暖、雨も少ない。その分水不足になりがちだったが、山と海に挟まれた、とても過ごしやすい街だった。

 久し振りに帰って来た街だが、それは少しも変わっていないようだ。

 棲んだ空気に混じった潮の香りが、とても懐かしい。

 その懐かしさが、僕の中に様々な想いを呼び起こした。

 親友と呼べた人。

 恋人と呼べた人。

 永遠に会えなくなってしまった人。

 そのどれもが、この街には存在していた。

 そう、存在していた。

 その全てを、僕は僕自身の不甲斐なさの所為で失くしてしまった。

 親友とは、呼べなくなってしまった。

 恋人とは、呼べなくなってしまった。

 僕が、僕自身から逃げ出したから。

 後悔していないとは言えない。

 けれど、忘れていたかったのは本当だ。

 と言うか、逃げ出してからの二年間、思い出すことは殆どなかったように思う。

 日々の生活に打ち込んでいる振りをして、無意識に押さえ込んでいたのだろう、この街であった沢山のことを。そうやって、生きている振りをしていたのだ。

 そんな毎日を繰り返していたある日、一枚の葉書が僕をここに舞い戻らせた。

 かつて親友と呼んでいた人の、訃報だった。

 「何故逃げる?」という問いの答えは簡単だ。向こうが追いかけて来るからに決まっている。

 しかし、逃げ続けた果てに待っているのはゴールばかりじゃなかったようだ。

 過去が僕に追いついてしまったのだった。



「マサシ、久し振り」

 それは、かつて僕が恋人と呼んだ人だった。

「トモカ……ああ、二年振りかな」

 トモカとは家が隣り同士だった。中学の途中で転校してきて、この土地に不慣れな僕に数え切れない程の世話を焼いてくれた。そうやって今、感謝の念を抱いていることが、余計に僕の罪悪感を押し固める。

「元気、してた?」

 とりあえず会話をしようという、トモカの言葉にも、僕は適当な返答が見つからず、黙ったままだ。僕は昔から、困った時は黙ってしまうという悪い癖があった。

「東京の大学、どう? 楽しい?」

 答えのない僕に痺れを切らして、質問を上乗せする。僕はポケットから煙草を取り出しながら、答えを搾り出した。

「うん、まあ……。ぼちぼち、かな」

「ぼちぼち、か。……楽しいとは、思ってないみたいね」トモカは僕の横に並んで言う。「癖だよね、楽しくない時にぼちぼち、って――」

 昔のままの気分で口に出してしまったのだろう。それに気付いて、トモカは黙り込んだ。会話がなくなったところで、僕は煙草に火を点けた。

「煙草、吸うんだ?」

「そりゃまあ、なんとなく、ね」

「なんとなくなんだ」

「ああ、なんとなくだよ」

 浮き上がっては沈む会話。

 喋ろうと思う意識、言いたい言葉はいくらでもあった。

 だけど、僕の中の「逃げた」という罪悪感が、僕の口の両端をしっかりと掴んで離さない。

 だから、しばらくの間、僕は黙って口を閉じていた。

「そろそろ、始まるから。行こう」

 煙草を吸い終えるのを見計らってか、トモカが言った。

 僕らは少し間を置いて、二人並んで歩き始めた。


 コータは、僕とは違って運動も出来るし勉強も出来るし、顔も良いので女の子にももてるという、絵に描いたような優等生キャラだった。

 いつもコータの周りには取り巻きの女の子たちがいた。けれどコータはそれを疎んでいたようで、取り巻きから逃げ出しては僕やトモカとつるんでいたのだった。

 その理由を聞いた時、コータは迷わずこう答えたんだ。

「だってさ、全く知らない、興味のない人間にいくら好かれても、俺自身は楽しくないじゃない」

 今考えると、コータはトモカが好きだったんじゃないか、なんてことを思う。

 あのぐらいの男子の年代だったら、女よりも男友達の方が気楽っていうのは至極普通なことだ。僕とコータは不思議と気が合っていたから、それはそれで当然とも言える。

 ただ、トモカとも一緒に居られたのは何故だったんだろう。

 それを考えると、さっきの結論に行き着く。

 そしてそんなことを考えると、僕の中でネバネバとした靄のような、鬱陶しい気持ちが湧き上がってくるんだ。

 これは嫉妬なのだろうか。

 だとしたら、何故そんな気持ちになるのか。

 過去形とはいえ、僕はトモカと付き合っていたのに。

 それを自分から壊したのに。

 後悔、しているのだろうか。

 逃げ出したことに?

 自分から逃げ出したのに?

 全ては自分が悪いというのに。

 だいたい、僕と別れてから、あの二人が付き合い出した可能性だってある。何を今更、という感じだ。

 過去が僕に追いついて、こんな妄執に取り込んだんじゃないだろうか。

 トモカと歩きながら、僕はまた煙草に火を点けた。

「煙草、吸いすぎじゃない?」

「そうかな? 普通だよ」

「そっか。でも、マサシが煙草かあ」トモカは、道沿いの河を眺めながら目を細める。「みんな、変わっていっちゃうんだね」

「変わらないものなんてないだろう?」

「でも、久し振りにあったコータは、全然変わってなかったよ」

「久し振りって……、トモカ、お前コータが死ぬ前に会ったのか?」

「会ったわよ。私、大学が大阪で、夏休みに入ってからこっちに帰ってきてたの」

 トモカは目を伏せながら言った。

「コータ、昔のままだった。私たち三人で毎日楽しんでた頃と、何にも変わってなかった。気まずくなって地元を出た私やあんたと違ってさ」

「そっか」

「でも、それなのに、なんで自殺なんか……」

「自殺? コータが自殺だって?」

「あ……」これは秘密だった、という風にトモカは驚いて目を見開く。「そうよ、コータが死んじゃったのは、自ら命を断ったから」

 まず脳裏に浮かんだのは、何故、という疑問符だった。

 人見知りはするけど、いつも明るく、且つ冷静で。時たま物事の真理めいた事を口にしたりして。三人で居るときには、僕らの笑顔が絶えないように、いつも笑わせようとしていたコータ。

 眉目秀麗、才色兼備で学校一の優等生。東大だって余裕だったはずなのに、地元の公立大に進学したコータ。

 かつて、僕の親友だったコータ。

 どのコータも、自殺という結果に結びつくような因果を持ち合わせているようには思えなかった。

 そもそも、自殺しそうな人間というのが、想像もつかないのだけれど。

「というか、なんでトモカは知ってるんだ?」

「私の実家に遺書が届いたからよ」

「それ、今持ってるのか?」

 コータが自殺した理由。自殺するまでに至った経緯。不謹慎かもしれないが、それはとても興味深かった。僕は知りたいと思った。知っておくべきだと思った。かつての親友として。

「今はコータのご両親のところよ。私も、じっくりとは読んでないの」

 とにかく、コータの実家へ急がねばならないようだ。

「行こう、まだ昼前だし。読ませてもらえるかもしれない」

 僕らは歩みを速めた。


 コータの実家は、昔となんら変わらぬ場所に佇んでいた。変わったことがあるとすれば、江川家葬儀会場、と看板があって花が立ててあるぐらいだ。

 コータの母親は心ここにあらずといった感じだった。父親の方といえば、やつれて頬がこけてはいるものの、まだしっかりとしている様子だった。父親は、是非読んでおいて貰いたい、と一通の封筒を差し出した。

 僕らは葬儀の準備が進んでいる一階の客間を避け、コータの部屋で件の遺書を読ませてもらった。

 その遺書に書かれた角ばった丁寧な文字は、紛れもなくコータのものだった。僕はそれを声に出して読み始めた。


『拝啓、親友たちへ。

 多分お前らがこの手紙を読んでる頃、俺の葬儀の準備やらが滞りなく進んでいるんだと思う。なんて、ちょっとカッコつけすぎかな?

 お前らは多分、なんで俺が自殺したんだろう、なんてことを考えていることだろう。そんなことはどうでもいいことだ、今すぐ考えるのはやめるように。

 人が死ぬ理由ってのは、意外と簡単なもんなんだ。いや、理由なんて簡単に作れる、といったほうが正しいかな。

 別に俺には、人生に絶望したとか、勉強に疲れたとか、心が押し潰れるほどの大失恋をしたとか、俺が両親の本当の子供じゃないことを知ったとか、半年も生きられない不治の病にかかったとか、そんなことは全くなかった。

 ただ、死ぬことで、生きることを実感したかったんだなあ、ってそんな風に思ってる。これを読んでるお前らにとっては今更だろうけどな。

 生きることとは死に至る病だ、なんて有名な言葉がある。

 つまりはそういうことさ。俺は早期回復に望みをかけたってワケ。

 俺はさ、お前らと三人で居たときだけが、本当に生きてるって感じてたよ。江川幸太っていう人間じゃなく、ただのコータとして、純粋に生を感じてた。そして同時に、死も感じてた。

 俺は人より欠けてるモノが多すぎたのかもしれないな。

 お前らが付き合いだして、歯車が狂っていくような感じを覚えて、俺は段々と遠ざかっていった。

 そしたら俺は、段々と、ボロボロと崩れて、砕けていった。

 心が空っぽになるってのはさ、自分が生きてるのか死んでるのかわからなくなってくことなんだな。

 だから俺は、決心したんだ。

 お前らと居たときに感じたあの生きているという感じ。

 それをもう一度感じる為に、俺は途中下車するよ。

 もう、あの時に戻ることはできないから。

 これが唯一の方法だと思ったんだ。

 それじゃ、来世で会おうぜ』


 読み終えると、トモカがすすり泣いていたことに気付く。

 そして、僕もまた泣いていた。

 何が唯一の方法だ。

 逃げ出したのは僕の方なのに。

 お前だけは変わらないままで、ずっと笑っていると思っていたのに。

 それも、僕の勝手な妄想でしかないのかもしれないけれど。

「でもさ……、戻ることは出来なくても、やり直すことは出来たんじゃないのか? コータ、お前ずるいよ……、一番楽な方へ逃げやがって。残された人たちの気持ちも、少しは考えろよ!」

 トモカはまだ、声を押し殺して泣いていた。

 僕は叫んでから、そこで気付いた。コータはこの手紙を書いている間だけ、きっとあの頃に戻っていたんだと。あの頃の純粋な、生を感じながら、最後の手紙を書いていたんだろうと。

 コータがトモカを好きだったんじゃないかとか、そんなことはどうだって良かったんだ。

 逃げちゃいけなかったんだ。

 トモカから、何よりコータから。

 僕がトモカと付き合いだした頃、急に気を遣いだしたコータを、僕は、僕らは引き留めなければいけなかったんだ。

 そして、心からコータを愛してくれるはずの女の子と四人で、新しい関係を築いていくべきだったんだ。

 離れ離れになっても、親友であり続けるべきだったんだ。

 もう、二度と会えなくなってしまった。

 何も、言ってあげられなくなってしまった。

 コータに生を感じさせることができなくなってしまった。

 僕らはただ、コータを想って泣いた。コータの父親が呼びにくるまで、喉がカラカラになってもまだ、泣き続けていた。


 葬儀はしめやかに行われた。

 僕らは泣き腫らした目をしたまま、ぼうっと葬儀の進行を眺めていた。やがてコータの棺が運び出された。火葬場まで一緒に来てくれないか、とコータの父親に言われたが、僕らは断って、少しばかり慌しくなったコータの実家を後にした。

 そして僕らは、高校時代によく通った、山の上の水族館に来ていた。当時はいた、マナティの姿はもうなく、そのスペースには代わりにクリオネがいた。

 コータの実家で貰った缶ビールを片手に、展望台まで出る。海に突き出た半島の姿は、昔となんら変わることはなかった。

 たとえ僕らが巣立っていっても、その途中でリタイヤする奴がいても、マナティはどこかへ行ってしまっていても、街は変わることなくそこに存在していた。

「さて、と。それでは旅立つ親友への祝杯をあけるとしますか」

「そうだね」

「コータに」

「コータに」

 映画で見た軍人のように、コータにささげて乾杯した。

 さっきまでの鬱屈とした気持ちは、もうなかった。

 もうコータに対して、かつての、という言葉を付ける必要はなくなっていた。

 コータは最期に、生を実感していたんだろう。ならば、それは僕らが三人で笑いあっていた頃と同じ気持ちになれた、ということだ。僕ら三人は、今もまた、親友のままだ。

 何一つ、変わってなんかいなかった。

 僕らはそれに気付かずに、ずっと背を向けていたままだった。

 こうやって人は、後悔と過ちを繰り返すんだろう。けれど、僕らは同じ後悔は繰り返さない。後悔することがあるとしたら、それはまた別の過ちを犯してからだ。今はまだ、それで良い。そうやって、大人という不器用で歪なものになっていく。

 二人で半島の景色を眺めながら、空に向かって、缶ビールを一気飲みした。喉が痺れて、すぐに吐き出しそうになったけれど、なんとかこらえた。

「流石に一気はきついわね……」

 すこししゃがれた声でトモカが言う。

「まあでもさ、こういうのもたまにはいいじゃん」

 気楽に僕は答える。あの頃のままの気持ちで。それを取り戻せたのだから。

「私たちさ、また付き合おうか」

 トモカの提案。少し考えて、僕は答える。

「遠距離恋愛はキツくないか?」

「大学はあと一年でしょ? それぐらいなら我慢できるわ。今までだって、我慢してきたようなもんだし」

「東京と大阪か……。どっちに就職する?」

「東京がいいな。マサシの大学も見てみたいし」

「それなら僕だって、トモカの大学見てみたいな」

「それは学生の内でもいいんじゃない?」

「それもそうだ。あ、つーかさ、東京は家賃高いし、やっぱ大阪にしよう」

「あら、大阪だって都会の方は家賃高いわよ」

「二人で折半だったらなんとかなるっしょ」

「え……?」

 僕は、死に至る病の早期回復なんて望まない。生きて生きて生き抜いて、この病を飼い慣らしてやるんだから。

 コータは途中下車してしまった。けれど、僕らがこうやって笑いあえるようにするために、わざとそんなことをしたんじゃないか、とも思える。

 それにしてはかなり大それたことをしでかしたものだけれど、そこがコータらしさなのかもしれない。コータは勉強も運動も出来たけれど、それ以外は不器用な奴だったから。

 親友が死んだというのに、僕らは山の上の水族館で、昼間からビールを飲み干し、同棲の算段なんかをしていた。

 不謹慎だ、と誰かが怒るかもしれない。

 でも、それでいいんだ。

 それが僕たちの、親友としての、恋人としての在り方だから。

 青く澄んだ海に向かって、僕らはコータの遺書を破り捨てた。

 切れ端は花びらのように、風に乗って旅立っていった。それはまるでコータ自身のようで、鼻の奥がツンとした。また一つ、新しい後悔をした。

 それをひとしきり眺めた後で、ひとしきり後悔した後で、僕らは歩き出した。

 親友よ、君の旅路に幸多からん事を。

 恋人よ、僕らの未来に希望が多からん事を。

 共に祈って生きて逝こう。

                                    

                                   

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僕らの在り方 虚田数奇 @erotaros

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