無知と無恥
無知であることを恥ずかしいと思う事こそが何よりも恥ずかしい。
我々がこの世界の全ての理を知ったところで、
『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』という言葉があるが、あれは物事の核心であると思う。
私は基本的に知らなければ聞く。聞けない状況下であれば、なるべく早い段階で
しかしながら世間は無知に対して全く不寛容で、こちらが知らないと言う事を知るなりしたり顔で「そんなことも知らないの?」「常識だよ」などと言い、蔑視の眼差しを向けるのだ。
我々物書きという生物が、なるべく情報を得ている方が作品を書く上で効率的かつ上質なものを仕上げられるというのは、無知な私でも知っている。
しかし、いかに知った様でも、やはり知らない事はあるのだ。単語一つとってもまだまだこの歳で
さて、常識とは何か。
最低限度知っていなければいけない知識とは何か。
これは常識と銘打ちながらも大変曖昧なものである。
例えば性別によってそれは変容するし、年齢によっても異なる。
職種、地域、国。
と、違いの例えを挙げればきりがない程。
しかしながら人々は「常識だよ」と、簡単に言葉にする。
さて、では私の考える常識とは何か。
それは性別や年齢、職種、地域、国が違っても、通じるものだと思う。
簡単に例を挙げるなら、「信号が青い時は渡って良くて、赤い時は止まらなければいけない」程度のものだ。
それ以上に高度な知識は、私は常識に含めない。
例えば、こういう人が居る。
「学校で習ったでしょ?」
私は問いたい。
「貴方は学校で習った事を全て覚えているのか?」
と。
言うまでもなく学校で習う知識、教養というものは必要であるから習わされる。だから当然覚えておいた方がいいものだ。
しかし小学生以上の方ならば想像がつくと思うが、全教科一語一句誤らずに覚えていられる人間が果たして居るだろうか。
いや、居るには居る。しかしそれは例外的な秀才。日本を出て海外の大学に進学し、そこで研究者になるレベルの人間だろう。
その秀才が「学校で習ったでしょ? 常識だよ?」
と言うのならば、ぐうの音も出ないが、そんなものを常識呼ばわりされては、この世の中の常識そのものの価値が格段に上がってしまい、常識の下に何か言葉を作らなくてはいけなくなってしまう。
だからそういう物騒な事を言うのはやめよう。
更に言うなら、この地球上にある物質、或いは人が存在を確かめられる物質は、宇宙に存在する全ての物質やエネルギーと合わせた時、僅か4.9%程しかないのだ。
つまり先程の秀才が、この世の全てを知ったとして、それでも宇宙の内の4.9%しか知らないのだ。
私が先程ぐうの音も出なかった秀才ですらその程度なのだ。
知っている事より知らない事の方が圧倒的に多いという訳だ。
ならば今更何が恥ずかしいのか。
世界一の賢人ですら、宇宙規模で見れば95.1%の事を知らないのだ。
何も恥ずかしがることはない。それを恥ずかしいと思って聞かないで、一生知らない事の方が恥ずかしい。
聞こう。
自分より僅かながら知識のある人間に。
無恥な人間にならない為に。
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