天糸を紡ぐ者
冬瀬
第1話
「セッカ、起きろ」
「んー、まだお外真っ暗よ?」
父親に起こされたまだ幼い女の子は、その小さな手で眠たそうに目を擦る。
「悪いな。でもここにはもういられないらしい」
そう言う父親の顔は暗くてよく見えなかったが、その悲しそうな声色だけは目覚めたばかりの頭によく響いた。
彼は娘を背に縛り、あるだけの食料と武具を持って長年住んだ家を静かに抜け出した。
「とちゃ? どこいくの?」
幼いながらも異常な事態なのだと察したらしい。不安そうに男に聞く。
「そうだな、美味しいものでも食べに行こう」
「え、ほんとう? セッカうれしい」
娘は嬉しそうに顔を綻ばせる。喋りたい年頃なのだろう、回らぬ口でそれからも父に話しかけ続ける。
「ねぇ、とちゃ?」
「なんだ」
「誰かいるよ」
男は娘の言葉にはっとする。今は里から出るために森を歩いていたが、よく気配を探れば人気を感じる。
(もう来たか……)
「セッカ、おしゃべりはここまでだ。口閉じてろ」
「うん?」
歩幅をだんだん大きくし、最後、走り出した。
「気づかれたっ、追え!」
それまで尾行していた男が数名、一斉に追ってくる。
「あ、あれ。ソゾロとタヌイよ?」
娘は夜でも目が効くらしい、現れた人物の名を当てていく。しかし、顔見知りである彼らの手には鋭く光るものが握られている。
「いいから。舌噛むぞ」
男は物凄い速さで森を駆けていく。彼は里で一番の腕を持つ狩人だった。
「いたぞ、こっちだ!」
撒けたかと思えば見つかったらしい。
男の額には汗が浮かんでいた。
ひゅん、
聞き慣れた音がすぐそこで鳴る。
「いたっ」
セッカの肩をかすめた矢は木に突き刺さった。 父親はそれまで前に前にと走っていたが、足を止める。
「とちゃ?」
振り返り、己も腰の剣を手に取る。
「いいか、セッカ。俺たちは今、命を狙われている。迷ったら死ぬ。やらなければ死ぬ。弱い者が死ぬ。それがこの世の理だ」
そう言って彼はセッカを背負ったまま、現れた3人の追手に剣を向けた。
一撃必殺。
まさしくその通りに、彼は追手の息の根を止めた。
セッカはじっと背中でその様子を見ていた。頭では先程言われた言葉が反芻する。幼い彼女にその意味などよくわかっていなかった。だが、横たわる男たちがドクドクと血を流し、それがもう動かないことだけは本能が理解した。肩の矢傷がもっと深ければ、自分もああなるのだと。
「行こう」
男は静かに手を合わせてから、その場を去った。セッカ三つの時である。
それから、セッカとセッカの父、ヒューガはいくつもの山を越えた。彼らが里に戻ることはニ度とない。
ヒューガは娘に狩人として、生きる術を叩き込んだ。元から娘の成長を早く感じていたが、彼女はありとあらゆることを吸収していった。獣の狩方、下処理の方法、食べれる植物、使える虫、魚の捕まえ方、泳ぎ方、何でも教えた。
勿論、セッカはそれをすぐにはこなす事は出来ない。時には失敗もしたし、怪我をすることもあった。それでも、ヒューガはあまり手を出すことをしなかった。それどころか、自ら武術を施した。 彼はいつでも追手の存在を忘れていなかったからだ。
「……父さん、なんで里を追われたの?」
彼女は一度、聞いたことがあった。
彼は、娘の顔を一瞥すると静かに語った。
話は単純だった。
あの日、夜に里を出た日の前日。その里の長が死んだ。毒を飲まされたようだった。ヒューガはその罪を着せられたのだ。彼はその里で一番の狩人。彼を慕うものも多かったが、だからこそそれをよく思わぬ者もいたという事だろう。そしてその人物にも心当たりがあった。長の弟。彼は自分が次の長になるために兄に毒を盛ったのだろう。
ヒューガは毒を盛ったのが、弟長だとわかっていた。そして、自分に牙を向けるであろうことも。
里の中で血を流したくは無いと、その日の夜に抜け出した。自分一人であれば、里に残って弟長に対抗できなくはなかっただろうし、毒の罪を被せられることもなかっただろう。しかし、彼には最愛の妻が残したセッカがいた。
「お前と外を見るのもいいかと思っただけだ」
セッカはそんな父が大好きだった。でも、彼があの晩殺めたかつての仲間のことを思って泣いていたことを忘れることはできなかった。
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