その5 ヒーロー

 鴻上は五秒ほど間をとると、明るく言った。


「おっと、『消す』って言っても社会的に、って意味だよ。うちとしてはマトがコンピュータに触らなければそれでもいい。叩けばいくらでもほこりが出てくる身だろ?」


 俺はふぅ、と息を吐いた。別に安心できることと言うわけでもないけれど。


「それに――マトは行くと言うさ。あの子はもらったものには必ず対価を返す」

「もらったもの……? まさか!」

「ここに来る前に、契約金の一千万ドルをマトのウォレットに入金した。もし、契約を破棄するならきちんと手続きを踏む必要がある」

「……」

「確認してみてごらんよ! マト」


 鴻上が声を上げる。気づいていたのか。

 俺は諦めて胸ポケットのスマートフォンを取り出して、テーブルに置いた。画面には「衣川マト 通話中」の表示が出ている。


「マト、スピーカー通話にした」

『……確かに、一千万ドル分のビターコインが入金されてるわ』


 仮想通貨だろうか。聞いたことのない名前だった。


『ダークウェブだけで使われている仮想通貨よ』

「返金はできないのか?」

『送金元のウォレットはもう破棄されてる。コーコー、有効なウォレットを教えて――』

「くれるわけないよな」

「さっき破棄したもの以外、持ってないからね」


 鴻上はわざとらしく肩をすくめた。


「じゃあ、いったん他の通貨に換金したらどうだ?」

『これだけの金額、いっぺんに換金するとレートに影響を与えるわ。差額を持ち出しで充当するにしても下手すれば十万ドルくらいは必要になるかも』

「くそっ……」

「鷹野クン」


 鴻上はドアに向かって歩きながら話しかけた。


「力なき正義は無力――それは僕がずっと感じてきたことだ。世の中にはもっといろんな理不尽や暴力が渦巻いている。この程度の壁、乗り越えられなければ正義なんて執行できないさ――鍵は職員室に返しておいてくれよ」


 そう言い残すと鴻上は手を挙げて部屋を出て行った。


『ごめん、祐。私のミスだわ。マルウェア as a Serviceをやっていたときのウォレットが生きてた』

「今さら言っても仕方ない。どうすればいいか考えよう、マト――」


 返事はなかった。俺はスピーカー通話を切ってスマートフォンを耳に当てた。

 それでもなにも聞こえなかった。


「マト?」

『もういいわ』


 ようやく聞こえた声は不自然に明るかった。


『祐が変なこと言うから、ちょっと迷っただけ。あの契約金があれば、あしたば園の建て替えも余裕でできるし、契約だってたったの三年だもの』

「マト――」

『三年経ったら帰ってくるわ。そのときは――会ってくれる?』


 言葉が出なかった。三年間、会えないこと前提の言葉に肯定なんてできなかった。


『その頃は祐は大学生か。もしかしたら理乃と付き合ってたりしてね』

「そんなことあるわけねぇよ」


 長い沈黙のあと、嗚咽のような音に紛れてかすれた声が聞こえてきた。


『もう……少し……一緒にいたかったな……』


 声をかけようとしたけれど、かける言葉が見つからなかった。


 力なき正義は無力――本当にそうだ。俺には力がない。仮想通貨なんて、ニュースで見聞きする範囲でしか知らない。だから、マトのことも助けられない。試験問題漏洩事件だって、通販サイト詐欺事件だって、俺ができたことはほんの一部だ。俺は一人じゃなにもできやしない。


 こんなとき、ヒーローはどうするんだろうか。きっと、ヒーローは一人で立ち向かうだけの力を持っている。その力を持たない俺はヒーローにはなれない。


 ――いや、違う。


 俺の脳裏に、強大な怪人に立ち向かう五人の戦隊ヒーローたちの背中が浮かんだ。嫌いだったはずの、たった一人の怪人に五人で戦うヒーローたち。

 一人では戦えないほど弱いのかもしれない。

 でも、彼らは紛れもないヒーローだ。


 そうだ、俺には仲間がいるじゃないか。


 俺は生活指導室を飛び出して部室棟に向かった。

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