5.『No Man's Sky』のこと(「第一回遼遠小説大賞」に寄せて)

 4月2日~6月8日まで開催されていたこちらの企画――


第一回遼遠小説大賞

https://kakuyomu.jp/user_events/16816927862113636016


 に私も拙作――


造りかけの故郷

https://kakuyomu.jp/works/1177354054918989620


 で参加させていただいており、ありがたいご講評――


第一回遼遠小説大賞結果発表&講評

https://note.com/tatsuinoradio/n/n5aa03f0ca4d9


 も頂戴いたしましたので、それに絡めて拙作のことについてなにか解説のようなものを残しておけたらな、ということでこの文章を書いています。


 さて、じつは今回の拙作にも着想の元になった作品があったりなんかしちゃったりして、という話なんですが、はい、タイトルにもう書いてありますね。

 『No Man's Sky』です。

 ええ、好きなんですよ、ノマスカ。

 でも、どこがどう好きなのか? と問われると、腕組みをして首をぐりんぐりん傾げることになってしまう、私。


 とりあえず概要的なことを説明すると、『No Man's Sky』はイギリスのインディーゲームメーカーであるHello Gamesが2016年に発表したFPS視点(のちにTPS視点も追加されました)の3Dアクションゲームで、最大のウリとして押し出されていたのは、AIによる自動生成で生み出された1844京6744兆737億955万1千616個(多すぎてなにがなんだかよくわからない!)もの惑星を、宇宙船を操縦し飛び回りながら自由に探険できるという途轍もないスケールの大きさでした。

 ところがフタを開けてみれば、惑星の景観はそれぞれ一定のパターンが決まっていて数時間もプレイすればなんだか前にも見たような景色に行き当たったり、植物も惑星の環境ごとにある程度おおまかな種類が決まっていてやっぱり前にも見たような……動物もなんか色とか大きさは微妙に違うけど大体の姿形は決まってるみたいでやっぱり既視感が……と壮大なコレジャナイ感を醸し出してしまっていて、ゲーム性のほうもストーリーがほぼ皆無で、前述のような変化に乏しいフィールドの中、ちまちまと資源を採掘して燃料を確保しながら淡々と銀河の中心を目指す、という地味すぎるというか、ぶっちゃけつまらないものになってしまっていて、期待を寄せていた大勢のゲームファンを落胆させることになってしまったそうです(私は初期勢ではないのでここら辺の話は伝聞なのですが……)。

 私が「フーン、まあでもジャケ絵(参考:https://sm.ign.com/t/ign_jp/game/n/no-mans-sk/no-mans-sky_p2xe.300.jpg)のフインキなんかええ感じやしとりあえず買うてみよ(ポチー)」としたのがv1.3の大規模アップデートとなるAtlas Risesの少し前のことで、この時点ですでに数度のアップデートを経て、基地建設、農業要素、新しい乗り物の追加等、徐々にゲーム性の拡張は図られていたのですが、依然フルプライスのゲームとしてはいまいち内容が薄いという印象でした。

 ただ、このv1.3 Atlas Risesではシナリオが用意された一連のミッションが追加されて、ようやく薄かったストーリー性が補強され、おっ、ちょっとがんばりましたねHello Games=サン、とwktkする、私。

 でも、そのストーリー自体は正直に言うとベタなメタフィクションSFって感じで、あまり出来が良いとは……(ゴニョゴニョ

 まあ、そんなわけで、一度クリアして満足すると自然と私もプレイから遠のいていき、しばらく起動しない時期が続きました。

 ですが、『No Man's Sky』が“異常”だったのはこれからでした。

 Atlas Risesから約一年ごしにさらなる大規模アップデート、v1.5 Nextが投入されます。

 惑星の環境が大きく改変され、これまであらかじめ指定された地点でしかできなかった基地建設が任意の場所で始められるようになる(それに伴う建築パーツの増加)、本格的なマルチプレイの導入、TPS視点の追加、等々、様々な要素が一度に追加されました。

 このとき、発売からすでにおよそ二年が経過。

 しかし、Hello Gamesは『No Man's Sky』をこのまま終わらせるつもりなどさらさらなかったことを、プレイヤーは衝撃と共に思い知らされました。

 そして、それからv1.7 The Abyss(これまで探索する価値がほとんどなかった海中の環境を刷新し、潜水艇や海中基地建設の要素を追加)、グラフィック面の強化に重点を置いたv1.75 Visionsが立て続けにリリースされ、あれ、ひょっとしてこのゲーム、ふつうにおもしろいゲームだったのでは? と界隈がざわつきだします。

 ここからまたアップデートはしばらく中断期間に入るのですが、発売からおよそ三年を経た2019年8月、再びの大型アップデート、v2.0 Beyondが配信、マルチプレイの強化、Play Station VRへの対応など、またも環境が激変し、プレイヤーはうれしい悲鳴を上げました。

 そして、その後は2022年現在に至るまで、1~2ヶ月のペースでコンスタントにアップデートが配信されており、『No Man's Sky』はいまでも進化し続けています。

 それで、これが一番“異常”なんですが、じつは上記のアップデートはで行われたんですよね……。

 「DLC商法? なにそれ?(真顔)」と言わんばかりの蛮行。

 これにはプレイヤーもしめやかに発狂し、「頼むから金を取ってくれ」と懇願する者まで現れる始末。

 そんな声もどこ吹く風か、Hello Gamesはいまでもこのゲームをより素晴らしいものにするため、さらなる開発に邁進しています……(無償で)。


 と、長々と説明しましたが、このゲームの面白さの核とはなんなのか? と考えても……正直よくわからないんですよね。

 常軌を逸した長期間に渡るアップデートの配信で、さまざまな要素が追加されていくのは素直な愉しみになっているのですが(人型二脚歩行メカに乗り込めるようになったのには燃えました)、それでもこのゲームの本質は発売当初からなんら変わっていません。

 新たに降り立った惑星で資源を採掘し、装備を調え、ときには風景や動物を愛で、そしてまた次の惑星へ……。

 最終的に“銀河の中心”と呼ばれるポイントに到達すると、ゲームは一応のクリアとなるのですが、クリアした後は新たな銀河に転送され、再びその銀河の中心へと向かう冒険の旅が始まります。

 このある種の無限の虚無とも言える果てしない探険の反復に、なぜ私を含めたプレイヤーたちがこうも熱狂するのか、コレガワカラナイ

 いや、熱狂というと語弊があるんですよね。常温です。平熱。

 ただただフラットなテンションで淡々と続ける探索の、不思議な愉しさ。

 私は最近では完全に操作に慣れきってしまって、You Tubeで適当な動画を流し聞きしながらプレイするのが常態と化しています(一時期は『No Man's Sky』をプレイしながらニコ生で『No Man's Sky』のプレイ動画配信を聞いてるという狂った時期もありました)。

 ただそんなこんなで、気づいたら私は累計プレイ時間が1200時間ぐらいになっててこれはちょっとなんかおかしいんではないか? 頭大丈夫か?(自分?)と心配になる今日この頃。

 私はこれからも『No Man's Sky』をプレイし続けるのだと思います(すくなくとも、アップデートが続く限りは)。


 と、なんだかよくわかんないけど好きなんですよね、ノマスカ、という話をしてきたわけですが、今回の拙作「造りかけの故郷」は大きくこのゲームにインスパイアドされたものなんですね。というかノマスカやってなかったら多分この作品書けてないです。

 作中では、宇宙の果てを目指す旅を続ける探究者エクスプロラ(この旅路は『No Man's Sky』で描かれるものを反転したものです)たちが、その探険行のある時期に、なにかの感染症にでも罹ったかのように建築にドハマりする、という話をしたわけですが、ノマスカにも結構凝った造りの建築機能が実装されていて、これがなかなか楽しいんです(実際、旅そっちのけになるくらいに)。

 それで、やっぱり中には酔狂な人がいて、日本のお城を再現して建築してみました! なんて方もいるわけです(私はプレイしたことがないんですが、『MINECRAFT』なんかでも似たような現象が起こっているそうですね)。

 それで、そういう“模造”の愉しさ、ってたしかにあるよなあ、っていうことを、ある日起き抜けの寝ぼけた頭で考えていると、ふいにこの、宇宙の旅人が祖先の遺した偉大な建築物を遠い異星の地に再建する、というストーリーラインがバッと組み上がってきたんです。

 建物はどうする?

 サグラダ・ファミリア――これしかない。

 私は飛び上がって冒頭部分を殴り書きしました。


 ……実を言うと、それが二年ぐらい前のことになります。

 発表されたお題を元にヨーイドン! で書き始めるというこの手の企画に参加させた作品の解説として大分危うい話をしている自覚はあるのですが、未発表のものは未発表のものですし、冒頭以外は期間内に書き上げましたので、どうかご寛恕いただけないでしょうか、とここは伏してお願いするのみです。

 以降言い訳になるのですが、だいたいが私は生来惰弱なタチで、こうした自主企画などで進捗ケツバットでもされないと自発的に小説を書くということがなかなかできないんですが、これについてはほんとに企画とか〆切とか関係なくガッと書き始められて、しかも、これはきっと面白い物語になる、という良い手触りを感じたんですね。

 そこで、これはちょっと、大事に練り上げて書いてあげたいなあ……と思ったのが、これが多分悪かった。というか確実に悪い。

 気づけば二年の年月が経ち、結末までの流れもしっかり頭の中にあるのに、なんだかきっかけが掴めずに心のネタ収納箱に死蔵されたまま、そろそろ腐臭を放ち始めるか、というとき、今回こうして「第一回遼遠小説大賞」という機会に巡り合いまして、ここで書かないともう一生書けないぞ、とセルフケツバットしながら書き上げたのが経緯となります。


 なので、裏テーマ「小説はどこまで遠くに行けるか」に対する回答も後付けにはなってしまうのですが、単純に「距離的にも、時間的にも、(私たちから)遥かに遠い」場所を舞台にした物語を書く、というのが、私の回答になりました。

 なので「作者自身にとっての新しい挑戦」という点では若干不誠実なものになってしまったかもしれません。

 ただ、話者が読者に直接語りかけてくる一種の「書簡体」のかたちで物語を書くことは、私は今回初めて試みたことで、そこが私のささやかな挑戦でした。遠い未来の、遠い異星の知的生命体が語りかけてくるという物語の雰囲気は担保しつつ、それでいて意味不明にならずに、あくまで可読性は高いものにする、ということも心がけたつもりです。

 あとこれは個人的に楽しかった点なのですが、途中でいきなり「君」という呼びかけが挟まる、話の流れが蛇行するかのような迂遠かつ鬱陶しい大江健三郎エミュレートの文章を書く、ということができたのも謎の達成感がありました。


 そう、このエッセイでは前にもちょっとだけ触れたんですが、好きなんです、大江健三郎。

 最近読んでいないのでどこまで寄せれたかはなんとも自信がないのですが、具体的には『同時代ゲーム』の「僕」が「妹よ」と語りかけながら進んでいく文体をなんとなく意識していました。

 それと、私は今作が「『No Man's Sky』に大きくインスパイアドされている」と上述しましたが、もうひとつインスパイアされた作品があって、それが大江健三郎の『治療塔』と、その続編になる『治療塔惑星』という作品なんですね。

 大江健三郎は言わずと知れた純文学の大御所ですが、『治療塔』シリーズはその大江健三郎が“SF”というジャンルに挑戦した作品です。

 舞台は近未来、公害による環境汚染、局地的な核戦争による放射能汚染、エイズの蔓延などが猖獗し、ゆるやかに滅びつつある地球。

 人類は文明の存続を、世界各国から選抜された百万人余の「選ばれた者」に託し、「新しい地球」と呼ばれる惑星に向けて旅立たせます。

 そのを見送り、地球に残った人々は、言わば「落ちこぼれ」としての烙印を押された惨めさを感じながらも、したたかに日々の暮らしを繋いでいた。そこにある日、一報が届きます。出発していった大船団が、「新しい地球」への入植を断念して、地球に帰還してくるという報。

 一体、「新しい地球」で何があったのか?

 人類が存続していく可能性は、果たして残っているのか?

 物語は残留者であるひとりの女性の視点を通して綴られ、帰還してきた「選ばれた者」である彼女の従兄弟から、「新しい地球」で彼らが何を体験してきたのかが語られます。

 ネタバレにもなるので詳細は割愛しますが、そこで彼らが見たものは人類の上位存在とも言える知性体(登場人物の一人はより直截に「神」と言い表しもします)からの啓示とも呼べるものでした。

 続編である『治療塔惑星』では、「新しい地球」の更にその先の宇宙へ臨む人類の試みが描かれますが、そのとき主人公が抱く懸念が、次のようなものなのです。


「私が思い出していたのは『クマのプーさん』の、もしかしたら祖先の名前を記した表札じゃないかとプーが思い込む、壊れた「通行禁止」の立て札。私だけじゃなく同じクラスの誰もがミルンを愛読して、プーさんが発明するいろんな歌をよく声をあわせて歌ったものですが、あの沢山の子供たちの眼にふれた本の愛らしい挿絵に、宇宙的な知性体が示す「通行禁止」があらかじめ描き込まれていたのだとしたら……

(中略)

 そして私は朔ちゃんの応答を心に描いてもみたのです。

 ――もし宇宙の知性体が、それはどうも人類よりも格段秀れていそうな連中だけれどもね、リッチャン、地球のすでに頭のこりかたまった者にじゃなく、素直な心を持った、敏感な相手に、それもできるだけ沢山の者に「予戒」を示しておこうとするならば、子供の楽しむ童話の挿絵のなかに、というのはいい思いつきだねえ。……たださ、それを子供としての魂にきざみつけた連中が、実際にこの地球に責任をとりうる年齢になって、さて『クマのプーさん』の挿絵に思いあたるかどうか、それは問題だけれど……

 こうした朔ちゃんの答を思ったのも、あの人があきらかに大人になっても『クマのプーさん』の挿絵を忘れないでいそうなタイプだからです。その朔ちゃんがはるかなはるかな宇宙空間で、やっと建設した通信機関の端末機のボードに「通行禁止」と出てきたとしたら、どんなに情なく寂しい気持がするだろうと、私は沈み込んでしまったのでした」

(大江健三郎『大江健三郎小説6』、新潮社、1996年、361頁)


 終章で私が《メリダ=ティミス》に語らせた危惧は、明確に『治療塔惑星』で言及されたもののオマージュであるわけですが、それはいまの私たちにとっても十分に切実なものではないか、と思います。



* * *



 さて、元ネタの解説が済んだところで、ここからはいただいたご講評への私の感想というか言い訳に移りたいと思います。


 まず、辰井圭斗さんからいただいたご講評から……なんですが、「なぜ主人公を《メリダ=ティミス》ではなく《タツミ=シズヒト》にしなかったのか?」という問いに、そういえばなんでだっけ? と首を傾げる、私。

 たしかに、地球人の遠い末裔が、宇宙の果てで見つけた地球に酷似した惑星の上に、ついに完成することのなかったサグラダ・ファミリアのコピーを建設する、という話でもストレートにエモいものが書けそうです。

 というか、そうするのが普通じゃない? というご意見は、いや、まったくそのとおりだな、と思うわけなんですが、不思議なことに執筆を始めた時から書き終わる時まで、私の中では、《タツミ=シズヒト》を主人公にする、という案は欠片も浮かんできませんでした。

 これは個人的な好みの話になってくるかもしれないのですが、地球と縁もゆかりもない異星人が、地球人の末裔が遺した偉大な建造物の建設を引き継ぐ話、にしたほうが、エモい、とほとんど無意識的に私は判断したのだと思います。

 あと、作劇上の問題として、《タツミ=シズヒト》を主人公とすると、私の場合間違いなく分量が太ります。

 《タツミ》氏がどのような想いを抱いて母星から出立したのか。そして、長い旅路の果てに発見した《チキュー》の景色に対する感慨。そして、ここにサグラダ・ファミリアを再建しなければならないという決意。そして、実際にその建築を進める描写。その最終盤、十字架を尖塔に戴くことへの迷い。十字架が戴かれなかったのは、《タツミ》氏の真意だったのかどうか。それともなにかのっぴきならない事情で、サグラダ・ファミリアの建造はまたも途絶してしまったのか、どうか。

 ……こうした描写を過不足なく行うと、私の腕では2万字に収めるのは不可能です。ですが、そう思っていたところ、


“《タツミ=シズヒト》の物語は《チキュー》に留まるが、《メリダ=ティミス》の物語はどこまでも行ける。そこがこの作品の遠さでもあったのでしょうか。”


 というご意見には、はっとしたというか、正直完全に「作者の人そこまで考えてないと思うよ」と自分で思ったんですが、言われてみると物語の構造的により“遠い”感じは出せたのかなあ、と思ったところです。


 あと、キャッチコピーについてですが、辰井さんがほとんど完璧に私の意図を看破してくださっていてうれしかったです。

 これも個人的な好みの問題なのですが、私は、カクヨムでは細かく紹介文を書きたくない民、なんです。書く場合も、必要最小限に留めるようにしています。

 読む場合――これは本当に申し訳ないのですが、紹介文で長々とあらすじとか世界観設定とかを記入して、しまいには“…続きを読む”が表示されてしまっているご作品はその時点でブラバしてしまいがちな、私。

 カクヨムの体裁だと、いかにインパクトのあるタイトルとキャッチコピーで一本釣りするのかが勝負だと思っているんですよね。

 なので紹介文を記入しないようにすると、作品ページを開いてタイトルの後、ディスプレイを左から右まで目一杯使ってズバンとキャッチコピーを表示してくれるカクヨムの仕様を、私はとても気に入っています。


 そこで今作のキャッチコピーなのですが、手前味噌ながら私は「造りかけの故郷」というタイトルを思いついた時にはガッツポーズをキめました。

 “故郷”なのに“造りかけ”というのはいったいどういうことだろう? とここでひとつ読者に疑問を抱かせて、その上で、聞いたことのない惑星に東京タワーが建っていた、というさらに謎なシチュエーションをかぶせてフックにしたつもりです。

 正確に作品内容を表すのなら、ここはもちろんサグラダ・ファミリアであるべきなのですが、サグラダ・ファミリアではやや硬い感触がある。

 そこで日本人なら誰しも馴染みのある東京タワーを持ってくることで、より分かりやすいフックにできる、と思いました。

 身も蓋もないことを言うと、このコピーを語っているのは《メリダ》である必要すらなく、ただ広い宇宙のどこかにそんな場所がある、という状況に読者が思いを飛ばしてくれればそれで成功で、完全に読んでくれる人を釣ることだけ考えて私はタイトルとキャッチコピーを考えています。

 なので、辰井さんが「本編の外で物語の拡張をしている」と捉えてくださったのも、完全に「作そ考」なのですが、こんなに丁寧に読んでくださったのか、とうれしく思った次第です。

 ありがとうございます。



* * *



 次に、姫乃只紫さんのご講評なのですが、《メリダ》の選択について「むしろ積極的かつ健全な選択だと思います。」と解釈してくださったのも完全に「作そ考」(今回「作そ考」が渋滞しています)だったりして、ですが、そういうポジティブなかたちで受け止めていただいたのは素直にうれしいところです。


 「正直なところ、「途絶したその事績に接木をする」工程にあまり魅力を感じない」というご意見には、完全にそれを魅力的に描けなかった私の力不足なわけなのですが、講評発表後の辰井さんと姫乃さんの“オーディオコメンタリー”では、「でもよく考えれば創作とは畢竟そういうようなものなのではないか(大意)」というようなコメントをいただいていて、ブンブン頭を振って頷く、私。


 これは本作自体の話からはすこし離れる話になると思っていて、このエッセイでも以前書いたのですが、私は自分の創作活動というものは、これまで自分が摂取してきた優れた作品の要素を継ぎ接ぎして、そこにこう、自分なりの“圧”をかけてギュッと絞り出す作業だと考えています。

 要するに過去の名作の縮小再生産に過ぎない、ということは常に意識して(させられて)いるのですが、ただそこに“圧”をかけるやり方にはちょっと自信があるぜ、というか、作中の言葉を持ってくれば、「途絶したその事績に接木を」した部分、その余剰に宿るなにがしかのものが、“オリジナリティ”と呼ばれるものなのではないのかなあ、と、改めてそういうようなことを思いました。


 そしてやはりキャッチコピーについてはそういう問題もあるよなあー、というか、むしろそう捉えられるのが当然だなー、とここは反省するしかないところ。

 「キャッチコピーの一応の最適解」というのが、私自身としては辰井さんのご講評に関して上述させていただいたとおりになるのですが、こういうご意見が出て来るというのは、やはりキャッチコピーの扱い方について再考しなければならない、と意識させてもらいました。

 ご指摘、ありがとうございます。



* * *



 次は和菓子辞典さんのご講評です。


「まずSFをしっかりやっていて、高度な技術・上位存在・形態の異なる言語(16進数?)などなど楽しんで読んでいたら、マインクラフトのような話も出て来てきっと書いている方も楽しかったろうなと思います。」


 楽しかったです(ニッコリ

 そうなんです、年数とか距離とか16進数にしてみたり、SFチックなフインキを出せるように精一杯の小手先の策を弄したのですが、楽しんでお読みになっていただけたならなによりです。

 上にも書きましたけど、私は『MINECRAFT』のほうはやったことがないんですが、『No Man's Sky』もなかなかやり込み甲斐のあるクラフト要素があるので、そういうゲームにご興味があればぜひ一度(ダイレクトマーケティング)。


 そしてここからはまた「作そ考」になるのですが、本作の「遠い」はシンプルに「距離的に、時間的に、遠い」場所での出来事である、というゆるふわアンサーでお送りしましたので、ご査読の結果、作者の意図しないかたちでのきずつきが発生してしまっていたようで、もうしわけないやら深読みしていただいてありがたいやらです。

 でも、そう仰られると、たしかに、私もついずるずると惰性に任せた生活を送っているところで、「そちらを目指すのは自分のしたいことを見つけていないだけじゃないか」と言うオブジェクションには私も横っ面を張り飛ばされた思いです(『左利きのエレン』も、いつだったかkindleに落として積みっぱなしなので読んでみます)。

 大切な気づきをありがとうございます。



* * *



 次に藤田桜さんのご講評なのですが、これ、姫乃さんにもご指摘いただいた問題が最悪のかたちで出てしまったな、と大変申し訳なく思います……作中で、《タツミ》氏の建造物がサグラダ・ファミリアである、と明言していないところも完全に裏目でしたね……。


 ――これはほんとに言い訳でしかないのですが、サグラダ・ファミリアという名称を出すか、出さないか、は結構な悩みどころでした。

 その関係で何度か書いてはボツ書いてはボツを繰り返したりもしたのですが、建造物をサグラダ・ファミリアだと名言してしまうと、では、サグラダ・ファミリアとはどういった建物なのか? それを建築しようとしたアントニ・ガウディとはどういった建築家だったのか? といった、最低限説明しなければならない情報が芋づる式に増えてしまい、2万字に収めるにはかなりタイトな進行になる、という問題がありました。

 しかも、概要的なことを書き始めるとウィキペディアの引き写しのような説明が続くことになってしまい、これは作品として単純に面白くありません。

 そうならないように知る人ぞ知るような細かいエピソードを挿入しようとすると余計分量も多くなってしまいますし、根本的な問題として自分が不勉強なもので、細かいエピソードまで詳しく調べる時間もなくなっており、苦肉の策として取ったのが、建築物名や建築者名を伏せて、外見や内部の描写、また未完成であることなどから、これはサグラダ・ファミリアのことなんだな、と読者のほうに察してもらうのをお祈りするという、書き手としては大分甘えたムーヴでした。

 しかしそれを大いに攪乱する、キャッチコピーのトウキョウ・タワー……。


 藤田さんには、本当に本来無用なご苦労をかけてしまって、お詫びのしようもありません。

 にも関わらず、文章面では高く評価していただき、「小説として完成度が高く、非常に素晴らしい作品です。」とまで仰っていただいたのには恐縮する限りです。


 “常に読者の目線を忘れずに”


 教訓として、今後精進したいと思います。

 ありがとうございます。



* * *



 最後に、あきかんさんのご講評なのですが、「本格派SF。取扱注意の警告音」にニッコリする、私。

 実際のところはかなりの、なんちゃってSF、なのですが、フインキだけでも本格っぽく見せられてたのならこっちのものよ!

 ……と、喜び勇んだものの、結果として「小説遠投記録は0」に膝から崩れ落ちる、私。


 作者の意図としては「第二候補」のほうだったんですよねえ……。

 地球からの距離と時間ならウン億光年とウン億年ぐらいやから、単純な遠さやったら一番やろ、ガハハ、と安直に考えていたところを見透かされた感じです。


 故郷を常に心に抱いてしまう「心理的な距離間」。

 この捉え方に、ハッとしました。

 そう言われれば、仰るとおり、この「郷愁とでもいう気持ち」が、作品に色濃く出過ぎていたのかもしれませんね……。


 他の皆さんのご講評とも併せて拝読して感じるのですが、「小説はどこまで遠くに行けるか」という一見単純なテーマに、実に多様な可能性が含まれているのだな、と改めて感じました。

 自分が、そこにしっかりと向き合えていたのか、と考えると、やはりまだまだ了見が狭いな、と痛感する思いです。

 ありがとうございます。



* * *



 というわけでつらつらと書いてきましたが、やっぱり参加させてもらってよかったなあ(小学生並みの感想)、というのが実感です。

 やはり複数の角度から様々な批評をいただける場というのは、とてもありがたいものだと感じました。

 もしまた次の機会がありましたら、賑やかしにでも参加させて頂けたらと思います。

 今回は本当にありがとうございました!


myz拝

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