4.クトゥルフめいさく短編の世界

 と、頓狂なタイトルから始まりましたが、「第一回こむら川小説大賞」にわたしも拙作で参加させていただいておりました。たのしかった(小学生並の感想)、という文章。


 ――と言うと、え? 第一回こむら川? こないだ第二回無事閉幕したけど? という声が聞こえて参りますが、間違えてはいません、第一回の話なんです……

 というのも第一回のご講評を頂いた直後に、わたしは「わたしも近いうちに感想の感想みたいなのエッセイにして上げます」とツイッターで宣ったのですが――それから早、幾星霜。


 なんやかんやわたしがグダグダしているうちに季節は夏となり、めでたく第二回のこむら川小説大賞も開催され、盛況のうちに無事終了し、一部開催期間が重複して開催された第一回イトリ川短編小説賞の講評も恙なく出揃い、そして季節は秋を迎え――という状況でわたしはいまこの文章をしたためています。


 〆切から一週間前後ですべての講評と賞の決定までが行われるという川系のタイム感にくらべ、あまりにもだらしねぇ(レ)この体たらく。


 しかし一度言ったからにはやらねばならぬ。放たれた矢は必ず刺さる。天に向かって吐いた唾は、自分で飲み込まねばならぬ。……というか第一回イトリ川の方にはなんとか作品を捻じ込めて、軽い作品解説等(前エントリ)も書き、ご講評も頂戴し、若干ハイになってるこのタイミングじゃないと多分この駄文もう一生世に出せないぞ、というわけで以下本題です!



***



大会会場:

第一回こむら川小説大賞

https://kakuyomu.jp/user_events/1177354054893286563


わたしの参加作品:

スキマ

https://kakuyomu.jp/works/1177354054890793967


 というかそもそもナントカ川って何?って方もひょっとしたらいらっしゃるかもしれないので、ここでそもそも、「こむら川小説大賞」って何?って話をし始めると、そうするとまず「本物川小説大賞」について説明をしなければならなくなるので、「本物川小説大賞」についていまからわたしは説明するんですけど、「本物川小説大賞」はカクヨムにも作品を投稿されているプロ作家の大澤めぐみ(@kinky12x08)先生が2015年ごろからネット上で不定期に開催なさっている、「伝統と格式のKUSO創作甲子園」(原文ママ)、と銘打たれた創作大会です。


大澤めぐみの落花流水:

本物川小説大賞 カテゴリーの記事

http://kinky12x08.hatenablog.com/archive/category/%E6%9C%AC%E7%89%A9%E5%B7%9D%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E5%A4%A7%E8%B3%9E


 おおよその空気感は実際に講評を読んでもらうとして、各回でジャンルや字数など細かいレギュレーションは変動するのですが、基本的には、〆切り決めてみんなでよーいドン!で小説書いて、読み合おうぜ!というオープンでフランクな会合となります。


 ただ、おそらく最大の特色として稿という点があり、これがネットで小説を書いている人間からすればどれだけ破格なことなのかみなさんおわかりいただけることかとおもう!(ドン!)

 わたしは第七回のときにホイホイ参加したのですが、自分が自信持ってたポイントはしっかり受け止めてもらえつつ、でも内心ここは弱いな……と思ってたポイントにはスコーンとするどい指摘が返ってきて、でもその上でここはこうするともっと良くなるから!だいじょうぶやれるやれる頑張って!って感じで励ましてもらった感じがあったりして、すごく励みになりました。やはり同時に複数の方からまとまった量の感想をもらえるという機会はとても得難いものだと感じます。

 反面、評議員の御三方には大量の参加作の感想を捌くという多大なご負担がかかるのですが、それが〆切から一週間以内ぐらい(ヤバイときには三日)で発表される、というスピード感も大きな特徴で、ほんとマジパネェっす、ビッとしてます、ってわたしは思ってるんですけども、マジヤベェっす、ハイ。


 「こむら川小説大賞」もそのスピリッツを受け継いだもので、主催のこむらさき(@violetsnake206)さんは「本物川小説大賞」をキッカケに小説を書き始めて、これまで都合十回催されている「本物川小説大賞」にほぼ皆勤で投稿なさっている、いわば生え抜きの本物川勢で、そこで開催された「こむら川小説大賞」は本物川の支流というか、もはや第10.5回本物川小説大賞と呼んでも差し支えないのではないかという、そういう勢いの流れを感じるんですけれども、最終的に97作もの作品が集まり、大きな盛り上がりとなりました。その末席に、わたしの作品も混入させていただいております次第です。


 そこで以下、「感想の感想」ということで、わたしがご講評で「ん~~~~そこ突いてくる~~~~」と思った点について、書かせていただきます。

 よろしくおねがいします。


講評の様子:

https://note.com/violetsnake206_/n/nf0432fab382c


《謎の有袋類さん》

「ホラーは塩梅が難しいし、好みの問題も大きいのでなんともいえないのですが、個人的にはもう少し説明があるともっと怖かったかなと思います。」


 んー、そこー、やっぱ足りてない~! とわれながら感じるところです。


 これは完全に言い訳なんですが、今回主人公のトモヒサおじさんへの感情(とか思い出とか)を書き連ねたとこで5000字ぐらいの坂を越え、あ、やっべ、これ1万字に収まんねぇんじゃね?やっべ、と焦り始め、話の筋をで回収したものの目前には1万字のボーダーが厳然と迫っており、そのままゴールインしました。

 そこを一日ぐらい寝かせて、前半の字数を削って、後半の描写に費やしてあげたりすれば、もうちょいバランスのいい短編になったかもしれない、と思います。そこはわたしの計画性のなさで、大きな反省点です。


 次!


「これは何かクトゥルフとかそっち系の素養があるともっとよくわかるのでしょうか?」


 ん~、そこー!


 なんとなれば、そうなの、好きなんです、クトゥルフ。


 といってもわたしはクトゥルフ勢としては創元推理文庫のラヴクラフト全集を6巻まではいっぺん通読したはずなんですけど引っ越しの際にどのダンボールにしまったのかわからなくなって再読が叶わずに往生してるぐらいのヌルい人間なんですけど(最大限の予防線を張る)、好きなの、クトゥルフ。


 ラヴクラフト御大の作品では、短編だと『宇宙からの色』、長いのだと『狂気の山脈にて』がそれぞれ一番好きです。


 クトゥルフ神話。日本語では他にも、クトゥルー、とか、クルウルウ、とか呼ばれたりもしますね(ただし、ク・リトル・リトル、てめーはダメだ)。

 “神話”、と呼ばわれますが、実際に一部地域で信仰されている特定の宗教の説話、等ではございません。


 元を辿れば、1900年代初頭のアメリカで活動していた怪奇小説作家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトが、自身の執筆した複数の作品の中で、ある作品の中に登場したアイテムを別の作品の中にも登場させたり、同じ土地を舞台に使ったりする(アーカム市のミスカトニック大学は特に有名ですね)等という、一種のお遊びとも取れる趣向を施したことに端を発するのですが、ラヴクラフトの作品に通底する「宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)」とも称される雰囲気ムードから、彼の書いた作品群は自然と一種の創作神話のような色彩を帯びることになりました。

 そしてやがて、ラヴクラフトが文通していた作家仲間たちもこの“趣向”に参画し、自身の作品中にラヴクラフトが創作したものと同じアイテムや土地を登場させたことから、この世界観は一層補強されることになります。

 これが、現在まで脈々と続く“クトゥルフ神話”の起こりです。


 ラヴクラフトの世界観は、この宇宙には人類に好意的どころか悪意を持ち――というか、そんな感情があるのかどうかすら推し量ることのできない――強大で、(人類にとっては)邪悪としか言いようがない存在が跳梁しており、彼らの気まぐれひとつで人類がこれまで築き上げてきた文明など一瞬で吹き飛んでしまうような儚い均衡の上、いまわれわれは束の間の栄華を誇っているにすぎないのだ、といったもので、そこで登場する怪異たちも、従来の吸血鬼、狼男、幽霊であるとか、そうした言わば人間由来(わりと意思疎通もできちゃったりする)というものとは一線を画すものでした。

 意思疎通のできない、人間では全く太刀打ちもできない未知の存在が、特に理由もなく(もっとも、クトゥルフ神話作品の主人公には、ヤベー親戚が書き残したヤベー手記に書かれてあったヤベー場所にひとりでノコノコ出かけていったりするヤベー奴なんかが結構多いので、気の毒ながらある種の自業自得なこともわりと少なくない)突然情け容赦ゼロで襲ってくる、というのが言わばクトゥルフ神話作品の醍醐味のひとつなわけですね。


 ここからちょっとネタバレになるのでこれから読んでみたい(書籍を買うのはもちろん、いまではネット上で有志の方が翻訳なさったものも読むことができます)、って方はちょっと明後日の方向を見ながらシークバーをギュンッてしてほしいんですけど、わたしが上掲した『宇宙からの色』は短編ながらその精髄が詰まっていると思うんです。


 なにしろこの作品に到っては、登場する怪異は正体不明の謎の“色”。

 もちろん人間には知覚できないだけで、何らかの実体を備えたものなのかもしれないのですが、登場人物たちが感知できるのは、地球上の言葉では形容することのできない奇怪な“色彩”だけです。

 それがおそらくは隕石に乗って、偶然とある片田舎の谷あいの草原に墜落し、はじめは密やかに、しかし徐々にだれの目から見ても明らかに、土壌を、草木を、そしてそこに生息する野生動物、家畜、果ては人間までをも侵し、絶望的なまでに壊滅させ尽くしていく様子を、ラヴクラフトの筆は克明に描いてみせます。

 寒村(本作では谷間に点在するいくつかの集落という風ですが)の陰に籠った雰囲気の描写っていうのは最早ラヴクラフトの十八番というか、この舞台設定の時点で加点ボーンです。

 そして黴臭さすら感じるような、ラヴクラフトの大仰で持って回った筆致!

 ほんとにラヴクラフトの文体って、苔生してそう、っていうか、古めかしくて、

ぶっちゃけちょっと読みづらいんですけどそれが味っていうか(まあ、ここらへんは翻訳の都合もあるのかもしれませんが、アメリカに留学経験のある知人に聞いてみても「原著で読んでみたけど、やっぱりだいぶ古臭い感じの英語で書かれてある」という評でした)。

 そして怪異な“色彩”が何処かへと飛び去って行くラスト。しかし、それでもその残滓がまだその地には残っていて、更なる災厄をもたらすのではないか、ということを仄かに匂わせる余韻の残し方。

 もおー、満点です。

 ごおくまんてんあげたい。


 ここでそもそもの話をすると、わたしがクトゥルフのことを最初に意識したのは多分、セガサターンのRPG『デビルサマナー ソウルハッカーズ』(のちにプレイステーションにも移植されて、わたしはそちらでプレイしました)で主人公に「ラヴクラって知ってる?」って話しかけてくる怪しい女子高生のキャラ(それもネット上のアバターとしての姿なので、正体はなんとも知れない)からで、でもよくよく思い出してみればメガテンでは『真・女神転生Ⅱ』のころから「邪神 クトゥルー」とか「外道 オールドワン」とかがひょっこりいたりしてたので、わりと出会うべくして出会った、ってとこがあります。

 みんな大好きニャルラトホテプさまも「邪神 ニャルラトホテプ」としてご出場あそばしてましたが、中~高ランクの微妙な強さのユニットとして設定されてて、あのときは猫被ってたのかな、というか、ニャルさまならそういうのもキャラ的にアリかな、っていうか、その後『ペルソナ2』シリーズで悪の大ボスを張ったり、ラノベで萌え擬人化されたりすることになるとはおもいもよりませんでしたね(白目)

 ちなみにニャルラトホテプさまについてはニャルラトテップとかナイアーラトテップとか読まれることがありますが、個人的には「ホテプ」と読んだときの語感が、日本人的にはエジプトのファラオ(アメンホテプとか)を想起させるものがあり、登場する短編で「顔のない黒いスフィンクス」と形容されたりすることも相まって絶妙な感じがしてわたしは好きです。


 閑話休題。


 自作の『スキマ』の話に戻しますと、これ元ネタとしてわたしが十ウン年前に書いた自作がベースで、それをリライトしてみるぜという内発的企画の末の産物という側面があって、いまリメイク前のファイルのタイムスタンプみたら最終更新が2002年3月22日の作品なんですね。

 その頃はメガテンでクトゥルフ神話のキャラクターに一応触れてはいたものの、まだオリジンとなる御大の作品を読んだりするほどのめりこむ以前の話のはずで、そこでこういうものが捻り出されたのは、えらいぞ、わたし、という感じがあります。

 われながらこの「隙間のない本棚」というアイディアはなかなかフックのあるものがあると思う。

 ただ、凡人の考えるいいアイディアは大抵の場合天才が先に実現してる、というコピペかなんかのとおり、これもすでに上位互換的に達成されており、クトゥルフ者の方が今回のわたしの作品を読んだら悉くこう思われると思います。


 ――そうだね、『ティンダロス』だね。


 ……上述のとおり、“クトゥルフ神話”作品の中にはラヴクラフト御大の“お遊び”に便乗した文通仲間の作家の作品や、後年そうした作品に影響を受けたホラー作家の作品が今もなお現在進行形でマシマシされ続けており、有名所ではスティーヴン・キングもクトゥルフ物の作品を上梓したりしています(日本では小林泰三先生の作品がよく知られていますね)。


 そうした、ラヴクラフト自身以外の著者が書いたクトゥルフ神話短編、の中でわたしが最高傑作だと思っているのが、フランク・ベルナップ・ロングの手になる『ティンダロスの猟犬』という作品です。


 ロングはラヴクラフトとお互いがまだアマチュアの頃から、ラヴクラフトが早逝してしまうに至るまで親密な交流を持っていたそうで、他にもいくつかのクトゥルフ神話作品を執筆しているのですが、中でもわたしはこの『ティンダロスの猟犬』が出色の出来だと思っています。

 この作品が独創的なのは、やはり登場する怪異の性質によります。

 それは、「角度」です。


 そう言われてもなにがなにやら、と思うのですがここでちょっとあなたの周りを見回してみてもらいたい。

 大体90度ぐらいの部屋の隅の角、本棚の中で倒れかけた一冊の本が、別の本に寄りかかって作り出している30度ぐらいの角度。

 そうしたあらゆるものから、悪意に満ちた怪物が湧きだしてくるとしたら、どうでしょう?


 ここからまた盛大にネタバレに入るので、先に読んでみたい方はまたシークバーをギュンッてしてほしいんですけど、『ティンダロスの猟犬』は神秘主義に傾倒した友人の“実験”に主人公が立ち会うところから始まります。

 主人公の友人は東洋から取り寄せたある種の麻薬によるトランス状態を経てこの世界の実相に迫ろうと試みていて、主人公に立会人と記録係の役を依頼します。

 そして、友人は秘薬を口にし、まもなく時間遡行の体感を口述し始め、その企みは見事成功したかに見えるのですが、突如変性意識状態にあった友人が激しく取り乱し始めます。


「言葉ではあらわせない。角度をよぎってゆっくり動いている。肉体をそなえていない。異常きわまりない角度をよぎって、ゆっくり動いている」

(大瀧啓裕・編『暗黒神話大系シリーズ クトゥルー5』、青心社、1989年、55頁)


 このとき、主人公も部屋の中に「名状し難い」(出ました! クトゥルフ特有の形容詞)悪臭を感じ、急ぎ友人を揺さぶり起こします。

 そこで友人は一旦正気を取り戻すのですが、酷く怯えた様子で「ティンダロスの猟犬」と称される恐るべき怪異に嗅ぎつけられてしまった、と訴え始めます。

 その話に、これ以上は付き合い切れないと感じた主人公は友人を残して辞去しますが、翌日、友人からの電話を受け、その哀願にほだされて、友人が所望する物品を道中買い求めてふたたび友人の部屋を訪れます。

 友人が求めていたものは石膏でした。

 友人曰く、「ティンダロスの猟犬」は「角度」を通じてこの世界に顕現する。そのため、部屋の隅やひび割れ等、鋭い角度を作る部分をすべて石膏で塗り固め、部屋を球の内部のような状態にすれば、それが現れるのを防げるのだ、ということです(この時点で友人の手によって家具はすべて部屋から取り除かれています)。

 主人公は友人の、部屋の隅や窓枠の鋭い角度を石膏で塗り固め丸くする作業を手伝ったあと、この部屋に籠って「ティンダロスの猟犬」が諦めて戻っていくのを待つと主張する友人を残して、その場を去ります。すぐに医者をよこそう、と決意しながら。

 しかし、ここで作品はとある新聞記事の抜粋(の体裁)に移ります。

 その一つ目は、異常に激しい地震が金融街を襲ったことを報じるもの。

 もう二つ目は、あるオカルト作家がその金融街にあるアパートの自室で異様な惨殺死体となって発見されたことを報じるものです。その記事によれば、被害者は部屋の中央に丸裸で仰向けに横たわっていて、胸と両腕が「特異な青みがかった膿汁」に覆われており、胸部の上には完全に胴から切り離され、顔面を切り刻まれた頭部が乗せられていた。そして、部屋は壁、天井、床の境い目が分厚く石膏で塗り固められていたが、ところどころ罅割れて破片が落ちており、その破片が遺体の周りに集められ、完璧な三角形を形作っていた……


 ――以上が『ティンダロスの猟犬』のあらすじとなるのですが、この「角度」があるところであればどこからでも襲いかかってくる、という逃がれようの無さが、クトゥルフ神話のクリーチャーの中でもとりわけ脅威的に感じられます。

 なお、「猟犬」と呼称されているのはここら辺の、獲物に一度狙いを付けたら絶対に逃さない執拗さ、を形容してのいだそうで、実際にイッヌの姿をしているわけではないようです。なんか、被害者の遺体に残った残留物とかから考えると、なんかこう、ドロッドロな気がする、ドロッドロ。

 ちなみに「角度」といっても何十度以下なら危険なのか、とか具体的な基準は本文中では明確に言及されていないのですが、「角度」は「不浄」であり、「湾曲」は「清澄」である、と対比されているので、それなりな鈍角でもヤバイのかもしれません。

 せや! やったら丸まったとこしかない部屋に閉じ籠ったろ! と考えた主人公の友人が地震を起こされて無理矢理部屋に角度を作られた挙句惨殺されたのは文中のとおりですが、そこまでする執念深さも恐怖です(地震が「ティンダロスの猟犬」の能力によるものなのか、それともただの偶然だったのかは言明されませんが、地震の激しさが「異常」なものだった、というところになんらかの悪意の介在が窺えます)。


 重ねて申し上げることになるんですけれど、18年前のわたしはまだ『ティンダロスの猟犬』は読んでいなかったはずなので、パクリの類では誓って無いんですが、『隙間』のどこにでもある“隙間”に邪悪ななにかが潜んでいて、あわよくばこちらを引き摺り込もうと企んでいる、っていう強迫的な観念とそこから来る恐怖、って「あ、これティンダロスだわ」って『ティンダロス』初めて読んだとき自分で思っちゃった、っていう。


 それで媒介がまた「角度」という抽象的なものである、というのが『ティンダロス』いいよー着想アイディアキレてるよー、っていう。


 まあ、しかし、特別な図形――所謂「魔方陣」とか――が怪異を召喚するという概念は古来から伝わっていますし、風水とか陰陽道でいう「北東は鬼門なのでそこからなにか悪いものが入ってくる」という考え方なんかは、いまでも気にされる方は気にされますよね。

 そう考えると、『ティンダロス』の「一定以下の角度から危険な怪物が襲ってくる」というアイディアも、そこまで特異なものじゃないのかもしれないという気もしてきます。

 ですが、『ティンダロス』はそこを一段、ぐっと抽象度を上げてきたというか、なにか特定の図形や「北東」ときっちり定まった方位とかならまだ対処の仕様もあるけど、「90度以下の鋭角は全部危険!! ヤバイ!!」とか突然言われるともうパニックというか、どうしようもないですよね(で、結果的に主人公の友人みたく丸い部屋に閉じ籠ってたのに、力技で突破されてズタズタにされるっていう)。

 その恐怖を文庫で24ページの分量でパキッと仕上げてるところが、『ティンダロスの猟犬』はやはり名作だと思います。


 さて、ものすごい脱線してしまいましたので話を元に戻しまして……


 次!


「大好きな親戚の奥さんはちょっと苦手…みたいなのあるあるーと思って読んでいて」


 個人的に物語上の所謂ストレス展開というものに弱く、自分で書くときも嫌な奴を書くのが苦手なので、今回「ミカコさん」を書くのは一種のチャレンジで、そこにちょっと引っかかってもらったというのはうれしかったのですが、自分で読み返してみてもふつうに人のいいおばちゃんに収まってたのである意味忸怩たる思いがあるところでもあるのですが、改稿前の『隙間』では始めからキャラクターの個性というものを描写することを放棄してしまっていたので、わたしもちょっと、昔の自分に「コラ!」と思って、きちんと登場人物に生きてる質感を与えて、それがストーリーをコロコロ転がしていく、ということが18年を経てできるようになってきてるのかな、とそこをちょっと捉えてもらった気がしてやっぱりうれしかったです。


 さて、次からギガウサギさんの評に移ります。


《謎のギガウサギさん》

「前半の軽妙な語り口はそのノリも相まってかなり親しみやすく感じられるのですが、もはやそれ自体が罠。どんどん空気が不穏になっていき、最終的には伊藤潤二的な恐怖が充溢してきます」


 んん~~~~、そこ~~~!!


 じつは講評をいただく前に読んで下さった相互フォローの方からも「何かノリが、「うずまき」みたいに感じました」という応援コメントを頂いており、これはもはやわたしは伊藤潤二オルタ的ななんかなんでしょうか。

 といってもじつは一作もちゃんと拝読したことがなくって、実際『うずまき』あたりは世代的にどストライクだったんですが、ほんとに絵が怖くて、もう、ムリ、マジでダメ、ムリ……とギブアップしたその十数年後、まさかこんな形で邂逅を果たそうとは伊藤潤二先生……ご機嫌いかがでしょうか……いま観念して『うずまき』一~三巻、kindleでまとめ買いさせていただきました……


 ちなみにちょっと、またここで脱線。


 ツイッターなんかで時々「小説書き(絵描き)の人に、誰ダレ先生の文章に似てていいね、って褒めるの、どうなの?」論争があると思うんですが、わたしは「誰ダレ先生に似てるね」って言われるのうれしい派、です。

 今回の伊藤潤二先生にしても、わたしが物心つく前から今に至るまで一線でご活躍されている偉大な作家さんで、そうした方の作品と拙作を並べて俎上に乗せてもらえる、というのは光栄に思いこそすれ貶されたと感じることはありません。

 というかそもそもわたしは自分の独創性オリジナリティというものについて大分懐疑的といいますか、わたしの作品はこれまでに摂取してきた優れた物語の要素を諸々拝借して、ツギハギにして、最後にこう、ギュッと「圧」をかけて皆様にお出ししているという気持ちで創作というものをしている感じで、でもその、ギュッ、とお出しするやり方については一定の自信があるといいますか、ええ、今後もそういう気持ちでがんばっていきたい所存です。


 はい、次です!


「偏執狂的な心理面での怖さと現象としての怪異がタッグを組んで襲ってくるのは非常に避け難く、また何の変哲もない「民家の一部屋の本棚」が起点になっている辺り本当にやめてとしか言いようがない」


 フハハハ怖かろう!(しかも脳波コントロールできる!)

 ……すみませんなんかヘンなのが入りました。

 あらゆる隙間から視線を感じるという恐怖と、最終的にそれに侵されてしまったトモヒサおじさんの狂態(とその産物である隙間の無い本棚)に対する恐怖、のダブルアタック、という体裁は一応作れたのかな、とホッとする思いです。

 本当のことを言えば、トモヒサおじさんの日記についてはもっと普通な、日常的な記録から主人公が読み始めて、徐々にそれが狂っていく……無惨に崩壊していく……という様を描ければ良かったんですが、これもスケジュールの都合というかで仕上げた結果いきなりドッキリの形になりました。その点はむしろ改稿前の『隙間』がちゃんとやろうとしてて、えらかったぞ、自分、と思っています。


 次から、闇鍋さんの評です。


《謎の闇鍋さん》

「小気味良い文章で始まりコミカルなドタバタにいくのかな? と最初は思ったのですが、そのうち懐かしさと切なさの入り交じる思い出が語られ、でもこれジャンル「ホラー」って書いてなかった? と気付いた時には「最後きちがいになってしもたんよ……」が目の前に現れておりそこから割とジェットコースターでした」


 そこらへんは先程から申し上げていますとおり、途中からで仕上げたのがかえってドッキリ効果をうまく出してくれたのかもしれません。が、上述のとおり、前半をすこし整理してもうちょっと後半に手をかけてあげればもっとバランスのいい短編になったかもなあ、と惜しんでいるところです。


 次!


「小さい頃に読んだホラー漫画で、隙間を作っておくと悪いものがそこから来る、というのがありました。例えば少しだけ開けっぱなしの押し入れの戸。

《中略》

 そのことを完璧に思い出してしまったじゃないですか……隙間怖い……。特に夜」


 ここも、ネタ被っちゃったな、ヤッベ、というよりは、記憶に残る過去の良作と比較してもらえた、ということに若干の誇らしさを感じました。

 やはり人間の精神的にクるものがあるのかもしれませんね。ヨーシ、テーマ選定間違ってなかったぞ、過去の自分(ヨシヨシ)。


 次!


「隙間の観測者が隙間の部分になるというのは初めてで、それがまた……こんなことでは「部屋」が怖くなってしまう。

 最後、姿が全く描写されていないのがまた興醒めにならずよかったです」


 ここはちょっと一番のガッツポーズを取ったかもしれない。

 開放された隙間のある部屋が、外から見たらそれ自体で一個の隙間として観測される、というのは改稿前の『隙間』からあるアイディアで、それを思いついたのはやったぞ過去の自分、という感じがあります。

 ただ、改稿前では、隙間を覗き込もうとした主人公を見た女中が悲鳴を上げ、「隙間」に潜むものの正体や、主人公が変貌していたものの実態は有耶無耶のまま終わらせていましたが、改稿後の『スキマ』ではミカコさんのリアクションや主人公の独白(わたしの手って、こんな色と形だったっけ?)を経て、より短いタイムスパンで劇的にオトせた感触があるのでそこは満足しています。

 鏡の中の自分の姿を描写しなかったのも、具体的にグロい描写が思いつかなかっただけ、という話はあるのですが、でも怪物になってしまった自分の姿を主人公が明晰に説明し始めるのもなんか違うんじゃないか、と思いますので、あそこでブッタ切って良かったんだな、うん。



***



 そんなこんなでお返しするまで9ヶ月ほどかかってしまったのですが、「第一回こむら川小説大賞」に関する思いの丈でした。


 現在も川系としては、川系の常連参加者である偽教授(@Fake_Proffesor)さんによる「第二回偽物川小説大賞」が流れております。


第二回偽物川小説大賞

https://kakuyomu.jp/user_events/1177354054934196875


 本エッセイでご興味を持たれた方、是非ご参加なされてみてはいかがでしょうか。


 そんなこんなで筆を擱きます。


かしこ

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