2.日野啓三先生のこと(あと『モズヤン』について、ちょっと)

 好き勝手書いたようにしか見えない『モズヤン』ですが(じっさい好き勝手書いた)、じつはわりときちんと元ネタ(めいたもの)があったりなんかしちゃったりして、という話。


 そもそも女装男子が云々みたいな芸風がべつにないわたしがなんでいきなりあんなものを書いてコンテストにぶち込むなどという所業に及んだかというと、「#女装男子匿名コンテスト」の募集の話が出たころちょうど日野啓三の『砂丘が動くように』という小説を読んでたからです。


 ……と言われても読んでる人全員怪訝な顔だと思うんですけど(こんな駄文を読んでくれている人が何人いらっしゃるのかはまあ措いておいて)、そもそも日野啓三ってどういう人?という話からになると思うんですが、ここでおもむろにwikiを参照すると、生年1926年、2002年没。ベトナム戦争時に新聞特派員として現地に取材した人で、その体験を元にしたルポルタージュや、一転して都市空間への偏愛的な感情に基づいた幻想的な小説などを多く残した作家です。


 『砂丘が動くように』は日本海側の砂丘がある街を舞台に、主人公が偶然そこを訪れるところから始まります。砂丘は砂防林に風を堰き止められ、ゆるやかに死に絶えつつありますが、しかし、その裡に篭った超自然的ななにがしかの力に、主人公はどうしようもなく惹かれていく、という、筋書き。

 そして、主人公が邂逅する人物のひとりとして、作中でビッキーと呼ばれる女性装者が登場するのです。

 もちろん、ビッキーはモズヤンのようなむくつけき男子高校生ではなく、女性と見紛うほどの美貌を持つ魔性の人物として描かれます。

 ビッキーは砂防林を伐採して砂丘を復活させようと企てる若者たちのリーダー的な人物と目されるのですが、ビッキー自身は飛砂を巻き起こして砂丘がまた動き出せばいいと単純に考えている仲間たちを冷ややかな視線で捉えています。

 ビッキーが砂丘を通して感じているのは、もっと霊的なもの、言い換えれば自然を司る神の気配であって、それとの交感をおれは望んでいるのだ、と物語中盤、ビッキーは感得します。そのときビッキーが思い起こすのが、男神を呼ぶとき女巫は男装し、女神を呼ぶとき男巫は女装した、という中国の故事です。


「おれは人間相手に、人間たちの目を意識して女装してきたのではなかったのだ」

(日野啓三『砂丘が動くように』、講談社文芸文庫、1998年、172頁)


 ここで、へぇー、と思う、わたし。


 女装するシャーマン、なるほど、そういうのもあるのか。


 でもたしかに、女神を降ろす器として、自らを女性に着飾る、というのはとても自然な理路に思えて、おもしろいな、と思ったんですね。

 そこでちょうどああしたイベントがあって、あ、うん、なんか、一本書けそう、と思いつき一発のネタですぽーんと書いたのが『モズヤン』になります。


 日野啓三先生もそんなことがあるとは思いもよるまい。初めて読んだ高校生のころのわたしもそんなこと思ってなかった。


 というのも、読むのは二回目。

 でも、前回のエッセイでもちょっとふれましたが、わたしは小学校高学年あたりからコミュ障の陰キャをこじらせてて学校の休み時間はほぼほぼ本を読んでいたので読んだ冊数だけはそれなりあるはずなんですが、きちんと感想を言語化してこなかったので本の内容は残念な頭に入るはたからこぼれ落ちてろくに覚えていない。

 一度読んだ本も初めて読む気分で読めてオトク、ヤッフー。という向きもないでもないのですが、仮にもこの作家のことが好き、というのに本のあらすじもろくに覚えてないのは格好がわるいので、またちゃんと読んでみないとな、と思ってたところ、図書館で見つけた河出書房新社の『日本文学全集』(池澤夏樹・編)に、あるじゃないの日野啓三!(21巻目)

 早速借りてきて懐かしい文章の味に浸る、わたし。

(ちなみにいっしょに開高健が編まれてて(ベトナム戦争取材つながり)、わたし開高健の文章はそのとき初めて読んだんですけど、壮麗な比喩表現で描かれる夕暮の情景描写に、あ、もう好きー、この文章ゥー!となったのでもっぺん借りてきてちゃんと読まないとなと思ってます(途中で返した))

 それで、昔読んだのもちゃんと再読したいなあ、と思ってamazonを探す。残念ながら日野啓三の個人全集のようなものは出版されてないらしい。既読のものと、未読のものを古書でいくつか見繕って、ポチる。

 『砂丘が動くように』を再読したのはおおよそそういう、流れ。


 しかし好き好き言いながらまたこのパターンなんですけど、日野啓三で昔読んだ記憶があるのはこの『砂丘が動くように』と、『Living Zero』っていうエッセイとも小説ともつかないような風変わりな作品集の二冊だけなんです。

 それなのに読んだ本の内容を片端取り零してきている頭の中で、どうしてこの人の名前がここまではっきりと印象に残っていたのか、不思議と言えば不思議。


 例えば他に好きな作家に大江健三郎がいるんですけど、大江健三郎の場合はやっぱりあの独特な文体。

 初期のころとかはまだ簡明な文章なんですけど、たしか最初に『同時代ゲーム』あたりを読んでみたら、順接と逆接が入り乱れた、うねるようなというか、とぐろを巻いてるというか、ぶっちゃけメチャクチャ読みづらい文章で、なんじゃこれは!?と驚いた記憶があるんですね。

 「――」を多用してさらに「――」で括って脱線させた文章の中にまた「――」をぶち込んで入れ子構造にしたりとかも平気でやってた気がする。

 ただ、はじめはどう読んでいけばいいのかわからなくて呆然となるんですけど、自然と文章をよく咀嚼しながら読み進めていくことになって、そうするとまたこれがクセになる、やみつきになる味があるんですよね。

 文章表現の限界に挑戦してるというか、そんなことまでやっていいんだ!?って気づかされる愉しみもあります。小説にタブーなんてないんだと作品で殴られる感覚。


 脱線しますけど、そういう方向だと舞城王太郎もおもしろいですよね。

 web小説の書き方講座とかでもよく行頭一文字下げとか「…」は二連で使うとかの禁則処理の話が出てきますけど、そういうの読んでウンウンと頷きながら、でも舞城がいるしなあ……と内心胡乱な目つきになる、わたし。

 「!」のあとの一文字開けとかべつにやらないっていう。あ、プロの人でも平気でそれしちゃうんだ、っていう。ショックですよね。衝撃。初めて読んだときは。

 ちなみにわたしも作品によっては「!」と「?」後ろの一文字開けをやってないんですが(まさに『モズヤン』とか)、そうすることでなんというかこうドライヴ感みたいなものが生まれる気がして、そういうのが欲しいときはやっちゃいますね。

 一般的な禁則処理は踏まえておいて損はないですし、わたしも一時期拘ってたんですけど、最近はなにか意図を持って破ってるならそれはそれでいいんじゃないかな、っていうスタンス。小説ってフリーなものですよ。もっとみんなはみ出していこうぜ……!!みたいな。

(あと舞城はたしか『阿修羅ガール』って作品では書籍でフォント芸みたいなこともやっていて、あのときはほんとにヤベー人が出てきた、って印象でした)


 そういうようなことをつらつら考えていると、自分はどうも文体から好きになるんだな、と。

 クセのある文体が好み。文章自体に噛んで味のあるような小説が好きです。

 内容がおもしろくても、やっぱり文体が気にいらないとどこか物足りない。

 この作家さん好きだな、ってわたしが認識するのは、文体から、というパターンが多いな、と思います。


 ただ、そういう意味だと日野啓三の文章ってわりとさらっとしてるというかクセがないんですよね(やっと話が戻ってきたぞ)。

 わりかし平易というか、明晰な文章を書く人です。

 多分、一読して読みづらいとかクセが強いとか言う人はあんまりいないと思う。

 それなのにどうしてここまで心に残ってたのかなー、っていうと、世界観というか、物事の捉え方なんだな、と。


 とてもよく覚えているのは、『Living Zero』を読んだあと、冗談とか比喩じゃなく、世界が変わって見えたことです。まさに目からウロコが一枚剥がれ落ちた感じがする、っていうか、視界がクリアになった感覚。いつもと同じはずの学校の廊下が、異様に鮮明に感じられる。世界の新しい認識の仕方をインストールされた感覚。

 思うにそれは文学の重要な効用のひとつなんですが、それをわたしに初めて強く意識させてくれたのが、日野啓三の文章だった、ということ。


 日野啓三の世界観って、今だとさすがにちょっと手垢がついた感じはするんですけど、インタビューとかも読んでみると、新しい科学知識につねに関心を持っていた人みたいで、そういうところが反映されていると感じられるものなんですね。

 人間という生命体も、60兆個にも及ぶ全身の細胞が絶えず新陳代謝を行い、すこしづつ入れ替わりながら維持している(と言えるのか? 本当に?)、一過性の「現象」に過ぎない、というような――そしてそうした物に芽生えた自我などというものが、果たしてどこまで信頼に足るのか――みたいな。


 『砂丘が動くように』ではさらに、細胞が常に入れ替わり続けながら体を保ち続けている人間と、微小な砂粒が常に飛散し、流れながら総体を保ち続ける砂丘とが対比されます。

 しかも、砂防林に風を止められ、飛砂の止んだ砂丘を、主人公は「死にかけている」と感じる。主人公が出会った不思議な少年も、こう語ります。


「風がないと砂丘は死ぬんです。動かない砂は土になる」

(日野啓三『砂丘が動くように』、講談社文芸文庫、1998年、23頁)


 風を受けて飛砂を巻き起こし、動き続けるものが、生きている、本当の砂丘なのです。ここに生物と無生物の境界はどこまでも曖昧にされます。


 すこし前に話題になった新書で『生物と無生物のあいだ 』(講談社現代新書、2007年)という本がありましたけど、その中で生物学者である著者は生命とは“動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)”と喝破しました。

 そうした科学的知見に、文学の力で肉迫していたのが、日野啓三だったんじゃないかなあ、と。


 こうした世界観が端的に表れていると感じるのが、例えば次のような文章。

 主人公がホテルの食堂でボンゴレ・スパゲティを食べるだけのなんて事の無いシーンなんですが、日野啓三の筆にかかるとこうなってしまう。


「底なしの暗い穴に、噛みちぎられたスパゲッティの切れ端と貝の肉片が落ちてゆくイメージが浮かぶ。

 その穴が私だと思う。だがそれが私なら、私なんて幾らかなま温かいだけの小さな空間を囲むビニールの薄膜にすぎない。そんな死んだ薄膜はさっさと切り裂くか溶かすかして、閉じこめた空虚を宇宙に返してやった方がいい」

(日野啓三『砂丘が動くように』、講談社文芸文庫、1998年、76頁)


 このペシミズム!

 こうしたムードに、当時高校生だったわたしが惹かれた部分はあると思います。


 というのもまたちょっと脱線すると、わたしは、好きなラノベは?って聞かれたら真っ先に『ブギーポップ』と答えます。

 『ブギーポップ』シリーズもいずれちゃんと語りたいですけど、こないだシリーズ一巻目の『ブギーポップは笑わない』を読み返してみたら、やっぱりたまりませんね! こじれた中二病患者の心をわしづかみにする要素に溢れてる(「統和機構の合成人間」というフレーズに心ときめかせなかった中二ははたして存在するんでしょうか?)。

 ですがあのシリーズに通底する、幼年期の万能感が裏返った思春期の無力感、閉塞感というか、それを乗り越えるためというにはあまりに乾いた諦念。そうしたものはやはり当時少年だったわたしにはとても切迫したものでした(そして今でも)。


 そうした心性に日野啓三の冷徹な現実認識がフィットした部分はあると思います。

 でも、日野啓三が安直な悲観主義者なのかと言えば、他の著作なども読んでいるとそう単純なものじゃないな、って気がしてくる。

 物事をありのままに捉える、明哲な視線を感じます。

 そして、優しい。

 生命なんて所詮そんなものだと嘯きながらも、それが成り立っている有り得ないような偶然を愛で、祝福する態度です。


「それは複雑で精巧な自ら動く物質であり、確率的には本来ありうべからざる奇蹟の組み合わせ、良き混沌からの美しい偶然の産物だ」

(日野啓三『Living Zero』、集英社、1987年、13頁)


 『Living Zero』のことをわたしは「エッセイとも小説ともつかないような風変わりな作品集」と言いましたけど、読んでいると卓越した視点と同時に、あーそういうのあるある、っていう気安いあるある感が不思議と同居していて、とてもチャーミングなんです(深夜の鉄道のレールを舐めてみたい、ってのはちょっとよくわかんないけど(笑))。

 達観した雰囲気もあるのに、どこか身近。浮世離れするにしても、ちょっとだけ。ほんの地面から3mmぐらい浮いてる感じというか、ここちよい認識のズレ感があります。

 そういう、ちょっとだけ新しい現実の視方を教えてくれる文章だと思います。

 日野啓三、オススメです。


 きれいにまとまったところで今日はここらで。

 ありがとうございました。

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