潮の香りと優しいあなた

皐羊

潮の香りと優しいあなた

 ふと、潮風の匂いが恋しくなって、故郷行きの列車に飛び乗った。列車とバスを乗り継いで、約二時間。見慣れた水平線と町並みが拡がってくる。

 故郷に帰って来るのは久々だった。両親が転勤で地元を離れてからは足が遠のき、高校を卒業してからは帰る機会を逃していた。帰ろうと思えば、いつでも帰って来れたのだ。ただ、帰ろうと思うほどの目的もなくて、気付けば五年が経っていた。

 錆びかけのバスの窓が、開いている。そこから溢れて来る懐かしい匂いが、故郷に帰って来たのだと知らせてくる。塩辛い海の香りに誘われるまま、バスを降りた。降り立ったコンクリートはサンダル越しにも熱を伝えてきて、果てのない水平線のように伸びる道路を、私を置いたバスが走っていく。見上げると太陽も空のてっぺんから降りるところで、私の影が僅かに伸びる。小さな港には仕事を終えた漁船がいくつも泊まっており、威勢の良い声が海の匂いと共に届いてきた。

潮風が、短くなった私の髪を撫でていく。彼に「長い方が可愛いよ」と言われて伸ばしていたのだが、つい先日切ったのだ。ついでに黒に染め直した。もう、彼の好みに合わせる必要はない。

 大学のサークルで知り合って、半同棲までしていた彼だけど、ある日、甘ったるい香水を纏って帰って来た。私が嫌いな、人工的に生み出されたようなきつい花の香りを漂わせて。それと似た、女の口紅の色を、爪の色を、連想してしまって。問い詰めれば案の定であった。気の迷いだったんだ、と縋る手を叩いて、お揃いで買ったネックレスを引き千切って投げ捨てた。あのときの彼の滑稽な顔は一生忘れないだろう。

 しかし、さっぱり未練がない。と言えば、嘘になる。去年の春には御両親へ挨拶に伺ったのに。左の薬指に付けるのはお互いの誕生日石であるダイヤで、ウエディングドレスを着た私の、ベールをめくってくれるのは彼だろうと、思っていたのに。

 車ともすれ違わない一本道を、当てもなく歩いた。じりじりと焦げる灼熱は私の肌を容赦なく焼いていく。聴こえるのは、威勢の良い漁師の声から、蝉の生を掻き鳴らす合唱に変わっている。片方に照りきらめく海を、片方に深緑溢れる森を挟んで、ひとり歩き続け、気付けば昔よく遊んでいた浜辺に辿り着いていた。別に観光地でもなんでもないここは、お世辞にも絶景とは言えない。泥みたいに黒い砂とごろごろ転がる石に、濁った海のお出迎えだ。けれど、私のきれいな思い出の場所であることに、変わりないのだ。

 道を逸れて、浜辺に降りる。そのまま、波に寄り添いながら砂浜に足跡を繋げていった。遠くでカモメが鳴く声と、船の汽笛が聴こえてくる。遮るものがない太陽の輝きは、海を明るく照らし、涼やかなさざ波を運んできらめいていた。

 足を止め、目を閉じて、深く息を吸ってみる。数年前までは毎日身を包んでいた香りだというのに、今はこんなにも胸を締め付けてくる。懐かしい香りは懐かしい記憶を運び、輝かしい青春の日々が走馬燈のように駆け巡る。そしてその輝きに、今の私では到底太刀打ち出来ないと理解してしまって。

成人して、大人と呼ばれる年齢に達して、許容する心が育たないまま、視界だけは広くなっていく一方だった。見え始めてしまった現実を叩き付けられて、ひとりで立つことが当然になっていく。支えが欲しいと誰かに寄り掛かれば、いつかの喪失に怯えていた。未だ残る幼稚さを持て余しながら、止まらない時に背中を押され続けるしかないのだ。空っぽに埋まった心を自覚して、逃げるように、目を開けた。

 そのとき、足元に、自分以外の足跡があることに気付く。子どもの小さな裸足の跡は、楽しそうに跳ねて飛んで、砂をかき混ぜていた。そのまま駆けて行ったようで、辿るように目線を上げると、そこには、

「良い天気だね」

 男性が一人、水平線を眺めていた。

 澄んだ声は、よく通る。ガラスを砕いたような繊細さと、今日の空の果てしなさを感じる声だった。白いTシャツと黒のスラックスは真新しく、裾から飛び出た細く白い素足が波に躍っていた。風に舞う短い黒髪は、光に当てられ茶色にも見える。その前髪からふわり、覗く垂れがちの目は優しそうに細まって、薄い唇は緩く弧を描いていた。大人びているのに、子どものように無邪気に笑う人だった。

「え、ええ。そうですね……」

 突然話しかけられて、驚き戸惑いながら返事をする。

「あ、ごめんね。いきなり見知らぬ人に話しかけられたら驚くよね……。最近はここに人が来るのも少なくなったから、ちょっと嬉しくて」

 そう、照れたように頬を掻く男性に、悪意はなさそうだった。仕草がいちいち無垢で、こちらの警戒心を簡単に溶かし始める。

「えっと、あなたは地元の人ですか」

「うん、基本ここにいる。最近は遠出することも多いけどね」

 少しだけ、近くに寄ってみる。背は、そんなに高くなくて、私の父と同じくらいだろう。けれど、私よりは年上に見えた。

「へぇ、じゃあ、お兄さんは地元で働いてる感じ、」

「ゆう」

「え?」

「優って、言うんだ。僕の名前」

 年上に見えたから、そう呼べば、柔らかくも強い訂正の声が降って来た。直に目が合って、思わず息を飲む。深海のように深い群青の瞳に、吸い込まれそうになった。

「出来れば、そっちで呼んでもらいたいな」

「ゆう、さん?」

「はは、優でいいよ。敬語も要らない。特に年齢も変わんないだろうし」

 控えめに問えば、満足したように笑って、深海のような瞳はなりを潜めた。波が、足に当たる。サンダルに染みこむ冷たい海水が、素足を濡らした。

「僕、ここが一番好きでね。よくぼうっとしに来るんだ」

 優の視線が海へ向かう。

「君、海は好き?」

「……昔は好きだった、て感じかな。家が近くて、小さい頃はよく砂遊びとかして遊んでたけど、一度クラゲに刺されてからちょっとトラウマ」

 生まれてすぐの頃、私たち家族はこの浜辺の近くに住んでいて、私の遊び場と言えばここであった。小さかったから、海に入ることはあまり許されなかったけど、赤いシャベルとバケツを持って、砂遊びをしたり珍しい石を探したりしていた。ただ小学校に上がる前に、打ちあげられていたクラゲを触ってしまって、刺された痛さに号泣した。毒がなかったから良かったものの、幼い自分には十分怖い体験だった。

「んー、そうなのかぁ……残念……」

 気落ちしてるのが分かりやすいほどに分かって、見ると、優の足は名残惜しそうに砂浜を掻いている。

「……砂遊び、したい?」

「え! したい!!」

 問えば、無邪気な声が返って来て、思わず吹き出してしまった。想像以上に喜んでくれて、なんだかこちらも、無垢な子どもの頃に戻ったような気分になる。

「うわぁ嬉しいなぁ。見たことはあったけど、こうやって遊ぶの、初めてなんだ」

 ただ砂を固めて山のように盛っていくだけなのに、優はとても楽しそうにしていた。青い血管の浮き出た白い腕が、砂の上を忙しなく駆け巡っている。あまりにも楽しそうにするものだから、塗ったマニキュアが取れるくらいのことは勘弁してやろう。

「ねぇ、僕君の話が聞きたいな」

「え、つまんないよ?」

「それを君が決めちゃうのはもったいないよ。とりあえず話してみて。それに、つまらないかつまらなくないかは、聞いた僕が決めるんだから」

 ちょっと拗ねたように話を促す優を見てると、まるで弟を持ったような気分だった。一人っ子の私には新鮮で、ついつい口を開いてしまう。

 優は、とても聞き上手だった。家族のこと、大学のこと、真剣なことからくだらない話まで全部、きらきら宝石を前にしたときのように目を輝かせて聞いてくれた。

「私ね、昔砂浜で遊んでたとき、すごい変わった貝殻を見つけたの。丸くて白くて、お花みたいな模様がついてた。そのときはそのままにしちゃったんだけどね、後に行った博物館で、似たような貝殻が展示されてて、すごいびっくりしたの」

 だから、親にも話したことのない、本当にくだらない話まで、してしまう。二人で作る砂の城は、だんだんと大きくなっていた。私はその上へ器用に塔を建てる。シャベルがあれば、もっと精巧に出来たのだけど、仕方ない。

「今だから分かるけど、私が見つけたのはウニの仲間の殻らしくて、別に対して珍しくもないみたい。けど、そのときは、私すごい発見したんだ! て子どもながらに思ってね。本気で何であれを持って帰って来なかったんだろうってすごい悔しがったなぁ」

 大人になった今では、本当に些細でどうでもいい事柄でも、子どもの頃は世紀の大発見に等しかった。無知でいることを許されたあのときは、すべてが真新しく輝いて見えていたのに。

「……大人になるって、何だが悲しいね」

 あれだけ欲しがっていたゲームや本も、大人になって自分のお金で買えるようになってからは有難みが消えていった。何週もやり直して、ボロボロになるまで読み込んだことだってあったのに、今家にあるのは開封すらしていないゲームと、買っただけで満足した本の山。時間がないから、と言い訳して、純粋に、ただがむしゃらに楽しむ心をいつの間にか置いてきてしまったようだ。

 ゆるり、こみ上げるのは濁流のような、虚無。怒りにしてはあまりにも凪いでいて、悲しみとしては迸るような涙が出なかった。名前の付けにくいそれは、時々思い出したように私の心を蝕んでいく。

「それが、大人になるってことだよ」

 優しい声が、笑う。顔を上げると、声と同じ表情の優が、真っ直ぐこちらを見つめていた。

「僕も、分かってないけどね。けどさ、ちっちゃい頃に見つけた気持ちが、色褪せたわけではないと思うんだ。逆に、昔よりもっときらきらして、宝物になった思い出だってあるはずだし」

 砂まみれになった手が、砂の城を固めていく。潮風が頬を撫で、二人の間を通り過ぎていって、懐かしい香りが、また、肺を満たした。

「大切に感じる思い出は、別にそのままで良いんじゃないかな。宝物のようにしまって、眺めたいときに取り出せばいい。そして、そのときだけでも、君は、子どもに戻っていいと思うんだ」

 ね。と微笑む優の言葉は、私の胸の柔らかい部分にすとんと落ちて、虚無と向き合って笑い合う。私が無意識のうちにしていた背伸びを、簡単に見抜かれた気分だった。理想と現実に揺れる心を、優しく包まれ肯定されたようで。

 髪を耳にかけようとして、手が止まる。そうだ、もう短いのだ。

「……私、優みたいな人が恋人だったら良かったのかな」

「んー。それはオススメしないなぁ」

「なんで」

「君をもっと幸せにしてくれる人がいるって」

 笑う優の口の端が、歪んでるように見えて、思わず首を傾げた。初めて見る笑顔の陰りに、どうかしたの? と問いかけようとして。

「わ、」

「あっ」

 一際大きい波が来て、砂の城を掻っ攫ってしまった。

「あーあ、せっかくすごいのが出来そうだったのに」

「優は砂盛ってただけじゃん」

「トンネルくらい開通させたかったの!」

 駄々をこねる子どものように声を上げる優の頬に、砂がこびりついてるのを見つけて笑ってやる。本当にこの人は、誰も踏み締めたことのない草原のような、明るい無邪気さがある。

「私、今度は優の話が聞きたいんだけど」

 気付けば、太陽がだいぶ西に傾いて、浜辺と海を赤く照らし始めていた。夕に焼かれる私の影も、光に比例するように濃く長く伸びていく。夜の匂いが、鼻をくすぐった。

 砂遊びを止めて、今度は変わった石を探すことにした。きれいとは言い難い浜辺に、二人しゃがんで目を凝らしながら、私は話を切り出す。

「えー、僕こそ、つまらない気がするなぁ。喋ることも、全然ないし」

「それを決めるのは優じゃないって。さっき自分でも言ってたでしょ」

「それもそうだ。……じゃ、これはただの独り言だと思って、聞いてほしい」

 割れた貝殻を拾っていた手が、止まる。優はふと海のほうを見つめると、遠くのどこかを思い出すようにして話し出した。

「僕は、ずっとある人の道しるべになりたかったんだ」

 その声はやけに静かで、明るい色ばかりを使ったキャンパスの上に、初めて暗色が乗った気分だった。低く、平坦に紡がれる言葉は、優の心情さえ乗せていくみたいで。

「それはもう、叶うことはないし、僕に出来ることはその人を影で見守ることくらい。向こうはそれすら知らないけど、僕としては、結構満足してるんだよね」

 眉を下げて笑う優の顔にあるのは諦念だ。砂を弄る指先が、ざらりと名前のない曲線を描いていく。

「僕はね、皆に忘れないでいて欲しいな。て思うけれど、忘れられても仕方ないから、こうやっているだけで、十分なんだ」

 風が優の髪を掬って、目元を隠す。ただ、目の前の優が酷く物寂しげに笑うから、何だかこっちも寂しくなってきて、砂の上で踊る優の手を見つめた。

 そして、優の、血が通う青い血管の浮き出る手が、父に似ていることに気付いて。

「けど、その人とやりたいことは、たくさんあるよ」

 伏し目がちに微笑むその顔立ちが、母にそっくりで。

「……――あ、」

 前髪から覗く双眸が、鏡で見る私の目元と同じで。

 ずっと蓋をして忘れていた記憶の、鍵が開いた。そこから覗くのは、昔母が教えてくれた、家族だけの秘密。

「こうやって遊んでみたかったし、ずっと話してもみたかった。けど向こうの方が手先器用だから、僕はお手本になれなかったかな。けど、勉強ならきっと教えられたし、スポーツだって一緒にやれたかもしれない」

 さざ波が音を立てて、足元を掬っていく。サンダルと素足の間に砂利が入り込んで気持ち悪い。

「……恋人が出来たら、相談役になって、そいつがふさわしいのかどうかしっかり吟味してやりたかった。男ってのは意外と見栄っ張りで、本性を隠すから」

 冷たくなってきた潮風が、短くなった髪を揺らす。

「うん。長い方も似合ってたけど、僕は黒くて短い方が好きだな」

 真っ直ぐ目を見て笑う優は、どこまでも私自身を肯定してくれた。その目の中にあるのはきらきら輝く純真な愛おしさで、ああ、そうなんだ。優は世界がひっくり返っても私の恋人にはなれない。

 けど、いっそ、世界がひっくり返ってしまえば良かったのに。世界がひっくり返って、白く暖かい砂浜と底が見えるような、透き通った青い海になって。そこで、二人で崩れることのない砂の城を完成させられたら良かったのに。そして私は恋人の話をして、結婚するんだ、と笑って。泣き笑いする優に、祝福されるんだ。祝福、されたかった。

 黒い砂を、マニキュアの剥がれた指が引っ掻く。慰めるように重ねられた優の白い手を、強く強く、握り返した。

 そこに落ちる雫の意味を察して、優は、眉を下げて笑ってくれた。




 空が、寂しげな色に変わっていく。水平線に潜っていく夕日は鮮やかで、澄んだ空は、沈む太陽の夕日色と夜の宇宙色を透かして溶かして、雨上がりの草木を飾る虹の色を晒している。

「……ずっと、君とこうしていたかった」

 そう言われて繋いだ優の手は、陶器のように冷たくて。なのに声は真綿のように優しく、暖かくて。

「会えて、良かったよ」

 涙の膜が張る、優の深海のような瞳に、吸い込まれるように飛び込んだ。

 暗く、嘆きを唱え続ける夜空を泳ぐ。下へ下へと潜り込めば込むほど、闇は深まり本当の奈落へ向かっているみたいだった。深海のような息苦しさを感じながら、それでも、泳ぎ沈み続ける。

すると、遠くに揺蕩う淡い光の粒たちを見つけた。星よりも儚げに点滅を繰り返し、あてもなく揺れる姿は蛍のようだ。そちらへ舵を取っても、蛍たちは逃げなかった。踊り歌う光たちは温もりを纏って、私の周囲を泳いでくれる。髪を撫で、空を掻く手に扇がれ、背中に添うように乗った。きらきらと響く歓喜の歌を聞きながら、緩やかに、導くように、私の指先から足の爪までを包み込んでいくそれと、少しばかりの遊覧飛行をする。そして無に近い輝きとひとつになったとき、見つけたのだ。

 無垢で無邪気な真白の光に包まれた、更に小さい胎児を。途中で千切れたへその緒に縋るように眠る、魂を、私は両手で掬って。




 手のひらに、冷えた波がかかって目を開ける。月の代わりに輝く無数の光の粒が照らす砂浜で、私は赤子のように丸まって眠っていた。繋いでいた右手だけが、捕えられない波を掴もうと濡れている。

「……私も、あなたに会えて良かった」

 本当は大声で叫びたかった。混ぜて煮て沸騰して溢れるこの感情を、何の意味もない音に乗せて叫びたかった。絞り出されるように吐いた言葉は波に攫われて、流れ星のように過ぎ去って消えていく。

 ゆっくりと立ち上がり、服に着いた砂を払った。優しく笑う潮風が髪を撫でて、背中を押す。それに笑い返して、涙を拭った。


 帰ろう。     

                            

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潮の香りと優しいあなた 皐羊 @satukiyou

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