第48話 日の本一の

 巨大なタコの如き怪物は、まさにゲームチェンジャー、その登場ですべてが変わった。中村一氏も与力衆も、呆然としている。


「あれも法力ってヤツなんですかね」


 海塚の言葉は、果たして誰に向けられたものだったか。


「法師殿の力ですよ、きっと」


 孫一郎の言葉には、確信があった。


 さしもの服部竜胆も、この展開には驚いたのだろう、唖然とした顔で巨大なタコの歩き回る様を見つめていた。


「さて、どうするね」


 長刀を背負う剣士が竜胆にたずねた。竜胆は真剣な顔で剣士を見つめた。


「どうする? どうもしないさ」


「まだ諦めないという事か」


「下らない」


 竜胆は鼻先で笑った。


「諦めるなど愚か者のする事だ。私は足掻あがく。足掻き続ける。足掻けば必ず道は開ける。生きるとはそういう事だからな」


 剣士はしばし竜胆を見つめ返し、そしてうなずいた。


「不本意ながら同意しよう。だがこちらも足掻くぞ。どちらの足掻きが勝つと思う」


「勝てると己が信じられねば、誰が信じてくれようか」


「……よもやとここまでやって来たが、貴様に会えたは天の配剤」


 剣士の鉄面皮に微笑が浮かんだ。そして孫一郎に向かい、改めて告げる。


「豊州浪人佐々木忠善、義によって助太刀致す」


 長刀を軽々と抜き放った忠善に、竜胆は突進した。忠善の横なぎの一振りを、竜胆は刀に腕を添えて受け止める。そのまま前に出ると、つばぜり合いに持ち込んだ。


「伴天連の姿が見えないな、どうかしたのか」


 竜胆の力押しに、忠善は真正面から応じた。


「やはりな。貴様の計略か」


「さあどうだろうね」


 竜胆はニッと歯を見せた。同時にその身は脇に飛ぶ。竜胆の脚のあった辺りに銀光一閃、海塚が忠善にぶつかるように突っ込んできた。紙一重でかわした忠善に、素早く立ち上がった海塚がささやく。


「あなた、何処かでお会いしませんでしたか」


「心当たりが多すぎて、思い出せんな」


「じゃあ気のせいだったって事にしときましょう。今はね」


 脇に飛び退いた竜胆だったが、そこは与力衆が固まっている。


「ちぃっ!」


 鋭角に身を翻すと、意識を中村一氏に向けた。この首さえ取れれば。だがその前に、孫一郎が立ちはだかる。


「邪魔なんだよ!」


 竜胆が放った突きを、孫一郎は半身でかわした。剣の速度が落ちているのだ。孫一郎は下段から斬り上げる。それを仰け反ってかわした勢いで、竜胆の草鞋わらじが切れた。


 脚はもつれ、地面に転がる。そこを忠善が上から突く、突く、突く。竜胆は転がり続け、かわし続けた。そして与力の一人にぶつかったとき、その鎧をつかんで風のように立ち上がり、忠善に向かって突き飛ばした。忠善が踏み止まらなければ、その与力は串刺しになっていただろう。


 寒風が吹いた。しかし竜胆は顔中に汗を滴らせている。呼吸をするたびに肩が上下する。もはや体力の限界に近付いている事は、誰の目にも明らかだった。だがそれでも。


「何をしている、さっさと打ち倒せ」


 そう叫びながら佐藤次郎左衛門が斬りかかる。それを竜胆は軽くいなした。河毛源次郎が放った突きは紙一重でかわし、すれ違いざまに河毛の顔をぶん殴った。それを見た他の与力衆は、腰が引けて踏み込めない。結局竜胆の前に立つのは、孫一郎たちであった。



――ちゅーぜん、日ノ本一ノ剣豪ニナリナサイ。


 宣教師の最期の言葉が、忠善の脳裏に浮かぶ。日の本一の剣豪になるためには、今ここで目の前にいる化け物を倒しておかねばならない。たとえどんな手を使ったとしても、勝たねばならないのだ。


 忠善は気合いと共に長刀を振り下ろした。竜胆は小さく後ろにステップしてかわす。しかし忠善は二歩踏み込み、長刀はレの字を書くように跳ね上がった。だが竜胆は、体をくるりと回しただけで、それもかわした。けれど。


 振り上げられた長刀は、さらに空中にヘの字を描いて振り下ろされ、それを頭上に掲げた刀で受け止められると、切っ先はくの字を描いて足下に斬りつけた。竜胆は宙でとんぼを切って何とかかわした。忠善は息も乱さずこう告げた。


「イナズマ打ちは、おまえが思っているほど簡単な技ではない」


「ああ……そうかい」


 竜胆の息は一層乱れている。もう刀を杖にしなければ、立っていられないほどだ。その正面に、孫一郎は剣を構えた。


「覚悟」


「……馬鹿正直が」


 竜胆が吐き捨てるようにつぶやくと同時に、孫一郎が打ち込む。


「てええええいっ!」


 その孫一郎の背後から、カーブを描くように石つぶてが飛んでくる。


「小賢しい」


 竜胆は前に出てつぶてをかわすと、孫一郎の打ち込みを受け止めた。と同時に、肘で孫一郎の顎をかち上げた。倒れる孫一郎を飛び越え、竜胆は走った。その視線の先にあるのは、中村一氏の隣に立つ人影。狙いを甚六に定めたのだ。


「おまえからだ」


 だが甚六と竜胆の間に割って入ったのは海塚。逆手に持った刀が脚を狙う、と見せかけて、その切っ先はくるりと天を指した。逆手の大上段。意表を突かれた竜胆は対応が遅れた。打ち込まれた一刀を弾きはしたものの、その額には縦一文字の傷が開く。血が噴き出し、目に流れ込む。一瞬うろたえた竜胆の背に打ち込む忠善。竜胆は身を翻したが、右肩に傷を負う。鮮血が竜胆の上半身を染めて行く。



 孫一郎は甚六に近付き、懐から手を取り出した。


「甚六、これを」


 何かを握った手を差し出す。手の中に入るほどのそれを受け取った甚六は、目を丸くした。


「おい、これは」


「頼む」


 それだけ言うと、孫一郎は竜胆へと駈けて行った。



 忠善の突きを左腕一本でいなすと、脚を狙う海塚を横なぎの一振りで遠ざける。竜胆は唸っていた。痛いとも苦しいとも言わず、ただ唸り声を上げていた。血まみれの姿に左腕一本で刀を構え、凄まじい鬼気を放っている。


 その正面に、孫一郎は立った。


「服部竜胆殿」


 孫一郎の声に、場は、しんと静まりかえった。忠善も海塚も、攻める手を止めた。タコの化け物が暴れる音が、遠くに聞こえている。竜胆は孫一郎に切っ先を向けた。孫一郎は言葉を続ける。


「貴殿は強い。底なしの強さです。この世にこんな強い者がいる事など、それがしには想像する事さえできませんでした。これから百年修行しても貴殿には追いつけますまい。敵ながら尊崇の念に堪えません。なれど、それがしには守りたいものがあります。他の皆にも、譲れないものがあるのです。貴殿が諦めないというのなら、生かしておく訳には参りません。最後の願いです。愚かと笑ってくださって構いません。どうか諦めてはくださいませんか」


 竜胆はしばし風の音を聞くように、静かに首を傾げていたが、不意に小さく笑った。


「諦める事に意味があるのか。諦める事に価値があるのか」


 孫一郎は笑顔で一歩近付いた。


「生きる事には価値があります。生きるために諦めるのなら、意味はあります」


「もし本当にそう思っているのなら」


 しかし竜胆の言葉に、孫一郎の笑顔は凍り付いた。


「おまえには何もできない」


「え」


「誰かに勝つ事もできないし、何かを生み出す事もできない。おまえの人生には闇しかない。光なんて何処にもない」


 眉一つ動かさぬ竜胆に否定され、孫一郎は愕然とした。そして。その口から言葉がこぼれ落ちた。


「ああ、なるほど。そういうことなのですね」


「……何」


 竜胆の眉が動いた。孫一郎に再び笑みが浮かぶ。心の底からの笑みが。


「それがしはずっとこう思っていました。諦めても次があるのだと。生きていればやり直せるのだと。ずっとそう思って、でもずっと何処かで自分を疑っていました。もしかしたら自分は間違っているのではないかと。けれど今わかりました。それがしは間違っていなかったのです」


 竜胆は二の句が継げずに居る。一方、孫一郎の口は止まらない。


「それがしは正しかった。でも竜胆殿、貴殿も正しいのです。と言うか、正しいことは世界に沢山あるのです。たった一つの正しい道など、探す必要はなかった。そんなことに意味などなかった。それがしがやるべきだったのは、正しい方法で正しい刀を打つ事ではなく、その刀の持つ正しさを見出せば良かっただけなのです。答はずっと目の前にあった。こんな簡単なことに気が付かなかったなんて、それがしは何たる間抜けなのでしょう」


「間抜けなのは同意するよ」


 竜胆は口の端で笑った。


「それで、私にどうして欲しいのだい」


「父上のところに帰ってください」


 そして孫一郎は、もう一度繰り返した。


「生きる事には価値があります。生きるために諦めるのなら、意味はあります。それがしは、会津に戻って刀を打ちます。貴殿も国に戻ってやり直してください」


「……驚いたね。さっきとはすっかり別人じゃないか。見違えたよ。だけど、一つだけ言わせてもらって良いかな」


「何でしょう」


「私はおまえが嫌いだ」


 そう言うや否や、竜胆は刀を大きく振り上げ、それを孫一郎に叩きつけた。左腕一本の打ち込みでありながら、両手で受けた孫一郎の膝がきしんだ。だが。孫一郎はそのまま前に出た。そして竜胆の左手を掴まえる。


「甚六!」


 その声に応じて甚六が手から放ったそれは、不規則に回転しながら宙を飛び、赤い柄をこちらに見せて、音もなく竜胆の額に突き立った。それが椿の護り刀だと、知っているのは二人だけ。竜胆は声もなく仰け反った。忠善と海塚の刀が、前後から竜胆の胸を貫く。


 胸の刀が抜かれると、竜胆は膝から崩れ落ち、そして横向きに倒れた。だが歓喜の声はない。誰も笑顔を浮かべる事なく、ただ冷たい風が吹き抜けるだけだった。

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