第36話 一生一度の願い
「残り五人か」
牛滝の山中。服部竜胆の周りに膝をつく影は四つ。あれだけいた配下の忍びは、もはやこれだけ。本当はあと三人いるのだが、根来雑賀への兵糧弾薬を手配するのに、伊勢へ走らせた。その根来雑賀の一揆勢は、近木川沿いの付け城に続々と集まってきている。歴史の歯車が動き始めていた。
「おりんさま、いかがいたします」
一人の忍びの言葉に、竜胆は笑みを浮かべた。
「いかがも
「それだけでよろしいので」
別の忍びが言う。
「どういう意味だい」
忍びたちは口々に答えた。
「お言葉ながら、おりんさまは国盗りを企んでおられるのでは」
「ならば我らも、お役に立ちとうございます」
「我ら四名、最後までおりんさまについていく所存」
竜胆は呆れたようにため息をついた。
「あのね、忍びなんてのは言われた事だけやっていれば良いんだよ。余計な事はしなくて良いの。そんなヒマがあるなら、みぞれをさらう手立てを考えな」
しかし四人は返事をしない。沈黙をもって主張している。
「まったくおまえらは……ホント馬鹿だね」
竜胆がニヤリと笑った。
河毛源次郎が孫一郎を案内したのは、岸和田城の茶室であった。にじり口からのぞくと、奥に中村一氏が一人、目を閉じて座っている。孫一郎が茶室に入ると、外から河毛が戸を閉めた。
囲炉裏には火が入っている。だが湯を沸かしている様子はない。茶を点てるつもりで呼んだ訳ではないという事だ。
「……あの」
孫一郎が声をかけ、ようやく一氏は目を開いた。
「来てくれたか」
「何事にございましょうか」
しかし一氏の目は孫一郎を捉えず、虚空に泳いでいる。
「大戦の話、そなたも聞いておろう」
「はい、噂は」
「おそらく明日か明後日には戦が始まる。もう避けようのない事だ。それは構わん」
一氏は口元に微かな笑みを浮かべた。
「余は侍であるからな。敵が何万居ようとも、逃げるつもりも負けるつもりも毛頭ない。もし仮に力及ばず負けたとしても、城を枕に討ち死にする覚悟はできておる。だが」
一氏の笑みが消えた。
「雪は違う」
そしてやっと一氏の目は孫一郎を見つけた。
「雪とて中村家の娘、覚悟はできているのやも知れぬ。されど余は、余は、雪にそんな覚悟をして欲しくはないのだ。余が負けるのは構わん。首を落とされてもやむを得まい。だが雪が戦の後、むごい目に遭うのではないかと、それが恐ろしゅうてならぬ」
そう言いながら一氏は、はらはらと涙をこぼした。これがあの中村一氏なのか。孫一郎は声も出せない。すると突然、一氏は畳に両手をついた。
「古川殿!」
「は、はいっ!」
「中村一氏、一生一度の願いにござる。雪を連れて逃げてはくださらぬか」
「はい?」
孫一郎は混乱した。何を言われているのか理解できなくなっている。しかし構わず一氏は、懐から重そうな巾着袋を取り出し、孫一郎の前に置いた。
「路銀は出そう。妻に娶りたくばそれも構わぬ。余を女々しいと笑いたくば笑うてくれても良い。ただ安らかな、雪に安らかな暮らしを約束してやってくだされ」
「あ、いや、しかし」
「他に頼める者がおらぬのだ。この通りにござる!」
一氏は頭を畳に擦りつけた。まさかこの状況で否は言えまい。孫一郎は「……はい」と蚊の鳴くような声で返事をするしかなかった。
「手詰マリデスネ」
寒風吹きすさぶ紀州街道、道ばたの地蔵堂の隣に腰掛けながら、宣教師はつぶやく。脇に立つ忠善もうなずいた。
「みぞれという娘をさらうにも、我らの面が割れている以上、簡単には参りますまい。死人の兵をすべて失った今となっては、岸和田城から声がかかるのを待つのが得策ではないかと」
「七日ハ短カ過ギルノデス。良イノヲ捕マエテモ、スグ燃エテシマイマス」
宣教師の言葉はもう愚痴になっている。忠善は口元を緩めた。苦笑したのかも知れない。
「まあ、また誰か良いのを見つければ、巻き返しはできるでしょう」
そう言いながら振り返った。微かな物音に気付いたのである。
あぜ道の向こうから、大きな荷物を背負った百姓の老人が歩いてくる。しかし足が悪いのか、ヨロヨロと覚束ない感じだ。老人は街道まで出た所で一度荷物を下ろし、腰を伸ばし周囲を見回した。そこで宣教師に気づくと、しばし驚いた顔で見つめた。そして荷物をそこに置いたまま近付いて来る。
忠善が割って入ろうとすると、老人は両膝をついて座り込み、手を合わせて宣教師を拝んだ。
「これ百姓」忠善は声をかけた。「何故この方を拝む」
「異国の偉いお坊さまでございましょう」
老人は不思議そうに忠善に答えた。
「オーウ、ヨク知ッテマスネ」
宣教師は嬉しそうに立ち上がると、一歩近付いた。
「司祭さま」
困り顔の忠善を余所に、宣教師は老人に言葉をかける。
「何カ困ッテイル事ハナイデスカ。特別ニ聞イテアゲマショウ」
「本当でございますか」
老人は喜ぶと地面に両手をついた。
「実は困っております。お坊さま、どうぞお助けを」
「ホウ、ドウシマシタ」
宣教師がのぞき込む。
「わしは、この近所に住んでおる杉乃助と申す者でございます。最近この辺りでは、戦の噂が絶えません。何でも、間もなく紀州の一揆が岸和田城に攻め上ると聞いております。一揆には家が焼かれた事があり、わしは大変に恐ろしいのです。そこで戦が終わるまで、小瀬の惣堂に
それを聞いた宣教師は露骨に面倒臭そうな顔をしたが、何かに気づいてこう問うた。
「ソノ惣堂ナラ安全ナノデスカ」
「おそらく。根来の衆も惣堂は焼きませんでしょうから」
そう杉乃助は答えた。宣教師は更に問う。
「戦ハ、イツ起キマスカ」
「はあ、晦日か元日ではないでしょうか」
「デハ……岸和田ノ町ハ、ドウナルデショウネ」
「岸和田は焼かれると思います。恐ろしい事ですが」
宣教師は何やら考えている。おそらく岸和田の旅籠を引き払うつもりなのだろう、と忠善は思う。すると。
「決メマシタ! 小生モ、惣堂ニ籠モル事ニシマショウ」
やはりそうなるか、忠善はため息をついた。
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