第十二章 天正十一年十二月三十日

第35話 呼び出し

「……という事なのですが」


 囲炉裏ばた朝餉あさげの席で孫一郎は、昨日卜半斎から言われた事を皆に話した。ここは旅籠ではない。昨日言われたから今日引き払うという訳にも行かない。


「有り難いじゃないか」


 海塚の母が飯を飲み込んでそう言った。


大戦おおいくさが始まるってもっぱらの噂だよ。出て行くには丁度良いだろ。おまえさん方は戦に巻き込まれなくて有り難い、うちは厄介者がいなくなって有り難い」


 だが海塚の妻は首を振った。


「いいえ、戦なら寺内町の中にいた方が安全です。出立するなら、戦が一段落してからにしてください」


 息子の信吾も同意する。


「そうですよ、うちはいくら居て頂いても、迷惑だなんて思わないですから」


 それを聞いて海塚の母がへそを曲げた。


「何だい、またアタシが悪者かい」


 海塚の妻は笑顔で首を振る。


「いいえ、お義母さまは悪者じゃありませんよ。単に性格が悪いだけです」


「信三郎! おまえ嫁にどんなしつけしてるんだい!」


「知りませんよ、私は」


 そんな会話を聞きながら、孫一郎はナギサに目をやった。ナギサは箸が止まり、遠い目で何かをつぶやいている。呪文を唱えているかのようにも見えた。




「それは間違いないの」


 ピクシーはナギサの視界の隅で踊っている。だが心なしか、楽しそうには見えなかった。


「我々の世界の史実においては間違いないね。この戦で岸和田城は落ちるよ。中村一氏は岸和田で死亡する。ただ貝塚寺内町については、記録が見つからない。寺内町自体はその後もずっと続くから、この戦で滅びるような事はないはずだけれど、巻き込まれたりしないのか、誰も死なないのかについては不明であると言えるね」


「じゃあ雪姫はどうなるの」


「それも記録には残っていない。中村一氏に妹が居たという記録はあるけど、それが雪姫の事なのかは不明。この時代で雪姫と言えば、北畠具教とものりの娘で織田信雄の正室である千代御前の事しか見つからない。ネットワークに繋がれば、もっと詳しい事も調べられるのだけれど、今は何とも言えないと言えるね」


「もっと早く教えてくれればいいのに。何で今頃」


「だって質問されなかったよね」


「この人がいつ死ぬかなんて、普通聞かないでしょうが」


「人間の普通は、僕らにはよくわからないと言えるね」


「法師殿、いかがされました?」


 気づくと、孫一郎がのぞき込んでいる。他の皆もナギサを見ていた。ナギサは椀を置くと、孫一郎を真っ直ぐ見つめた。


「孫一郎はどうしたいの」


「えっ」


「戦を避けてここを出たい? それとも」ナギサは小さく息を吸った。「雪姫のために残りたい?」


 孫一郎はしばしナギサと見つめ合っていたが、やがて目をそらし、うつむいた。


「それがしは……」


 その言葉を遮るように、玄関の閉じられた戸口の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「ご免。こちらは海塚信三郎殿のお宅か」



 海塚の妻が戸を開けると、そこに立っていたのは岸和田城の細身の与力。


「河毛源次郎と申す。古川孫一郎殿は、こちらにいらっしゃるか」


 自分の名を呼ばれて、孫一郎は返事をした。


「河毛さま、どうなされたのです」


 すると河毛は敷居をまたぐ事なく、その場で孫一郎に頭を下げた。


「朝早くから申し訳ない。殿より命を受け、参上つかまつりました。急いで岸和田城までご足労願えませぬか」


「それがしですか。はあ、構いませんが」


 いささか釈然としないまま、気の抜けた返事をした孫一郎だったが、河毛は再び一礼し、「では表にて待っております」と告げ、戸口に背を向けた。


「いったい何があったのでしょう」


 腰に刀を差しながら、孫一郎は海塚にたずねてみた。漬物をかじりながら海塚は答える。


「私が知る訳ないでしょう。何か怒らせる事でもしたんじゃないんですか」


「脅かさないでくださいよ」


 そして再びナギサと目が合った。


「あ……あの」


 しかしナギサは笑顔を返した。


「とにかく行ってらっしゃい」


「はい、行って来ます」


 そう言い残し、孫一郎は飛び出して行った。




 ◆ ◆ ◆


【顕如の日記】


天正十一年十二月三十日


 昨日は根来から献上品が届いたという。年末の挨拶だそうだ。この微妙な時期に厄介な。卜半斎が受け取ってしまったらしいが、これはまあ仕方ない。まさか追い返す訳にも行かないしな。そんな事をすれば、根来に敵対した事になる。本願寺は今、雌伏の時。秀吉公とも根来とも適度な距離を保たねばならない。


 だが雑賀には本願寺の信徒も多い。それにもう信長の居た頃とは違うのだ。根来も粉河も高野山も、滅多な事ではこの貝塚御坊に砂をかけるような真似はすまいて。

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