第九章 天正十一年十二月二十七日

第30話 灯りの向こう

 貝塚寺内町の南側出入り口、紀州口に近い場所には旅籠はたごが集まっている。ただ単にのきを連ねていただけではない。ここは後々の江戸時代、紀州徳川家が参勤交代の際に利用する『本陣』が置かれる事になる、格式の高い宿泊街であった。


 そこにある一軒の旅籠から、まだ明けやらぬ早朝に発つ客が六人。揃いも揃って陰気な連中である。いや、例外が一人だけ。


「サア、今日モ張リ切ッテ行キマスヨ!」


 黒い修道服を纏った紅毛の宣教師だけは元気はつらつ、軽快な足取りで先頭を切って、大通りを北へ進む。しかし他の五人はまるで死者の行列のように、ただ黙々と後をついて行くのみ。まあ実際、そのうち四人は本物の死人なのだが。


 二番目を歩く忠善の右手には提灯があるものの、まだ足下は暗い。しかしそれをものともせず、宣教師はどんどん歩いて行く。夜目が利くのだろう、他の連れが小走りになるほどの速さで歩いていた。だが、その足が不意に止まった。


「コノ辺リデスカ」


 そこには大通りよりも、更に一段暗い闇があった。路地の入り口だ。宣教師の言葉は浪・流・滴の三人に向けられたものだろう。滴が宣教師の前に回って片膝をつき答える。


「左様です。この路地の一番奥の家に、みぞれはおります」


「デハ参リマショウカ……オヤ?」


 路地に踏み込もうとした宣教師が、首を傾げた。


 路地の奥、いや一番奥ではない、中ほどの所だ。そこに灯りがあった。地面に置かれた灯明皿の火が、ついさっきまで闇だったはずの細い路地を照らしている。夜目の利く宣教師には見えていた。その灯明の向こう側に、覆面で顔を隠した人影が二つ。宣教師は笑みを浮かべた。


「サテサテ、ドナタデショウ」


「この奥には行かせない」


 それが灯明の向こうからの返答であった。




 相手はおそらく、こちらの事を知らない。だが甚六と与兵衛は、向こうを知っている。化け物じみた女忍者と渡り合う所を見ていたのだ。


 紅毛の伴天連はともかく、朱色の着物を着た長刀の剣士に六衞門とおぼしき菅笠の男、この二人は強い。正面から当たってもまず勝ち目はない。だがそれで構わない。甚六と与兵衛は守人である。勝利は求められていない。守るべき者を守りさえすれば、それだけで役目は果たせる。


 残りの三人は知らないが、動きを見れば忍びとわかる。しかし圧倒的に飛び抜けた力を持ってはいまい。最初に出て来るのが剣士なら、その第一撃をかわせれば、相手に与える衝撃は大きいはずだ。



 与兵衛は刀を構えた。彼の刀は先般の戦いで奪われたので、甚六の物を借りた。不思議なものだ。同じ数打物であるはずなのに、微妙に使いづらい。けれど、それを言っていられる場合ではない。


 提灯の光が揺れる。剣士が路地に入ってきたのだ。思った通り。相手の得物は長刀、場所は狭い路地。こちらに斬りかかるなら、普通に考えて真上から振り下ろすか、正面から突くしかない。いかに強くとも、刀の軌道がわかっていれば対応のしようはある。


 剣士は灯明の手前で立ち止まった。白い袴が浮かび上がる。長刀の先がこちらに届くかどうか、微妙な距離だった。


「そこを退いてはくれぬか」


 左手に提灯を掲げたまま、剣士は静かに話しかけてくる。提灯と地面の灯明に照らされたその顔は、死人のような無表情。


「退けるものなら退いている」


 甚六が応じた。すると剣士はうなずいた。


「それもそうだな」


 剣士の右手が刀に伸びた。上から来るか、それとも突きか。与兵衛が刀を水平に構えた。一瞬の銀光、長刀は片手で振り下ろされた。しかし。その先端は与兵衛に届かない。地面ギリギリにまで下ろされた長刀が、灯明の灯りを照り返した瞬間、剣士は二歩踏み込んだ。そしてレの字を描くように、切っ先は下から上に駆け上る。



 与兵衛の手から刀が飛んだ。だがそれに目を奪われる事なく、甚六は剣士につぶてを放った。長刀が再び上から下に振り下ろされる。剣士にはすべて見えていたのだ。けれどそのとき剣士を襲ったのは、激しい破裂音と硫黄のニオイ。


「火薬か」


 そう、甚六が投げたのは小石ではなく火薬玉。もちろんこんな物で敵は倒せない。ただ、ここは野原の真ん中ではない。人々の暮らす町の中なのだ。


「どうする。人が集まってくるぞ」


 甚六の言葉に応えたのは、目の前の剣士ではなく、背後の伴天連。


「決マッテイマス」


 その言葉は自信に満ちあふれて。


「人ガ集マル前ニ、用ヲ済マスノデス」


 路地の向こうの巨躯が、一番身体の小さな男を片手に乗せた。そして大きく振りかぶり、甚六の頭上へと投げ飛ばした。


「しまった」


 小さな影は甚六の頭上を越え、闇の中へと飛んだ。


 ざくり。


 嫌な音が聞こえた。気配はない。いや、かすかに足音がする。誰かが闇の中から出て来ようとしている。



「まったく、やめていただけませんかね」


 海塚信三郎は心底迷惑そうに言った。


「まだ日も出ていないのに刀なんか振り回して、危ないでしょう」


 そういう自分もさやごと刀を手にしているのだが、それは良いらしい。


「スミマセン。今ソチラニ、ウチノ者ガ一人行ッタト思ウノデスガ」


 海塚の位置から伴天連は見えない。長刀を持つ白袴の剣士の背後に隠れているのだ。しかし海塚はその片言を気にするでもなく飄々ひょうひょうと返事をした。


「ああ、何か飛んできたので半分にしましたが、いけませんでしたか」


 海塚はいつの間にか甚六の隣に立っている。


「オーウ……ソウデスカ」


 その言葉が合図にでもなったのだろうか。長刀の剣士は構える事もなく、ほとんど予備動作なしで海塚に向かって高速の突きを放った。それを紙一重、半身でかわした海塚は一歩踏み込む。そして右の逆手で刀を抜き打った。剣士は慌てて飛び退すさった。これもまた紙一重。剣士の手から提灯が落ちた。を斬られたのだ。落ちた提灯が燃え上がり、剣士の顔を照らし出す。目に光が宿っていた。


「貴様、足を狙うか」


 長刀の剣士が放った言葉に、海塚は面倒臭そうに答える。


「はいそうです、私は足を狙います。足を切るのが上手なのでね。いけませんか」


「武士ならばそんな剣は使わない」


「私は武家ではありませんから。所詮、地侍の我流の剣です。まともに相手などする必要はありませんよ」


「相承知」


 剣士は刀の柄を両手で握ると、大上段に構えた。そして一気に振り下ろす。それを海塚は逆手のまま片手で受ける。しかし勢いが止まらない。海塚は刃の背に左手を当てて堪えた。と、突然剣士は刀を引いたかと思うと、腰を落とし、一歩踏み込みながら真下から真上に向かって剣を走らせた。


 だがそのとき、剣士は見た。己の長刀の切っ先が、相手の刃の上を滑るのを。まるで刀の刃に沿って、したたり落ちる水滴の如く、その動きを逆回転させたかのように、つーっと滑り上がる長刀は、海塚の頭の上高くに跳ね上げられた。


 自らの刀の下に身を潜り込ませるように、海塚は身体を低く一歩踏み込む。そして逆手で握った刀を右手で振った。だがそこにもう一本の刀。剣士の背後から菅笠の男が突きを入れてきたのだ。海塚は咄嗟に腕の振りを変え、その突きを払いのけた。同時に地面を蹴り、後ろに下がる。顔の前に刀を構え、次の一撃に備えた。けれど、それはなかった。


 闇の中に響く、地の底から染み出すような奇怪な声。歓声か悲鳴か、それとも苦悶か絶頂の声か。同時に菅笠の男の全身から、突如青い炎が吹き出した。男は苦しげに地面をのたうち回る。しかしその火に、海塚は熱を感じなかった。


「七日の期限か」


 剣士のつぶやきの意味は海塚にはわからなかったが、これが致命的な痛手である事は間違いないようだ。海塚は刀を鞘に収めた。青い炎は徐々に小さくなって行く。


「じん……ろく……い……け」


 最後にそう声を絞り出すと、菅笠の男は地面に身を横たえた。やがて炎が消えたとき、そこには灰しか残らなかった。



「ちゅーぜん!」


 宣教師の声が響く。忠善が振り返ると覆面の男――さっき倒した片割れ――が宣教師に向かって走るのが見えた。浪と流が立ちはだかる。男はつぶてを放った。浪が体で受ける。そのつぶてが弾けた。また火薬玉か。いや、煙玉だ。もうもうと上がる煙が周囲を包んでいく。


 忠善は走った。自分が後ろから斬られる可能性は考えなかった。今は宣教師の身の安全が第一である。


「司祭さま!」


 声を上げながら煙の中に突っ込むと、宣教師はすぐ見つかった。覆面の男の姿はない。


「オウ、ちゅーぜん」


「司祭さま、一旦引きます」


「何故デスカ、アト一歩デショウ」


 信じられない、といった顔の宣教師に、忠善は天を指さした。


「空を見てください」


 宣教師は見上げた。徐々に晴れていく煙の向こうに、いつしか星は消えていた。そこに闇はなく、ただ灰色と藍色の混じった空が広がっている。もう夜が明けるのだ。


「この路地を押し通るのは簡単ではありません。機会を待ちましょう」


「ぬう~、シカシデスネ」


「人が集まってくれば、どんどんこちらに不利になってくるのです。六衞門も滴も失いました。これ以上は無益です」


 そこまで言われて、ようやく宣教師は決断した。


「イイデショウ、一旦退却デス」


 宣教師は、忠善は、そして浪と流はその場を離れた。



 長刀の剣士たちは退散したようだ。空の明るさが路地にも届くようになってきた。海塚信三郎以外には、二つの死体が横たわるのみである。


 一つ目の死体は、誰だろう。あの長刀の剣士が斬った者だ。刀傷は胸から喉を縦一文字に切り裂き、顎を切り割り、鼻の中程にまで達している。もう元がどんな顔だったのか良くわからない。


 二人目はその剣士の仲間らしき小柄な男。突然闇の中を飛んできたので、つい真っ二つにしてしまった。こちらも素性がわからない。


 姿を消したあの覆面の男。彼がいれば多少の情報はあるのだろうが、もう行方をくらませている。


 はあ。海塚はひとつため息をつく。本来なら今日は非番である。だが死体が二つも転がっている状況を放っておく訳にも行くまい。やむを得ない、今日は予定を変更して、死体の処理を午前中にやってしまうとしよう。家の仕事は昼からに回すしかない。ああ面倒臭い。

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