第四章 天正十一年十二月二十二日

第19話 雪降る空

 甚六が小瀬の惣堂に戻ったのは、深夜日付の変わる頃。与兵衛は松蔵からもらった握り飯を残しておいてくれた。握り飯といってもヒエやアワの混じったものだが、一日何も腹に入れていなかった甚六にとっては、何よりのごちそうだった。この飢饉の広がる折に、いったい松蔵は何処からこんな米を仕入れてくるのだろう。疑問ではあったが、その問いは封じていた。今はそれより優先すべき事がある。


「親父が生きてるかも知れない」


 無言で一気に握り飯を食い終わると、甚六は吐き出すように与兵衛に告げた。


「かも知れない、ってのはどういう事だ」


 甚六は順を追って話した。朝の貝塚寺内町で消えた娘たち、佐野の浜での事、そして夜の岸和田の惨劇。


「アレは見れば見るほど親父にしか思えない。だが見れば見るほど親父以外の何かにも思えて来る」


「何だそりゃ」


「だから俺にもわからんのだ。ただ間違いないのは、あの伴天連は何かを企んでいる。親父みたいに見えるあいつは、それに従う下僕だ」


「あの六衞門さまが、伴天連の下僕か」


「考えづらいだろう」


「確かに」


 与兵衛も腕を組み唸ったものの、一呼吸置いて、だが、と言った。


「その伴天連は、孫一郎さまに危害を加えそうなのか」


 甚六は惣堂の床に、大の字で寝転んでしまった。


「それもわからん。何もかもわからん。わからんという事しかわからんのだ」


「では明日はどうする」


 少し呆れたような与兵衛に、甚六は答えた。


「もちろん孫一郎さまをお守りする。あんな連中がウロウロしてるんだ、余計に放っておけんだろう」


 それだけ言うと、すぐに寝息を立て始めた。




 朝、雪が降った。ちらちらとはかなげに降る雪は、積もる事はないのだろう。会津の雪とは随分違う。けれど頬に落ちれば冷たいのは同じだ。灰色の空を見上げながら、孫一郎はその向こうに、見えそうで見えないあの顔を探していた。


「お侍さん」


 路地の入り口に立っていた孫一郎は、慌てて脇に退いた。声をかけた町娘は、通りの真ん中でクスクスと笑っている。孫一郎と同じくらいの歳だろうか。手甲てっこう脚絆きゃはんを身につけ、頭に手ぬぐいを巻いた、長い髪を背中で結んだ町娘。まだ幼さの顔に残る、笑顔の可憐な、吸い込まれそうなほど瞳の大きな娘であった。


「どうかなさったんですか」


「いやあ、それがし何かおかしかったですか」


 頭を掻き掻き、どぎまぎしている孫一郎が余程おかしかったのだろう、娘は声を上げて笑った。


「あら、ごめんなさい。でも空を見つめながら、ぼうっとしてましたよ」


「ああ、それは癖のようなもので。以前からなのです」


「あまりよろしくありませんね」


「そう、でしょうか」


「はい。雪降る空を見つめていると、心まで冷たくなります」


 何故だろう、それはまるで孫一郎がよく知る誰かが口にした言葉に思えた。


「娘さんは、この辺りの出ではないのですか」


 孫一郎のその言葉に、娘は大層驚いた顔をした。


「どうしてそう思ったのです?」


「いや、何となくです。何となく雰囲気が違うような気がして」


「私は三河の出身です。お侍さんもこの近辺の方ではないですよね」


「ええ、それがしは会津です。諸国を巡る旅の途中なのです」


「まあ、北国ですね。でしたら雪はお嫌いでしょうに」


「……そうでもないです」


 孫一郎は胸に手を当てていた。哀しげな、懐かしげな顔で。


「雪は、嫌いではありません」


 そこに。


「孫一郎」


 路地の奥から声がした。孫一郎が顔を上げると、娘の姿は何処にもなかった。


「あれ」


「どうしたの、孫一郎」


 路地の奥からナギサが顔を出す。


「い、いえ、別に何も」


「そう。朝ご飯できたってさ。奥さんに呼んで来てって言われたから」


「わかりました。ただ、あの、法師殿」


「何?」


 孫一郎はもじもじしている。


「いや、その、いくら何でも呼び捨てはどうかと」


「孫一郎は孫一郎でしょ。いいじゃんそれで。さ、早く行こ」


「ええー」


 親しき仲にも、と言いたかった孫一郎だが、背を向けてさっさと路地の奥に戻っていくナギサに、何も言えずじまいであった。



 孫一郎たちが消えた路地、その斜め向かいの路地の入り口に、さっきの町娘の姿があった。背後に迫る黒い影。影は言った。


「おりんさま、お控えください」


「良いじゃないか、減るもんじゃなし」


 服部竜胆は楽しげに笑う。


「我らの寿命が縮みます」


「長生きなどしても良い事は何もないよ。それよりも、さっきので間違いはないんだね」


「はい、みぞれはあの二人と一緒に居るものと思われます」


「手強そうには見えなかったけど」


「ご油断召さりませぬよう」


 竜胆が小さく手を挙げた。影はうなずくように頭を下げると、姿を消した。


「また紀州へも行かねばならない。早めに仕掛けたいが、さて」


 小さな声でつぶやくと、竜胆は何食わぬ顔で通りを歩いて行った。

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