第8話 草の宿命

 戦国の世では、多くの武将が諜報要員を雇用していた。彼らは『忍び』『草』『乱破らっぱ』『素破すっぱ』などと呼ばれ、情報収集や離反工作、破壊活動などを担当していた。俗に言う忍者である。


 伊賀や甲賀が有名であるが、戦国時代における実際の忍者の多くは特定の地方に生まれた訳ではなく、また専門的な訓練を受けていた訳でもない。元々は犯罪者や浮浪者が大半であったという。ただし、伊賀や甲賀に忍者を生業なりわいとする集団が居た事は事実であるし、その特殊技能や超人的な活躍で名を馳せた忍者が居たことも、また事実なのだ。


 ◇ ◇ ◇



 小瀬村の外れにある惣堂に甚六と与兵衛が着いたとき、まだ空の日は陰りさえしていなかった。だが今、惣堂は闇に覆われ、堂の真ん中に灯された一本の灯明皿の火だけが、命あるもののように揺れている。


「なあ甚六、遅すぎやしないか」


「親父は慎重が服を着て歩いてるような人だ。時間をかけすぎてるのかもしれん」


 与兵衛に答えた甚六の言葉の外には、小さなおびえがあった。もしそうでなかったらどうしよう。そんな事を考えてしまうと、いても立ってもいられなくなる。


 古川の家は、ごく少人数ではあったが、代々草を雇っていた。六衛門は、古川の草のかしらを長年務めている。その仕事ぶりを息子として部下として、甚六は見つめてきた。派手な事はしない。しかし常に慎重で堅実で賢明だ。六衛門の言葉に従う限り、大間違いは決してない。それは古川の草の衆、みなの一致した見解であった。甚六もそれに異論はない。ならば今は六衛門を信じて待つしかあるまい。だがその時間は無限のように感じられた。


 灯明の芯は三本目の寿命が尽き、その火を四本目に移したとき、惣堂の裏手で物音が聞こえた。甚六と与兵衛が飛び出して裏手に走り込むと、泥まみれの人間が倒れている。最初はよくわからなかった。灯明の光で顔を照らすまでは。


「太助!」


 それは太助の変わり果てた姿。全身の刀傷は深くその身をえぐっており、血が止めどなく噴き出し続けている。


「与兵衛は脚の血を止めろ。俺は腕と胴をやる」


 そう言いながら太助の体を仰向けにしようとして、甚六は右腕がない事に気付いた。


「畜生、誰がこんな事を」


 思わず手が止まる甚六に、与兵衛が振り向きもせずに言う。


「先に血を止めろ、馬鹿野郎」


「クソッ」


 甚六は太助の着物を細く裂き、失われた腕の付け根を強く縛る。太助はうめき声を上げた。


「甚六、気をつけろ」


 息も絶え絶えな太助の目は、もう甚六を見ていない。


「しゃべんな、太助」


「あいつら、ただの乱破じゃねえ」


「血はじきに止まる。助かるぞ」


 甚六は太助の反対側の腕を縛った。だが刀傷から流れ出る血は止まらない。


「ありゃあ、ありゃあ、化け物だ」


「うるせえ、しゃべんなって……太助、おい太助」


 肩を揺すっても、もう太助は返事をしなかった。その目は虚空に見開かれ、体は冷たくなって行く。与兵衛が肩を落とし、深く息を吐いた。風が吹き、灯明皿の火が消える。冬の夜の暗さと冷たさが、音もなく甚六と与兵衛に染み込んだ。


 与兵衛が重そうに口を開く。


「どうする、甚六」


「どうするって、俺に聞くのか」


「太助がこの有様だ。六衛門さまはもう戻ってこないかも知れない。もしそうなら、これからは甚六が頭だ。俺はおまえの言葉に従う」


 与兵衛の言う事はもっともである。だがそんないきなり頭になれと言われて、すぐに命令や指示など思いつくものではない。甚六が困惑していた、そのとき。


「おい、おまえら。そこで何してる」


 蓑と笠をかぶった男が一人、提灯をこちらに向けて立っている。何という事だ、甚六も与兵衛も、この男の接近にまったく気づいていなかった。余程動転していたに違いない。


 男は提灯を太助の遺体に向けた。小さく息を飲む。


「おまえらの仲間か」


「そうだ」


 甚六は正直に答えた。ごまかそうと思わなかった訳でもない。だが、この期に及んで嘘を吐いても、たいした利はないと思ったのだ。


 蓑と笠の男はしばし考えた後、こう言った。


「これを運べ。そのままにされたら、近辺の村が迷惑する」


 太助を背負いながら、与兵衛がたずねる。


「こいつを連れて行ってどうするんだ」


「この先に、百姓が逃げて誰も耕さなくなった畑がある。そこに埋めろ」


「百姓が逃げた土地は、村で見るんじゃないのか」


 と甚六。すると蓑と笠の男は何かをこらえるような声を絞り出した。


「紀州の連中が攻めて来れば、そいつらが田を焼き払い、岸和田城の連中が攻め返せば、侍どもが畑を台無しにする。その繰り返しだ。自分の田畑でんぱたが荒らされて途方に暮れてる俺らに、余所よそを心配してる余裕はない。手入れのされてない畑に死体を埋めれば、まあ見つかる事はあるまいよ」




 夕餉ゆうげの後、ナギサたち三人が案内されたのは、海塚邸の端の板の間。片隅にわらを編んだゴザが何枚も重ねてある。


「すみません、片付けたのですが、あまり綺麗ではなくて」


 海塚の息子が申し訳なさそうにしている。しかし孫一郎は満面の笑みだ。


「いえいえ、もう充分ですから」


 だがナギサは目を点にして絶句した。しばし間を置いて、ようやく出てきた言葉がこれだ。


「え、布団とかないの」


「フトン……って何ですか」


 海塚の息子は不思議そうにナギサを眺めている。孫一郎もキョトンとしている。ナギサの視界に緑色のこびとが踊った。


「この時代の庶民の家に、布団などというものは存在しないよ。貴族や大名や金持ちであっても、せいぜい畳の上に寝ているくらいで、そもそも布団という概念が存在していなかったと言えるね」


「マジか」


「防寒に関しては、キミの着ている服とコートで、充分対応出来るはずだと言えるね」


「寒くはなくても板の間だぞ。下が固いだろ」


「それについては、ご愁傷様としか言いようがないと言えるね」


 孫一郎が顔をのぞき込む。


「法師殿、いかがされました」


「何か不手際でもありましたでしょうか」


 海塚の息子がオドオドし始めた。


「これ信吾」


 そこに声をかけたのは、海塚であった。


「何を慌てているのですか。こちらは親切で泊めてあげましょうと言っているのです。気に入らないというのなら、出て行ってもらいなさい」


「しかし父上、卜半斎さまから御世話金を頂いたのではありませんか」


 息子のその切り返しに、海塚は一瞬黙ってしまった。金を受け取っているのか。


「信吾、余計な事を申すものではありません」


 機嫌を損ねた顔の海塚に、孫一郎は取りなすように語りかけた。


「あの、それがしといたしましては、屋根の下に泊めて頂けるだけで有り難いのですが。他の皆もそうだと思います」


 それを指さして海塚は言った。


「ほれ、客人もこのように申している」


「父上」


 息子は海塚をにらみつけた。父に似ず正義感が強いのだろう。それを海塚は困ったような顔で見つめた。


「信吾、聞きなさい。確かに今は武家が目立つ時代です。義心や仁心、忠心が美しいものであるかのように、もてはやす者も多いでしょう。しかしいかに正道を行こうと、腕が立とうと、剣を振り回せば飯が食えるなどというのは、あと少しの間なのですよ。これから先は銭がものを言う時代となります。銭は大切にしなさい」


「そんな吝嗇りんしょくな」


「吝嗇結構、乞食結構。何と言われようが知った事ではありません。世の中がガラリと変わったときに、銭を持っている者が勝ちなのです。良いですね、くれぐれも銭は大切にするのですよ」


 海塚の息子は呆れ果てたように、深くため息をついた。孫一郎は困った顔で笑っている。だがナギサは知っていた。海塚の言う事が、決して的外れではない事を。おそらく大坂や堺には、すでにそういう傾向が表われているのではないか。海塚は時代の流れを敏感に感じ取っているのだろう。しかしそれを自分が口にすると、ややこしい事になるかも知れない。ナギサは素知らぬ顔を決め込んだ。

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