第一章 西暦二三四七年六月一日

第1話 始まりの闇

 闇。と言っても真の暗闇ではない。暗い空間のあちこちにある、モニタやゲージから漏れ出す明かりが、乗組員の顔を照らしている。ソナー音の響く実験用潜宙艦『オクタゴン』の艦橋には、張り詰めた静寂があった


 赤道上空三万五七八六キロメートル、静止衛星軌道。そこに八本の脚を伸ばし浮かぶオクタゴンの姿は、外からは徐々に宇宙の暗闇の中に溶けて消え行くように見えるに違いない。今、オクタゴンは時空に裂け目を作り、その中に潜ろうとしているのだ。


「亜空潜行速度五、六、七……」


 小柄で赤髪のソマ計測員の声が、静かに響く。このシチュエーションは何度目なのだろう。彼女は年齢こそ若いが、初回の実験から参加しているベテランだ。博士からの信任も厚い。


「潜行速度十で固定します」


 そのブラウンの瞳を一瞬閉じ、ホッとしたように小さくうなずくと、ソマ計測員はモニタから目をそらし、私に視線を向けた。次は私がうなずく番だ。


「空間曲圧十九度から二十度、耐圧装甲に異常なし」


 目の前のゲージの目盛りは細かく振動しているが、誤差の範囲内である。もし異常があれば赤く輝き、警告音が鳴る。しかし今は静かなものだ。


「ナギサくん」


 艦橋の一番奥から私に向かって、何処どこか心配げな声がかかった。


「艦内圧に異常はないかね」


「数値上、問題は見当たりません」


 私がそう答えると、博士はボサボサの髪をかきむしりながら、そのガリガリの神経質そうな顔を歪めた。


 艦橋の窓の外を、五機のドローンポッドが飛び回っているのが見えた。オクタゴン同様八本のマニピュレーターアームを広げ、その身を回転させながら飛んでいく。周囲に問題がないか探しているのだ。


「サエジマくん、ドローンポッドに異常の検知は」


「ありません」


 おかっぱ頭に四角い眼鏡のサエジマ計測員は、まるで吐き捨てるように言い切った。普段からそういう口調なのである。しかし博士はまだ安心しない。


「トガワくん、エンジン出力は安定しているね」


 屈強な肉体の技師長は、白く光る歯をむき出して笑った。


「タキオン圧は安定安定、超安定。出力に変化はなしですな」


「順調じゃないか」


 博士は、まるで不満であるかのような声を上げた。


「前回も途中までは順調だったんだ。でも失敗した」


「ありゃあ仕方ねえでしょう」


 技師長は苦笑している。


「何故だ。我が輩の設計も計画も完璧だというのに、何故失敗するというのだね」


 まるで理由がわからない、といった風な博士に向かって、トガワ技師長は大きなため息を返した。


「いや、だってあんた、設計図通りの部品使わねえじゃねえですか」


「予算というものがあるのだよ。性能と機能が同じなら、安い部品を使うのも仕方ないではないか」


「ところが機械には、相性ってのもありましてね。電気が通じりゃ何でも良いって訳にゃ行かんものなんですよ」


「それは我が輩の責任ではない。我が崇高な目的を達成させるべく、部品メーカーが要求水準を達成するべきなのである」


 技師長は僅かに顔を曇らせた。


「あんたまさか、今回も安物の部品使ってるんじゃ」


「倹約をしたかと言えば、まあそういう事になる」


 ヌケヌケとそう博士が答えたとき。


 突然の衝撃。艦内の何処かから爆発音が響いた。艦全体が激しく振動する。


「後部ブロック破断、亜空が浸透します。遮断防壁起動」


「タキオン圧急速低下」


「ドローンポッド、一部コントロール不能!」


「次元調整弁作動しません!」


「緊急脱出装置、一部起動しています!」


 ソマ計測員が叫んだ次の瞬間、私の足下に空間が広がった。そうか、緊急脱出装置が起動したのは私の所だったのか、などと呑気な言葉が脳裏をよぎった直後。


「うおっ!」


 私の体は、その暗い空間に吸い込まれた。こちらは完全な暗闇だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る