紅いろヒーロー
七海 露万
第1話 スカウトは突然に
ポン、と何かの弾ける音に田中健斗は足を止めた。
嵯峨山高校二年一組在校、通学途中のことである。健斗は成績普通、見た目普通、自慢するところがあるとすれば健康優良児で風邪を引いたこともなければ怪我をしたこともない毎年皆勤賞のありがたい体の持ち主であること。
健斗は音のした方に行きかけて、足元の靴紐に目をやった。
紐がほどけている。
かがんで靴紐を直していた時、再びポンという音が耳の近くで鳴った。さっきよりもだいぶ激しい音である。
思わずのけぞって後ろに飛び、彼は瞬発力を使って立ち上がった。
見ると、さっきまでいた地面が黒焦げになっている。
「げげっ」
どう考えてもおかしい状況だが、彼は左の靴紐の先が少し焦げていることしか見えていない。
「新しい靴なのに」
バイトして貯めたお金でやっと買ったのに。
先月は教科書を買わなければならなかったし、バイクの保険料の支払いもあったから金欠で買うのが先延ばしになった新品のスニーカーが、焦げている。
ふつふつと怒りがこみ上げて、健斗は焦げた地面を睨んだ。
ゆらりと彼の体から透明な炎が立ち昇る。
「どこのどいつだ、俺のスニーカーを焦がした奴は」
普段の彼なら絶対出さない低い声が漏れた。
ポン、と再び音がして、今度は彼の前髪が焦げる。だが、彼自身を燃やさずに済ませたのは彼の瞬時の行動によるものだった。
彼は音がした瞬間宙に手を伸ばし、何かの尻尾を捕まえて地面に叩きつけていたのだ。その尻尾の主の頭を靴紐の焦げたスニーカーでぐりぐり踏んで、健斗は鬼の形相でそれを睨みつけた。それはふさふさした毛を丸まらせ、頭を彼の足からどうにか逃れさせようとうごめいている。
「何で俺のスニーカーを狙うのか知らないけど、きっちり弁償してもらうからな」
口調は静かだが、その言葉には空気さえ凍るような冷気が宿っている。
「お許し下さい。決してスニーカーを狙った訳ではありません。あなたを殺そうとしただけなんです」
必死に言うそれの尻尾が縮んでいく。頭は地面に押し付けられているから、何を言っているのかわからないくらいくぐもった声だが、健斗は目を吊り上げてさらに怒る。
「スニーカー狙ってないのに、なんで焦げるんだよ?新品だぞ、これ。本当は取り置きできないところを、頼み込んで取り置きしてもらった一品なんだぞ?それを焦がしといて、よく平気な顔してられるなあ!」
怒りのせいで足に力がこもる。悲し気な声でそれが鳴いた。
「まあまあ、そう怒らずとも」
背後から若い男の声がした。そちらを健斗が振り返ると、同年代と思われる背の高い少年が高そうなスーツを着て立っていた。突然の出現よりも、その上品な佇まいに、健斗は我に返る。
「お前のペット?」
足元を指して尋ねると、彼はゆっくり頭を振った。
「ペットならもっと品位のあるものを飼う。それよりも、君、ヒーローにならないか」
「は?」
健斗は訝し気に少年を見た。
「時給は弾む。まあ、研修期間もあるから最初から高額保証はできんうえに、危険がつきもので保険にも入れないが、問題なかろう。普通のバイトよりも稼げるぞ?以前までは出来高制だったんだが、宇宙人の襲来が多くて止めたんだ。サービス業みたいなもんだな。外国人観光客が増えたら、その分狩り出されるっていう。わかりにくいか?勤務体制は月給制の社員か時給制のパートになるが、見たところ君は高校生だからパートで問題なかろう」
見た目よりもおっさん的言い回しの少年と足元の毛むくじゃらを交互に見返して、やっと健斗は気が付いた。
「これ、宇宙人?」
「そう。このところ地球人を焼き殺す事件が頻発して新聞を賑わしていただろう?その犯人が君が今足で押さえているやつだ」
「じゃあ、お前は?」
「私は地球防衛戦線宇宙人対策委員会の会長彦島だ。詳しい事は石黒が説明する」
彦島が言うと、どこに控えていたのかブルーのスーツの背の高い青年が前に進み出た。彼のスーツに不似合いな黒縁の眼鏡の奥のつぶらな瞳が、真面目で誠実な人柄を想像させる。
「会長、お時間が」
「ああ。じゃあ、君、えっと、健斗か。ハイカラな名前だなあ。また今度ゆっくり会う機会があるだろう。またな」
彦島は現れた時と同様に突然消えた。
「それでは、少年、こちらにサインを」
ブルースーツの石黒が書類を手に健斗の前にやって来る。
「え、ハンコじゃなくても大丈夫ですか」
「構いません。形式的なものですから」
健斗が氏名を書くと石黒が確認する。
「田中健斗君。これから世界を救ってくれる
「こちらこそ、宜しくお願いします」
健斗がお辞儀した途端、足元の宇宙人が逃げ出した。
「見てろよ、地球人…」
皆まで言う前に、石黒がパチンと右手の人差し指と親指を鳴らした。
それで事は済んだ。
宇宙人は掻き消えた。
「えっと?」
健斗は何が起こったかわからず、石黒の手元の書類を見た。
「後処理は私の方でしておきます。それで、ユニフォームなのですが、会長より直々に受け取ることになりますので、後日また詳しい日時と場所をお知らせいたします。それから、パート勤務者のお給料は手渡しになりますが宜しいですか」
「はい。あの、週どれくらい働けるんですか。っていうか、夕方まで学校なので、それ以降しか働けませんけど、土日は他のバイトがなければ全日大丈夫です」
健斗は石黒から別の書類を受け取って目を通す。小難しい文章が並んでいるが、ある言葉が目を引く。
「特別措置?」
「地球防衛戦線に属する者はいついかなる時も招集に応じねばなりません。ですから、学校に在校している時でも特別措置が働きます。安心して出勤なさって下さい。それから、出勤頻度は宇宙人襲来によりますので、何回あるかは確約はできません。もう一つ、大事なことを。彦島から言われたと思いますが、危険な職業ですので保険に入ることができません。その代わり、彦島の所有する施設で健康に及ぼす害を撤去できますので不安に思われることはないでしょう。もちろん、従業員割引があります」
「え、バイト代でまかなえる範囲ですか」
「無料に近い額ですよ。他に質問がなければ、今日はこれで」
書類を手から消して、石黒が目礼をする。
「あの、一つだけ。さっきの彦島会長、なんで俺の名前がわかったんですか」
「ああ。あれはあの人の特技です」
石黒は事も無げにそう言って眼鏡の奥で優しく微笑んで見せる。もちろん、健斗を安心させる為に。
「そう、ですか。それじゃ、シフト決まったら教えて下さい」
健斗はどこか夢見心地で言った。
「シフト、か」
ふふ、と笑って石黒は健斗に右手を差し出した。
「よろしく、新人君」
石黒の右手を取って、健斗は握手を交わした。思ったよりも石黒の手はがっしりしていて、強い力だった。
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