迷子になる
佐藤鳩
迷子になる
梅雨入りから五日ぶりの晴れだった。昨日まで降った雨を日の光が優しく空に返す。
せっかくの天気だというのに、午前中から気が滅入ることがあった。
「おい、お前がまとめた取引先向けの資料、また間違ってるとこあったぞ」デスクで作業をしていると係長に肩を叩かれた。
「あ、すみません、修正します」
「もう俺が直しといたよ、お前最近たるんでないかあ?もっと気合い入れろよ」
「すみません、ありがとうございます」
係長は根性論好きだ。その後しばらく説教が続いた。もっと仕事に全力で立ち向かえ、営業は戦だと思え、守りに入るな、そんな話が次々飛び出す。おれは係長のぽんと飛び出た腹に視線を落としながら、はい、はい、とうなずき続けた。
午後は外回りに行くと言って係長から逃げるように会社を出た。得意先を数件訪ねた後、もやもやした気持ちを切り替えたくて会社から離れた大きな公園に寄った。日は少し傾いているがじっとりと暑い。
都心の公園は観光地としても人気があり、非常に賑わっている。社会人になると同時に上京して五年が経ち、こうして落ち込んだ時に立ち寄る場所も出来た。涼しい木陰のベンチで缶コーヒーを飲む。遠くで噴水周辺の鳩にパンくずを撒く青年をぼんやりと眺めていると、目の前を修学旅行の学生達が通った。皆垢抜けない制服に薄汚れた白いスニーカーを履いている。
「そろそろ集合だよね」「集合場所どの辺?」
「時計台は……あ、こっちじゃないかも!あれ、今どこ?」
「私たち迷子じゃん!」
ポニーテールの女の子が口を大きく開けて笑うのを見て、おれは自分が修学旅行に行ったときのことを思い出す。
修学旅行二日目の午後は、五人一組で京都市内の自由散策だった。六月の京都は修学旅行生でごった返していた。おれは各班一台ずつ支給された携帯電話を首からぶら下げ、他の班員達と各名所を歩き回った。班は担任が勝手に決めた。白井も班員の1人だ。
白井は色白で華奢な容姿とは対照的に性格はざっくばらん、物怖じしない女子だった。おれは彼女がよその中学生ともめごとを起こさないか少し不安で携帯電話のひもを命綱みたいにぎゅっと握りしめていた。結論から言うと、特にそんな心配は必要なかったのだが。
午後三時半を過ぎたころ、そろそろ集合場所に向けて歩き出すかという話になった。集合は午後四時だ。ほそい路地を縦にばらけて歩いていると白井が耳打ちしてきた。
「ねえ、迷子になろうよ」
「へ?どういうこと?」
突然の言葉に少し驚いたが、前を歩く三人から目を離さないようにちらちらと見ながら聞き返した。
「そのまんまの意味、迷子になるの」
「なんで?」
「なんか、不完全燃焼じゃない?このままだと」
みんなで決めた計画通りのルートを計画通りに廻った。何の不満があるのかおれには分からない。
「なんかさ、まだ終わっちゃだめだと思うんだよね。私たちはまだ京都を分かってない気がする。だからさ、迷子になろうよ」
「ごめん、意味が分からない」
怪訝な顔をするおれを見て白井は口をあけて笑った。ポニーテールが小さく揺れる。
「私ね、知らない道をがむしゃらに歩くのが好きなの。時々地元でもやるんだ。帰れなくて家に電話してお父さんとお母さんに叱られることもあるけど」
「それは叱られて当然だと思う」
「今日はさ、君が携帯持ってるから大丈夫だよ!もし迷っても先生に叱られるだけだって」
白井が期待のまなざしで見つめてくる。その様子に少し照れながらも頭の中を色々な考えが巡る。そして携帯電話のひもを握りしめて言った。
「やっぱりだめだよ。叱られたくないし。ちゃんと集合場所に向かおう」
「えー、つまんないの」
白井は口を尖らせた。だが結局はおとなしくついてきた。
そして、おれたちの修学旅行は特に何事もなく終わった。
修学旅行から戻って以来、白井とはなんとなく疎遠になった。元々よく話すような仲でもなかったし、当然と言えば当然だ。中学三年では別のクラスになった。卒業式の練習も始まったころ、同級生との世間話で白井が海外の高校に行くことを知った。海外でやりたいことがあるらしい。
おれは当然のように地元の高校に進学した。昔からの友達と離れたくなくて大学も地元に決めた。特に大きな山も谷もない、無難で穏やかな日々だった。高校でも大学でも、風のうわさで白井が海外にいることは聞いていた。
社会人になって二年が過ぎたころ、中学の同級生から白井が日本で就職したと聞いた。誰もが一度は聞いたことがあるような会社だった。おれはというと地元では仕事が無くてやむを得ず上京した。小さな会社だが、たいした不満はない。
一度会社に戻り仕事を片付けアパートに帰宅したのは午後八時を回ったころだった。冷凍チャーハンを電子レンジで温める。香ばしい匂いが広がっていく部屋で机の上のはがきに目をやる。先週届いた中学の同窓会の案内だ。同窓会には成人式以来、行っていない。あの日、同級生たちとの再会をどうにも喜べなかったからだ。すでに働いているやつ、都会に慣れて垢抜けたようなやつ、二児の母だという子もいた。同じ時間を過ごした級友たちが自分の知らない世界で生きていた。それがなんだか思い出の断片とかみ合わなくて心地よくなかった。白井はそもそもそこにいなかった。
修学旅行のあの時、実は白井のことが好きだった。それなのにおれは迷子になれなかった。好きな人と一緒に過ごせる喜びを、知らない場所で知らない道に飛び込む恐怖が上回った。今日、あの日を思い返して実感した。あの日から今までずっと、なるべく静かでなじみのある平坦な道を歩いてきてしまった。白井に言わせれば、このままでは不完全燃焼。そんな生き方だ。
白井はこんどの同窓会に来るだろうか。もし来たとしたら、上手に迷子になる方法を今度は教えてもらえないだろうか。そんなことを尋ねるなんて変だと笑うかもしれない。あるいは、もうおれのことなど覚えていないかもしれない……。
翌朝、いつものように自宅から駅までの真っすぐな道を歩く。どこからか、少し気の早い蝉の声が聞こえる。道端の郵便ポストで立ち止まった。ボールペンで丸を付けたはがきをポストに入れる。少し考える。そして仕事用の携帯を取り出し会社に電話した。短い会話の後、携帯をカバンにしまう。いつもとは違う方向に歩き出す。今日も良く晴れた。おれは小さくうなずく。
よし、迷子になってみよう。
迷子になる 佐藤鳩 @kyusato
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます