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そうして迎えた、誕生日当日。時計の針が午前九時を指す頃には、陽史は事前に茉莉から教えてもらっていた、二人が暮らすワンルームマンションにお邪魔していた。
もちろん、みさきが出勤した頃合いを見計らって。
あいにく先方の方が週末にしか時間が取れないとのことで、出がけのみさきは、今日一日、茉莉が一人で留守番になってしまうことに申し訳ない顔をしていたという。でも今日に限っては好都合だ。その証拠に、茉莉は朝から超ご機嫌である。
「中古なんだけど、そのぶん新築と比べて家賃も安いし、リフォームもちゃんとしてるから古臭くないでしょ? ベランダがあるから家庭菜園もできて節約になるし」
「ふはっ、うん、そうだね。日当たりが良くて明るい部屋だよ」
「……なんで笑ってるの、ハタノさん」
「いや、しっかりしてるなーと思ってね」
「ふーん……」
玄関先で靴を履きながらスラスラ言う茉莉に笑ってしまいつつ、もしかしたら茉莉はみさきがよく言っている台詞そのままを丸暗記しているのかもしれない、と陽史は微笑ましく思う。いや、確かに内装も綺麗だし、ベランダにはまだ少し実が付いている夏野菜の鉢植えもある。でも、若干の説明口調が否めないのだ。そんなところも可愛いけれど。
「まあいいや。早く行こ、ハタノさん。スーパーは歩いて十分くらいだよ。わたしのリサーチだと、ケーキ作りに必要な材料もいつでもちゃんと揃ってるんだ」
「うん」
今にも駆け出して行きそうな勢いで瞳を輝かせる茉莉に「ハタノさん遅いよー」と急かされながらマンションをあとにする。どうやら茉莉は、昨日のことがあってすっかり遠慮が取れたようだ。それは何よりである。陽史もそのほうが万倍、嬉しい。
それはともかくとして、茉莉の道案内を受けて歩きはじめて早々、陽史は、そういえば今日は悠長に長話をしている暇はなかったと気を引き締める。
タイムリミットはみさきが帰ってくるだろう午後七時。茉莉リクエストの鶏の丸焼きは昼頃に昼メシとともに芳二が持ってきてくれることになっており、その場で焼くので心配ご無用としても、素人が作る本格ケーキに失敗は付き物として、果たして何回作り直せるだろうか。回数にも限界があるため、今からだって気は抜けないかもしれない。
でも不思議と、それほど気負いはなかった。成功してもそうではなくても、みさきには茉莉が自分を思ってくれる気持ちが一番のプレゼントなのだ。そのことを茉莉はきちんとわかっていて、だからこそ無謀とも思えるケーキ作りにだってチャレンジできる。
陽史も昨日、喜多と話して同じような気持ちを抱いた。それはきっと、一大事らしからぬ調子で軽く笑い飛ばした彼の人柄がそうさせてくれるのだろう。
チャンスは一度きりなんてことはない。茉莉も喜多も、これから何度だってチャンスはある。陽史はその時々で、そのときの自分にできる精一杯の手助けをするだけだ。
やがて時計の針は、午後四時を指す。
あっという間というか、いつの間にといった心境だが、気づけばもう東の空には夕焼けの赤が広がっているのだから、時間とはなんて恐ろしいものだと心底思う。
「……茉莉ちゃん。残り時間を考えると、次がラストチャンスだよ」
「う、うん。わかってる」
「茉莉、陽史、気合い入れていけ」
振るった小麦粉やベーキングパウダーが入ったボウルを見つめ、どうか成功しますようにと三人で念を送る。材料の買い出しを含め約八時間ほど格闘しているのだが、スポンジケーキが思うように膨らまなかったり、逆に焦げてしまったりして、レシピ本通りにやっているはずが、それらしい成果は今のところないのが現状なのだった。
予定通り昼メシを携えやって来てくれた芳二は、悪戦苦闘する陽史と茉莉の傍ら、どこから見つけてきたのかデカい鶏を焼き、パーティーメニューを量産していった。部屋の飾りつけまで手が回りそうにないと知るや、事前に茉莉が準備していた飾りを壁に貼り、食卓テーブルにもクロスを敷くなど、細々動いてくれたりもした。
というわけで、あとはメインのケーキだけなのだ。茉莉自身も自分がみさきを思う気持ちが何よりのプレゼントだとわかっていても、ここまで来たら成功させたいに決まっている。もちろん、芳二だって陽史だって、その思いは同じだ。
「言われなくても、ですよ。ね、茉莉ちゃん」
「うん。これが成功しなかったら今年は諦める。その気持ちでやる!」
「よし! その意気だぞ茉莉!」
芳二の応援を受けつつ、いざ最後の勝負へ。ボウルの中の粉たちに、どうか茉莉の思いを叶えてやってくれと祈りながら、陽史も茉莉のサポートに精を出すのだった。
*
それから約二時間半後――。
「で、できた……!」
「やったよハタノさん、芳二おじいちゃん! わたし、ケーキ作れたっ!」
茉莉の思いが通じたようで、キッチン台の上には出来たてほやほやの生クリームケーキが鎮座ましましていた。芳二と三人、思わずテンション高くハイタッチで喜びを分かち合いながら、本当に茉莉はよく頑張ったなと陽史は目頭が熱くなる。
甘い香りを放つそれは、だって茉莉の思いの結晶だ。この日のためにどれだけの準備をしてきたことか。それを思えば、成功してよかったと心から思うと同時に、こうして手助けできたこと、その時間を共有できたことが宝物のように思える。
「じゃあ俺、ささっと洗い物を済ませちゃいますね。疲れたでしょう、茉莉ちゃんは休んでて。芳二さんも。芳二さんとメシを食うようになって得意になったんですよ、皿洗い」
陽史は、腕まくりをしつつニッと笑って二人に休むよう促す。ここは一番体力がある自分の仕事だろう。皿洗いが得意になったのもそうだが、少女とジジイには少しの間だけでも体力回復に努めてもらいたい。だってメインイベントはこれからなのだから。
「あ、茉莉ちゃん。花瓶ってどこにある? 花を飾ろうと思うんだけど」
それからややして、きっと喜多は花を買ってくるはずだと思い至った陽史は、調理道具の泡を流しつつ後ろに顔を向けた。顔は見えないが、おそらく声は届いているだろう。ワンルームといっても広さは十分のこの部屋は、キッチンと生活スペースの間がお洒落なレース地のカフェカーテンでソフトに仕切られている。
「うるさいぞ陽史。それは後にしてやってくれ」
「……あ」
その奥から芳二の声が聞こえ、陽史は事情を察する。
「オッケーです。そのまま寝かせておいてあげましょ」
「ああ、それがいい」
茉莉は朝からものすごい張り切りようだった。何度も失敗を重ねながらも諦めずに挑戦を続けたケーキが、ついさっき形になって気が緩んだのだろう。なにも花瓶は今じゃなくていい。喜多がプレゼントすれば、きっとみさきは笑顔を浮かべて花瓶を出すはずだ。
――と。
「茉莉、ただいまー。ケーキ買ってきたよー。もう、鍵開きっぱなしだったよー。出かけないときでも戸締りはちゃんとしてねって、ママとの約束で――え?」
「……す、すみません、みさきさんのお留守中に。お、お邪魔しちゃってます」
「わしもいるぞ」
「ええっ!?」
思っていたより早くみさきが帰宅し、陽史たちはしばし、お互いを見つめ合いながら固まった。茉莉も寝てしまったので、喜多には急遽、今から駆けつけてもらおうと連絡を入れるつもりだったのだが、どうやらみさきのほうが幾分早かったらしい。
「――あ、あの。みさきさん、お誕生日、おめでとうございます。茉莉ちゃん、今は疲れて眠っちゃってるんですが、朝からすごく頑張ったんですよ。芳二さんと俺はそんな茉莉ちゃんの応援です。起きたら茉莉ちゃんをたくさん抱きしめてあげてください。今から喜多さんも呼びますから、今日は三人でめいいっぱい楽しんでくださいね」
そんな中、もう言うしかないと思った陽史は、居住まいを正すと今日の経緯をかいつまんで説明することにした。本来なら茉莉自身がするつもりだったのだろうが、この通り、みさきが驚いた声を上げても起きる気配がまったくないので致し方ない。
「みさきさんを驚かせるんだって張り切ってな。昨日もわしらと計画を練って可愛いもんだったんだ。わしらはもうお暇するが、あとは水入らずで過ごすといい。料理はほれ、温め直せばすぐに食えるし、ケーキも茉莉がほとんど一人で作ったようなもんだから」
そこに芳二も加わる。見るとしっかり帰り支度も済ませていて、あとは陽史と連れ立って部屋をあとにするだけだ。芳二もこれから駆けつける喜多と三人で過ごしてほしいと思っていたのだろう。無論、陽史もそのつもりだ。これ以上は野暮というものである。
「え、でも……。ここまでして頂いて申し訳ないですよ。お礼だって全然で……」
「いいんです。芳二さんも俺も、そのためにここにいるんじゃないですし。ただ純粋に、茉莉ちゃんがみさきさんを思う気持ちに胸を打たれただけなんです」
「そうだぞ、みさきさん。わしらはもう、ただの知り合いじゃないだろう? もしそれではみさきさんの気が収まらないというなら、これからも茉莉をわしの家に寄こしてくれ。それがわしにとって何よりの礼で、陽史にとっても楽しみな時間なんだ」
盛大に飾り付けられた部屋や食卓テーブルの上のケーキにちらちらと目を走らせながら言うみさきに、陽史と芳二は代わる代わる何もいらないと説得する。
むしろ留守中に部屋に入ったことのほうが気がかりだ。
いくら茉莉から許可はもらったとしても、ここは母子二人が暮らす家なのだ。ただの知り合いと言うにはやや密で、かといって喜多のように昔からの友人でもない自分たちが一日中部屋にいたことは、少なからずみさきのストレスになるだろう。
「そう言って頂けるのは有り難いですが……本当にそれだけでいいんですか?」
「いいも何も、わしらはそれが望みなんだ」
「……あの、俺たちが部屋にいたことが不快じゃなかったら、ですけど」
「そ、そんなことっ! 茉莉の望みを叶えて頂いて本当に感謝してるんです」
言い添えると、みさきは勢いよく首を振った。
ただ単に、ここまでのことをしてもらって何をどう返せばいいかわからない、といった心境なのだろう。とはいえ、その表情からは本当にそれだけでいいのかという迷いや葛藤が容易に読み取れ、陽史は今になって、考えなしだったかもしれないと申し訳ない。
――と。
「ちょっとすみません」
尻ポケットのスマホが震え、陽史は一時、その場を離脱した。時間的に考えて喜多からだろうかと目星を付ければ、相手はやはり喜多だった。
【こちらの準備は整った】
陽史は、たったそれだけのシンプルなメッセージにほっと息をつく。
【茉莉ちゃんが疲れて眠っちゃったので、すみませんが今から来てください】
そう返事を返し、みさきに向き直る。
「みさきさん。今から喜多さんが来てくれるそうです」
「え」
「というわけで、俺たちは帰りますね。長々と失礼しました。行きましょう、芳二さん」
「ちょっ……なんで喜多君が?」
状況が飲み込めないといった表情でしばし固まるみさきに会釈し、陽史は芳二を促して玄関へ向かう。言い方はあれだが、これで帰る口実が見つかった。あとは入れ代わりでやってきた喜多からいろいろと話を聞けばいい。それから、彼の本当の思いも。
玄関まで追いかけてきたみさきを振り切るようにして外廊下に出ると、ちょうどエレベーター脇の階段を駆け上がってきた喜多が目に入った。みさき母子が暮らすのは三階だ。七階まであるエレベーターは最上階で止まっているので、どうやら一秒をも惜しかったらしい。というより、メッセージを送ったときにはすでにマンションの下でスタンバイしていたようだ。一気に階段を駆け上がり、はあはあと荒い息をしている喜多は、しかしパリッと糊の利いたスーツを纏い、右手には綺麗にラッピングされた花束を持っている。
「お二人とも、本当にどうしたんで――喜多君……? どうしたの、その格好……」
と、そこに遅れて出てきたみさきが喜多を見て目を丸くする。
「じゃあ、あとは」
「ああ。芳二さんも泰野も、今日はありがとうございます」
「ちょっ、何なんですか、一体……」
みさきだけが目を白黒させる中、陽史たちと喜多はしっかりと視線を交わし合いながら廊下をすれ違う。ここまで来れば何も知らないみさきが些か不憫ではあるが、でもここから先は喜多が自分の口で言うことだ。その場に陽史たちは不要である。
エレベーターに乗り込むと、喜多がこちらを気にするみさきの背中を押して部屋の中へ促す姿が見えた。箱が降下を始めるのと部屋のドアが閉まるのは、ほぼ同時。芳二と一日の労をねぎらい合いながら、陽史は〝頑張れ喜多さん〟と心からエールを送った。
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