3-2

 その後向かった芳二の家でも、茉莉はこれといって変わった様子はなく、出された料理を美味そうに食べ、芳二もなんでもよく食べる茉莉に鼻の下を伸ばしっきりだった。

 それとなく茉莉の様子を気にかけてやってほしいと頼むつもりでいたのだが、それは茉莉が帰ったあとにしたほうがいいかもしれない。今日の茉莉は芳二にべったりで、よく芳二の手伝いもしたがるため、芳二の隣がなかなか空かないのだ。

 これではジジイを取り合うことになってしまうと若干青ざめた陽史は、メシのあと、買ったばかりのレシピ本を仲睦まじく眺める二人の傍ら、さっと洗い物を済ませる。

 今日のメシも最高だった。野菜をたっぷり練り込んだハンバーグに、ほかほかの白米。お洒落にクルトンが浮かんだコンソメスープには、玉ねぎのスライスとハムが程よく煮込まれていて、それらが絶妙に合わさった出汁は深みと奥行きが申し分なかった。

 サニーレタスにグリーンレタス、ミニトマトも定番の赤に加えて黄色やオレンジ、グリーンに赤紫と色がふんだんに盛り込まれ、目でも楽しめるサラダが付いていたのも茉莉の心を大きく掴んだようだった。ツナとベビーコーンが散らしてあったのも、いい。

「ツナはちょっと苦手なんだけど……」と言っていた茉莉だったが、いろいろな野菜と一緒に食べるとパッと目を輝かせ、「美味しい!」と満面の笑みを見せていた。

 皿を洗いながら、子供が好きな料理にどんどんシフトしていっているなと陽史は頬を緩ませる。先週はチキンライスとエビフライだったし、さて来週は、と今から楽しみだ。

「みさきさんに手伝ってもらうわけにはいかんのか? もしくは友達のお母さんや、こういうことが得意な人に心当たりはないか? 茉莉だけでは、さすがに工程が多すぎるじゃろ。手伝ってやりたいのは山々だが、どうもわしはこの手のことには疎くてな」

 すると、居間のほうから驚いた芳二の声が聞こえた。どうしたんだろうと水を止めてそちらに顔を出すと、途方に暮れたような顔でこちらを見る芳二の隣で、茉莉がレシピ本の端をぎゅっと握りしめ、今にも泣き出しそうな顔で唇を噛みしめていた。

「……どうしたんですか?」

「いや、茉莉がケーキを作りたいと言い出してな。わけ聞いても話してくれんのだ」

「ああ」

 そこで陽史は、茉莉の友達のことが頭をよぎった。花柄の、茉莉と同い年の女の子に渡すにはちょっぴり大人びたハンカチを選んだ相手。手作りのお菓子をプレゼントするために、たくさんのレシピ本を見ては、ようやく一冊を選んだ相手。

 どんな子かはわからないが、その気持ちだけで十分なんじゃないだろうか。

「……茉莉ちゃん。気持ちはわかるけど、俺も芳二さんが言った通り、茉莉ちゃんにはまだ早いんじゃないかな。お母さんに頼んで一緒に作ってもらったらどう?」

 けれど茉莉は、ぶんぶんと勢いよく首を横に振るだけだ。どうしても一人で作りたいのだろう、本を握りしめる手にますます力が入り、ページがくしゃりと音を立てる。

「……」

 それを見て、陽史も途方に暮れるほかなかった。せめて理由だけでも話してくれれば説得のしようもあるのだが、こう頑なでは、こちらもどう言っていいかわからない。

 レシピ本もハンカチも一生懸命に選ぶ姿を見ているため、茉莉の思いをできるだけ叶えてやりたい気持ちは一塩だ。けれど、ケーキを作るには綿密な材料の計量や、力がいる作業、オーブンで焼くという最終工程もある。火傷も心配だし、やはり茉莉一人で作るものにしては、ケーキはハードルが高すぎると言わざるを得ないだろう。

 心苦しいが、もう少し大きくなってから挑戦してもけして遅くはない。

「でも、明日は……」

 そう言うと、茉莉はとうとう泣き出してしまった。ぼろぼろと涙をこぼしながら、ひっくひっくと肩を揺らす姿は見ているだけで心臓が押し潰されそうで、陽史と芳二は代わる代わる茉莉を慰めにかかる。しかし茉莉はますます泣くばかりで、どうにもならない。

 苦し紛れに壁時計に目を走らせると、午後八時を少し過ぎた辺りだった。みさきが迎えに来る時間まではあと一時間弱といったところだろうか。前の二回のメシ友のときも九時頃が目安だったので、現時点で特に連絡もないことから今夜もおそらくそうだろう。

 ともかく、ただでさえ泣かせてしまい申し訳が立たないというのに、その上これから一時間も泣かせてしまうことになったら、みさきにどれだけ詫びても足りないくらいだ。

「……頼む、茉莉。せめて理由を話してくれないか。明日は何の日なんだ? ん? 話してくれんことには、わしらもどう手助けしたらいいか、わからんのだ……」

 芳二も同じ気持ちなのだろう、懇願に近い様子でどうにか理由を聞き出そうとする。

「そうだよ、茉莉ちゃん。芳二さんも俺も、茉莉ちゃんの助けになりたいんだ。どうして一人でケーキを作ろうと思ったの? 誰にも言わないから、俺たちに話してみてよ」

 陽史も芳二同様、泣き止んでもらいたい一心で語りかける。

 男二人にできることは、これくらいしか思いつかなかったのだ。だって、お菓子で気を引けるほど茉莉は子供じゃない。理由を話してくれるまで辛抱強く声をかけ続け、ゆっくりと気持ちを溶かしていくことしか、今の自分たちにできることはない。

「……本当に誰にも言わない?」

 すると、ややして茉莉が潤んだ目を上げた。

「約束する」

 すかさず小指を出して、指切りげんまんしようとジェスチャーすると、茉莉は少し考えるようにじっと陽史の小指を見つめ、それから芳二の顔を見る。芳二が深く頷くのを見ると、茉莉はやっと安心したように小さく息をつき、自分の小指を陽史の小指に絡めた。

 お菓子では釣られないが、どうやら誰にも内緒の約束事には心動かされるものがあったらしい。物は試しに言ってみただけだったのだが、泣き止んでもくれたし、どうにかこうにか一心地ついた気分だ。もちろん、約束したからには誰にも言わない。

「……あの。明日はお母さんの誕生日なの。それでケーキを――」

 それから茉莉は、ぽつぽつとケーキを作りたがっていた理由を話した。

 お年玉とお小遣いを貯め、プレゼントとケーキを作るためのお金を半年以上かけて用意したらしく、今日と明日がその使いどきなのだと言う。母の日もあったからなかなか計画通りには貯まらなかったと悔しそうに言いはするが、すごいことだと陽史は思う。

 自分が茉莉くらいの歳の頃なんて、お年玉はもらっただけ使うわ、お小遣いは早々に使い果たして母に泣きつくわで、とてもじゃないが茉莉の足下にも及ばない。

「部屋の飾りつけをするための色紙や折り紙も用意したの。『ハッピーバースデー』って色紙を切り抜いて、折り紙は輪っかにして。あとはママが仕事に行ってる間に飾って、ケーキを作って、って計画してたんだけど。……ハタノさんも芳二おじいちゃんも、わたしにはまだ早いって言うから、せっかくここまで準備したのにって悔しくて」

 そこまで言うと、茉莉はまたレシピ本を見つめてしゅんとした。

「ママ、茉莉の誕生日には、毎年張り切って朝からケーキを焼いてくれるの。見てて手順は覚えたし、手伝わせてもらったこともあるよ。だから、もう小三だし、わたしだけで作れるんじゃないかと思ったの。だってママ、自分の誕生日には『茉莉がお祝いしてくれるその気持ちだけで十分』って笑うだけなんだもん。いつも通り仕事に行って、帰りにわたしの好きなケーキを買ってきてくれて。ほんと、それだけなんだもん……」

「だから茉莉ちゃんは、お母さんに内緒で誕生日パーティーをやろうと思ったんだね」

「うん。喜んでくれる顔が見たくて」

「そっか」

「あと、料理も作れたらいいなって思ってたんだ。だから最初、ハタノさんにはわがまま言って『手作りの料理が食べたい』ってお願いしたの。連れてきてもらったのが芳二おじいちゃんのところで、すごく嬉しかったんだよ。だって今日のハンバーグも、この前のチキンライスとエビフライも、お誕生日メニューでしょ。ママもわたしも好きだし」

「そうだったんだ……」

「ごめんね、ハタノさん、芳二おじいちゃん。なんだか騙すみたいになっちゃって」

「そんなことない。そんなこと、全然ないよ」

「うん、ありがとう」

「……」

 陽史はそれきり、しばし言葉に詰まった。芳二も同じなようで、「やっぱりわたしにはまだ早いのかな」と呟き、小さな肩を落とす茉莉の頭を無言で撫でるだけだ。

 親の愛は海より深いとはよく言う。けれど、子供の愛も深い。

 実家には祖父母がいるとはいえ、母一人、子一人という環境によるところも、おそらく無関係ではないだろう。だからこそ茉莉はもう明日に迫ったみさきの誕生日をめいいっぱい祝おうと、ずっと前から誰にも秘密でこつこつ計画していたのだ。

 陽史は、そんな茉莉の思いに気づこうともせず、ハナから早いと決めつけてしまった自分がひどく悔しい。聞き方ならいくらでもあったはずで、さっきのように泣かせてしまう前に本人に尋ねることもできたし、母子をよく知る喜多に相談することもできた。

「でも、どうして秋成にも秘密にしてたんだ? わしらはまだ日が浅いが、秋成になら協力を頼むこともできただろう? それにやっぱり、火の取り扱いは許可できん。もし万が一、茉莉に何かあったら、みさきさんは一生、自分を責め続けることになるからな」

 そこに芳二が一つの疑問を投げかけた。

 やはりと言うべきで、させられないことはさせられないと、やんわりと釘を刺して。

 並々ならない思いと事情は察して余りあるものの、陽史も同感だった。まして料理まで作るつもりだったとなれば、到底一人で火の前に立たせるわけにはいかない。

「アキナリには……やっぱり言えないよ」

 すると茉莉はふるふると小さく頭を振った。

「どうしてだ?」

「だって一緒にご飯を食べてくれるだけで十分だし、アキナリだっていつも時間があるわけじゃないでしょ? ハタノさんに代わるまでのアキナリ、すごく疲れた顔してたし。でもママが心配して聞いてもなんにも答えてくれなくて、ママもわたしも、そろそろアキナリから卒業しなきゃいけない頃かもねって話もしてたくらいだったんだよ」

 芳二が聞くと、茉莉は寂しそうに少しだけ笑って、そう答える。

 それを聞いて、陽史は思わず〝喜多さんー!〟と声を上げそうになった。寸前で堪えたものの、右手は無意識にジーンズの後ろポケットに入っているスマホに伸びる。

 電話をかける相手はもちろん喜多だ。これでは喜多が浮かばれない。

「でも喜多さんは、茉莉ちゃんが頼ってくれたらすごく嬉しいと思うけどな」

「うーん、そうかな? けどアキナリ、前にカップラーメンしか作れないって言ってたし、もし協力してくれたとしても、きっと足手まといになっちゃうよ」

「おう……」

 それとなく喜多を推してみるも、茉莉の評価は実に手厳しいものだった。

 というか、手伝いに来たはいいものの、茉莉に怒られてばかりの喜多の姿があまりに想像に容易いほうが問題だ。第一、カップラーメンは作るものでもないし。

「じゃあ明日は、初めから喜多さんは呼ばないつもりなんだ?」

「うん。そのつもり。ここのところ、ずっと忙しいみたいだし、ハタノさんや芳二おじいちゃんに言われるまでは、わたし一人でできるって思ってもいたし」

「そ、そっか……」

 ドンマイ喜多、である。あとでこっそり教えてあげようと思うけれど。

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