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 そうして訪れた頼れる人――芳二の家は、季節柄、玄関ポーチに虫よけライトが吊るされていた。青白い光の下、例のごとくビーとしか言わない呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして玄関のガラス戸の向こうに見知ったシルエットが現れる。

「あ、こんばんは芳二さん。ちょっとご無沙汰してます」

「……なんとなくお前じゃないかと思ったぞ。またタダ飯をたかりに来たのか?」

 にっこりと愛想を振りまくと、芳二は最初からこの時間に家を訪ねてくる人に心当たりがあったのだろう、さして驚いた様子もなくニヤリと口角を持ち上げた。

 芳二を訪ねるのは夏休みに入る少し前――和真が実家のある横手へ帰省する前だったから、一ヵ月以上ぶりだ。その際も芳二は美味い料理や酒で手厚くもてなしてくれ、和真が秋田出身だと聞くと、秋田名物の稲庭うどんと、大根を燻して米ぬかで漬け込んだいぶりがっこ、それと横手名物の横手やきそばを土産にと、ちゃっかり約束を取り付けた。

 そんな和真は今頃、横手の実家でどんなふうに過ごしているだろうか。

 そういえばこの前久しぶりに連絡を取り合ったとき、『卒業したら東京そっちじゃなくて秋田こっちで就職しようかな』などとちらりと言っていた。しっかりしている和真のことだ、積極的に就職セミナーや合同説明会などに参加し、情報を集めているかもしれない。

 それはともかく。

「あ、そうなんですよ。けど今日はもう一人、芳二さんのメシを食べさせたい子がいて」

 陽史は、陽史の背中にやや隠れるようにして会話の様子を窺っていた茉莉を促すと、自分の横に並ばせた。茉莉が緊張した面持ちで「こ、こんばんは」と芳二に頭を下げる。

 あれからすぐに連絡がついたみさきは、幸い、茉莉を知人の自宅に連れて行ってもいいかと尋ねても特に訝しんだり警戒したりするようなこともなく、逆にしきりに恐縮されてしまい、『もしかして茉莉が何か我儘を言ったんですか?』と声色に焦りを滲ませた。

 いえいえいえ、と慌ててそれを否定すると、陽史は『でも……』と言うみさきに『急にその人と一緒にメシが食いたくなった俺の我儘ですから』と言って落ち着かせる。

 のちのちみさきに伝わるかもしれないと思い、喜多にも打ち明けていないもう一つの寂しさを自分が言うわけにはいかない。それに思い出したら急に芳二のメシが恋しくなって仕方がなかった。こんなときだけ頼るのもどうかと思うが、でも久しぶりに顔が見たくなったのも本当だし、茉莉だって陽史と二人きりで待つより少しは気が楽だろうと思った。

 そうしてみさきは結局、恐縮しながらも『……そ、そうですか? じゃあ、すみませんがよろしくお願いします』と陽史の提案を聞き入れてくれ、今に至る。

 仕事が終わったらこちらまで迎えに来るそうだ。陽史とも顔を合わせておきたいし、知人――芳二にも直接会ってきちんと礼がしたいとのことで、最寄り駅で降りたら茉莉ないし陽史のスマホに連絡を入れることで話がまとまったのだった。

 そのあたりの事情をかいつまんで説明すると、

「あの秋成が……。だからメシ友をお前に託したんだな。まあいい、さっさと中に入れ。そこのお嬢ちゃんも。茉莉と言ったか、遠慮なくどんどん食っていいからな」

 芳二は喜多が突然陽史を送り込んできた理由に納得したように頷くと、茉莉と目線を合わせて腰を屈め、その頭にしわしわの手を置くと二度ほどポンポンとする。

 相変わらず言葉遣いはぶっきらぼうなものの、茉莉の頭に手を置くときの手つきも、目線を合わせたときの表情も柔らかく優しい。そんな芳二のデレっとした姿を見て、やっぱり連れてきてよかったなと陽史は思う。いつも近所の年寄り衆や陽史とメシを食うばかりでは、芳二も張り合いがないだろうから。その実、すごく嬉しそうだし。

「ほら。芳二さんもああ言ってくれてるし、ほんと遠慮なんていらないから」

 機嫌よく台所へ向かっていく芳二の背中を眺めつつ、茉莉にこしょっと耳打ちする。

 いきなり作務衣を着た厳めしい顔のジジイが出てきてさぞ驚いたことと思うが、茉莉もきっとこの短時間で感じ取っているはずだ。自分に触れた手の温かさや向けられた表情の柔らかさ、優しさが嘘偽りないものだということも。すぐに台所から聞こえてきた、もはや鼻歌ですらない大音量の誰かの演歌も。すべて手放して歓迎してくれていると。

 さっそく台所から漂ってきた美味そうな匂いにつられるように茉莉が微笑む。

「うん。ありがとう、ハタノさん」

 そうして二人は玄関から居間へと上がり、まるで魔法のようにポンポン出来上がっていく芳二の手料理に舌鼓を打ちつつ、満腹になるまでそれを堪能したのだった。


 やがて時計の針が午後九時を指すかという頃になると、満腹になって眠気に襲われたのだろう、しばらく静かだなと思っていた茉莉は、気がつけばスース―と気持ちよさそうな寝息を立てていた。畳にコテンと寝転がって体を丸めている姿になんとなく懐きはじめた子猫のような印象を受けた陽史は、自然と口元が緩む。

「どうりで静かだと思ったら、いつの間にか寝ちゃいましたね、茉莉ちゃん」

「ん? ああ、じゃあ枕とタオルケットを取ってくる。ちぃと待っとれ」

「いやいや、俺が取ってきますよ」

「なら、寝室の押し入れにあるやつな」

「はい」

 よっこらしょ、と腰を上げかけた芳二を慌てて座らせ、陽史は茉莉を起こさないようゆっくりとした足取りで居間を離れ、勝手知ったる我が家で寝室へ向かった。

 芳二に和真を紹介したときの話には続きがあって、その日はたくさん飲んだため(芳二に飲まされたとも言う)、陽史も和真も泊まらせてもらったのだ。その際に寝室を使わせてもらったというわけで、芳二が押し入れから布団やら枕やらを取り出し甲斐甲斐しく寝床の準備をしてくれたという記憶も、おぼろげながら持っている。

 それは初めて《派遣メシ友》としてこの家を訪れた際、飲まされた酒の酔いも手伝って『芳二さんは、今の自分に満足してますか?』と口を滑らせたことがきっかけで、芳二がそこに入ったきり寝てしまった部屋だった。あのときはどう謝ったらいいかとずいぶん落ち込んだりもしたが、今はこうして家の中を自由に動き回っても家主からお咎めがあるわけでもなく、むしろ一言、二言で通じてしまうのだから、不思議なものだ。

 台所や風呂場、廊下以外はほぼ畳敷きの桑原宅の寝室は六畳ほどで、そこの押し入れから枕とタオルケットを持ち出すと、再び居間へ戻って茉莉を世話してやる。茉莉の頭は小さく柔らかで、くるんと丸まって寝ているのでタオルケットもずいぶん余る。

「ねえ芳二さん。さっきは詳しく話しませんでしたけど、茉莉ちゃん、母子家庭なんだそうなんです。お母さんは喜多さんの高校の同級生で、同窓会で再会してメシ友を始めるようになったって聞きました。相手に妊娠を告げないまま未婚の母になったことも、喜多さんから茉莉ちゃんとのメシ友を頼まれたとき、喜多さんが話してくれました。……でも、俺にできることって、こうして茉莉ちゃんとメシを食うことだけなんですかね?」

 規則正しい寝息を立て続ける茉莉の傍らに座り、陽史はたまらずその細い肩に触れた。

 わかっていないわけでは……ないと思う。

 あくまで他人の自分にできることは限られた範囲しかなく、それだって母のみさきからすれば助かっている反面、迷惑をかけていると思っていてもおかしくはないだろう。

 けれど、健気すぎる茉莉を思うと、もっと何かできることはないかと思う。それがたとえ傲りでも慢心でも、どうしても〝何かしたい〟と気持ちが突き動かされるのだ。とはいえ、みさきや喜多に言い出せない例のもう一つの寂しさを悟らせまいと小さな体で踏ん張っている茉莉の気持ちを思うと、陽史が勝手に動くわけにもいかないのだけれど。

「何を言う? お前のそのお節介で救われたやつは多かろうが」

 すると芳二がフンと鼻を鳴らした。「え?」と芳二のほうに顔を向けると、

「わしを近所の春祭りに連れ出しておいて寝ぼけたことを言うな」

 ピシャリ。言い切られてしまう。

「でも、今回はまだ九歳の子供が相手です。今までとはちょっと勝手が違いますよ」

 例えば、これまでは過ぎたお節介を受け入れてもらえていた。どんなに失礼なことを言ったり青臭い理想論を掲げたりしても、こちらの気持ちや言いたいこと、伝えたいことを汲み取った上で相手が言葉だったり行動だったりで返してくれていた。

 それは言い換えれば、相手が大人だったからではないだろうか。まだまだ若い陽史を立ててくれたからこそ、陽史は自分の思うままに行動できたというものだ。

 けれど今回は小学生の女の子が相手だ。三年近くも一緒にメシを食ってきた喜多にも本音を打ち明けずにいるのに、いつものようにズカズカとお節介を焼いたとして、果たして茉莉はみさきに本当の思いを言えるだろうかと、陽史には判断が付かない。

 一歩間違えば嫌われ、それっきり心を閉ざしてしまうかもしれないとも思う。そうなってしまっては喜多にもみさきにも本当に合わせる顔がない。だって、信頼して茉莉を預けてくれたその気持ちを丸ごと裏切ってしまうことになるのだから。

「フン。わしは歳なんて関係ないと思うがな」

 しかし芳二はまたもや鼻を鳴らした。即座に一蹴されて思わずムッと顔をしかめる陽史のことなど気にも留めずにお猪口に入った日本酒で唇を湿らせると、

「考えてもみろ、陽史。お前が今まで出会ってきたメシ友たちは、みんな〝きっかけ〟が欲しかっただけとは思わんか。そんなときに出会ったのがお前だったからこそ、お前が必死で作ろうとした〝きっかけ〟に心を動かされ、新しい日常が始まったんだ」

 茉莉が寝ている手前、声のボリュームを絞り、けれど力強く言い切る。

 それから気恥ずかしそうに頬を掻き、芳二は続けた。

「……まあ、全てがお前の理想通りの結果になったわけではあるまい。だがな、それでも響くものはあったはずなんじゃ。それを何を今さら怖気づいているんだか。心と言葉を尽くして向き合えば、相手が誰であろうと伝わることを、お前はわしらメシ友から学んだだろう。茉莉にもきっかけを作ってやれ。それができるのは陽史だけだとわしは思う」

「芳二さん……」

 陽史はそれきり言葉が続かなかった。

 まさか芳二がこれほどまでに自分を評価してくれていたとは思いもよらず、ただただ驚きと、数拍遅れて訪れるじんわりとした嬉しさで思考回路が上手く働いてくれない。

 はっとしたのもあった。

 芳二に言われてようやく、自分は〝派遣メシ友〟を通して出会った人たちに少なからず影響を与え、与えられ、今の日常があるのだと教えてもらった気がしたのだ。

 そんな中でふと心に灯ったのは、茉莉の心が健やかであるには自分には何ができるだろうという自問と、自分にできることを探そうという答えだった。

 それは信念とか信条と言い換えてもいいような、強い気持ちだ。相手が九歳の女の子だからというわけではなく、思えば今まで出会ってきたメシ友に対してもそうだったし、もしかしたらこれから出会うかもしれないメシ友に対しても、同じ気持ちを抱く。

 そのことに気づいた陽史は、一つ深く息を吐く。

 茉莉を見て、それから芳二に向き直る。

「芳二さん。俺、茉莉ちゃんや、茉莉ちゃんのお母さん、それから喜多さんにも、俺にできる精一杯のことをしようと思います。……って言っても、どうしたらいいかまでは、まだ思いつきませんけど。でも、茉莉ちゃんたちが笑顔になれる手伝いがしたいんです」

 だってそうだろう。喜多もひっくるめて茉莉たち三人が美味いメシを美味いと思いながら囲まなければ、なんの意味もないし本物のハッピーエンドにはならない。

 茉莉は聡い子だ。年相応の子供っぽさもありながら、妙に大人びているところも併せ持っている。人の様子や心の機微に敏感な部分もあり、そんな彼女なら、たとえ一時、満たされたとしても、すぐにみさきや喜多が自分のために時間を割いてくれていると察知するだろう。そうなれば茉莉は自分の我儘のせいだと落ち込むはずだ。みさきや喜多にとって茉莉が言いたいことも言えずに気持ちを押し込めてしまうことほど辛いことはない。

「フン。やっと迷いが消えたようだな。まったく。手のかかるやつだ」

 芳二はそう言うと、それきりテレビに向き直ってしまった。頑張れとか、お前ならできるとか、そういった言葉をかけるようなこともなく、ただお猪口の日本酒に口をつけては、おかずや漬物を肴にちびりちびりと飲み進めていくだけだ。

「はは。本当ですね。芳二さんに言われると、返す言葉もないですよ」

 陽史もまた、苦笑を混じえながらそう返しただけだった。

 もっともらしい励ましの言葉なんて、ただの上っ面のような気がしてならない。芳二の励ましは、さっきの身に余るような言葉でもう十分すぎるほど伝わっている。

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