■第四話 1-1

「――ここか」

 八月三十一日、夏休みも今日で終わりだという日の午後六時半。

 真昼の暑さをまだ存分に残しつつも空全体が茜色に燃える街中のとあるファミレスの看板を見上げ、陽史は喜多から送られてきたメッセージと何度か照らし合わせた。

 喜多に《派遣メシ友》を頼まれてから五日。茉莉と彼女の母――喜多と同級生だという太田おおたみさきが快く了承してくれたことで、今日の運びとなっている。

 茉莉と会うとき、喜多はいつもファミレスを利用していたそうだ。みさきの職場がこの近くにあり、終わったその足で茉莉を迎えに来て一緒に帰るのがこれまでのメシ友だったという。どうしても遅くなる日は、喜多が茉莉を部屋まで送ることもあったそうだ。

 相手が高校の同級生の子供ということもあるのだろう、喜多と母子はかなり親密な付き合いをしていることが簡単に窺える。いや、これまでのメシ友が軽い存在だったというわけでは、けしてない。ただ、昔からの知り合いであるぶん、喜多の肩入れの度合いも自ずと大きくなっていったのだろう。緒川のときも喜多はずいぶん頭を悩ませていた。

 みさきの仕事は、保険のセールスレディだという。

 相手方の都合ありきなところもあるため決まった時間に退社できるわけではなく、またノルマも厳しいそうで、口で言うには簡単だが、なかなかに大変な仕事なのだそうだ。

 それでもこの仕事を続けているのは、ひとえに茉莉を養うためだ。成果によって給与に変動もあるので、その点で日々の生活が助かっている部分も多いという。


 そんな喜多とみさきが再会したのは、四年前の八月に行われた高校の同窓会だった。ちょうどお盆の時期で集まりやすく、出席者の人数も多かったそうだ。

 綺麗になったり老けたり痩せたり太ったり……さまざまに変化した同級生たちがそれぞれに近況を語り合ったり昔話に花を咲かせたりする中、もともとクラスも一緒でそれなりに仲も良かった喜多とみさきも、例に漏れずに近況を報告し合ったという。

 するとみさきは未婚の母となっており、しかも一人娘は保育園の年長児、来年は小学一年生だというから驚いた。驚愕しきりの喜多に、みさきはしみじみ言う。

『それにしても、あっという間に小学生だよ。つい最近まで赤ちゃんだったのに、この前は下の前歯も抜けたし。……ほんと、子供の成長ってすごいよねえ』

 そして『見る?』とバッグからスマホを取り出し、ホーム画面にしている娘の写真を見せてくれたという。みさきに似て少し垂れ気味の目元がそっくりな娘の歯は、確かに下の前歯が一本なかったそうだ。歯が抜けた記念の一枚だったらしい。

 学年は同じだが早生まれの喜多はそのとき二十四歳、誕生日を九月中旬に控え二十五歳目前となっていたみさきは、娘も十月で六歳になるんだよと愛おしそうに言う。

『でも、心配なこともあるんだよ』

 けれど感慨深げな表情だったのも束の間、みさきの表情はすぐに曇った。

 どんなところかと尋ねれば、小学校に上がった際に、茉莉が学校が終わってから一人で過ごすことになるだろう時間の多さが心配でたまらないという。

 茉莉を妊娠していることがわかったとき、みさきも相手も大学一年。相手は高三のときに通っていた塾の他校生で、志望高が一緒だったことから励まし合っているうちにお互いに惹かれていったという。その甲斐あって……かどうかはわからないが、二人とも無事に合格。夢にまで見た明るいキャンパスライフを謳歌しはじめた矢先のことだったそうだ。

 しかしみさきは、彼に妊娠を告げずに一年間休学し、その間に茉莉を産んだ。

 両親は最初、どうして相手に言わないのと、特に母親のほうが気持ちが追いつかない様子だったそうだし、相手の彼のほうだって、そうだった。なぜ急に別れを告げられ、そのあとぱたりと大学にも来なくなったのか――きっと今でも訳がわからないままだろうと思うと、シャンパングラスにちびりちびりと口をつけながら、みさきは苦笑した。

『だけど、じゃあどうして言えるっていうの? お互い学生の身分で、まだ十代だよ。やりたいこともあるし、夢だってある。さあこれからってときに言えるわけがないよ。それに、彼のことばかり責めるのはやっぱり違うじゃない。……って言っても、親はなかなか納得してくれなかったんだけど。でも、茉莉がお腹にいるってわかったとき、不安や恐怖や、どうしたらいいかわからないって気持ちよりも、愛しいって気持ちが先に立ったんだよね。不思議と、この子がいれば何でもできるって希望しか感じなかった』

 そうして親の反対を押し切って未婚の母となったみさきは、それでも自分はすごく恵まれていると言った。いざ産まれれば両親は孫を可愛がってくれたし、そのおかげで復学もでき、大学も無事に卒業、安定した仕事にも就くことが叶った。

 それを機に実家を出たみさきは、以来、行政の援助も受けつつ茉莉を一人で育ててきたという。両親はしきりに、あえて過酷な道を選ばなくてもと言ってくれたが、未婚で茉莉を産んだ上、大学まで卒業させてもらってこれ以上はどうしても甘えられなかった。

『今は保育園の預かり保育を利用してるけど、小学校に入ったらそうはいかない。もちろん学童保育には預けるよ。でも、問題はそれが終わって家に帰ってきたとき、茉莉が一人になっちゃうことよ。私が我儘を通したばっかりに、茉莉にはこれまでもたくさん寂しい思いをさせてきた。私が茉莉を振り回してるって自覚も、もうずっと前からある。けど、家に一人でぽつんといる茉莉の姿を想像すると、もうたまらなくて。仕事が終わって保育園に迎えに行くと〝ママ待ってたよ〟ってぎゅーっとしてくれるんだけど、そのたび、あの小さい体にどれだけの寂しい思いを抱えてるかと思うと……。だから、収入が減るのは正直すごく痛いけど、もっと残業の少ない仕事に転職したほうがいいんじゃないかって、本気で考えるようになってきてる。やっぱり茉莉以上に大切なものはないし』

 今日はお盆休みでこっちに帰ってきてるから同窓会に来られたけど、必要なときだけこうして頼るのって違うじゃない――再び苦笑して、みさきはそう続ける。

『でも、現実を生きるためにはその大切なものにも犠牲になってもらわないといけないこともあるんだよね……。茉莉は〝もう小学生になるんだし一人でお留守番できるよ〟って言ってくれるけど、本当は寂しくないわけないじゃん。私と一緒にご飯が食べたいに決まってるじゃん。なのに、ほんと何やってんだろなー、私……。本当は今日だって、ちょっとだけ現実から逃げたくて来たところもあるんだから、そんな自分に軽蔑するよ……』

 そしてそう言うと、ふっと遠くに目をやり、口元に自嘲的な笑みを浮かべた。

『――だったら、俺に協力させてくれないか』

『え?』

『俺もそっちで大学生をやってる。仕事をしながら一人で子育てしてる太田の前で恥ずかしいが、二浪してようやく入れたんだ。さらに恥ずかしいことに留年もしちまってる。けど、同級生がこんなに頑張ってんだ、自分に軽蔑するとまで言ってんだ。黙ってられるわけがないだろう。もちろん太田と娘さんさえよかったらというのが絶対条件だが、一度考えてみてくれないか。……俺、男だし、信用できないかもしれないが』

 そのときの喜多のこの言葉が、今の《派遣メシ友》の原型となっているそうだ。

 茉莉に〝誰かと一緒に食うメシ〟の美味さをもう一度思い出してほしい、どんなに微力でも何かみさき母子の助けになりたい――その思いで始めたメシ友だったという。

 最初はいくら同級生だからって迷惑はかけられないと渋っていたみさきだったが、喜多の必死の説得の甲斐あって次第に心が動いていったのだろう。その後、三人で会う回数を重ねていき、茉莉が小学校に入学するタイミングでメシ友が始まったそうだ。

 茉莉はまだ幼いながらもみさきの仕事のことをよく理解していて、一人で自分を育ててくれている彼女のことが本当に大好きだ。メシ友を重ねるたび、この前の日曜日はどこに行っただの、今度はどこに行くだのと笑顔で話す茉莉を喜多もたまらなく可愛く思う。

 けれど、ふとした瞬間に無理して作ったような笑顔になることがあったという。

『……アキナリ。ママね、いっつも茉莉に〝ごめんね〟って言うの。お仕事が忙しくて一緒にいられる時間がないからだと思う。でも、茉莉も〝ごめんね〟なの。学校のプリントも出し忘れちゃうし、ママに〝おかえり〟って言うことしかできないし……』

 ファミレスでみさきの仕事が終わるのを待つ間、学校の宿題をテーブルに広げながら、茉莉は『ママには内緒ね』と前置きした上でそんなことを言ったこともあったという。

 そのときは喜多もたまらなかったそうだ。大好きなママからの〝ごめんね〟と、小学一年の子供の〝ごめんね〟がひどくひどく胸に突き刺さり、言葉がなかった。

 結局茉莉の内緒話はその後、茉莉には秘密という形で喜多がみさきへと伝え、みさきは〝ごめんね〟の代わりに〝ありがとう〟と口にするようになった。そのおかげもあって茉莉の笑顔は徐々にその年頃の屈託のなさを取り戻していき、茉莉もまた口癖のようだった〝ごめんね〟が〝ありがとう〟へと変化していったのだそうだ。


 しかし茉莉のほかにもメシ友を望んでいる人は思ったより多かった。

 表情や口には出さなくても、喜多には心の内側に寂しさを抱えている人がわかる――それはきっと茉莉を介して人の心の機微に敏感になったからだろうと喜多は言う。

《派遣メシ友》のルールができたのは、ちょうどそんな頃だ。

 茉莉とメシ友を始めて一年。

 小学二年生になった茉莉は背も伸び、顔もだんだん大人びてきて、ますますみさきに似てきていた。一度気を許した相手には甘えたがりになるのだろう、いくらみさきに注意されても喜多を〝アキナリ〟と呼び捨てにするところは相変わらずだったし、ランドセルはラメ入りの明るいレッドと、そこだけは子供っぽさが微笑ましい限りだった。

 きっかけは、当時バイトしていた居酒屋の客が店の表で泥酔しきったまま眠りこけていたことだったそうだ。お一人様だったその客は、喜多と同年代だと思われるサラリーマンだった。突然キレられたら厄介だなと思いつつも、帰っていく客の迷惑にもなりかねないため渋々介抱する。けれど男性はなかなかその場を動こうとしなかった。

 足がふらついて立てないというよりは、意思を持って〝動かない〟といった様子を見せる男性に喜多はしばし途方に暮れる。本当に迷惑になってしまう前に帰ってもらわないといけないのだが、投げやりにも見えるその姿がやけに痛々しく、また同年代風なこともあって、無下に店の前から追い立てることが、どうしても憚られてしまったのだ。

 そんな喜多のことなど知る由もなく、そのうち男性は唐突に『寂しい』とこぼした。

 一人でメシを食ったって全然美味くない、誰か一緒にメシ食ってくれる人はいないものかと、呂律が回らない調子で言いながら泣き出してしまい、喜多は、まるでタガが外れたように泣くその姿が次第に茉莉の無理して作ったようなあの笑顔と重なっていった。

 閉店時間が迫っていたこともあり、仕方なしに店長に詫びを入れると再び男性を店に通した喜多は、酔い覚ましの水を飲ませながら閉店準備の傍ら思ったそうだ。

 ――この人も茉莉と同じで、一人で食べるメシの孤独が心底つらいんだ……。

 茉莉は口にこそ出さなかったが、常々心配していたみさきが先手を打つ形で喜多とメシ友をしてもらうことによって、幾分かはその孤独を軽減させてやることができている。

 けれど、ほとんど客がいなくなった店内のテーブル席で水のコップを傾けている男性はそうではない。いくら泥酔するほど飲んでいるとはいえ、大の男が見ず知らずの店員の前でおいおい泣いたのだ。よっぽど思い詰めていたと捉えるほうが自然だった。

『何があったのかはわかりませんが、つらくなったら店に来てください。ラストオーダー前後なら店も空いてますし、話し相手になれるかもしれません』

 一体その人をどうするつもりなんだという店長やほかのバイトの訝しむような視線を感じつつ、テーブルを拭きがてら、ちびちびと水を飲んでいる男性に声をかける。

 少量ずつでも冷たい水を飲んだことで少しずつ酔いが覚めてきたのだろう男性は、

『……ほかの客を相手にしながらなんて、ますます寂しいだけだよ』

 けれどそう言い、充血し涙で腫れた目元を手で覆うと俯いてしまう。

『――だったら、俺とサシでメシを食いましょう』

 そう言ったのは、やはり茉莉の無理して作った笑顔が脳裏にちらついていたからだ。

 年齢や性別なんて関係なく寂しいときは寂しい、それを目の当たりにしたようで、喜多の胸はジンジンと痛い。根本的な解決にはならなくても、茉莉と同じように少しだけでも抱える孤独や寂しさを軽減させられれば、紛らわせられれば――そんな思いだった。

 すると男性は顔を上げ、はっと目を瞠った。

 喜多自身も、茉莉とメシ友をするようになって常々感じていた。誰かと食うメシの美味さや安心感、安堵感、幸せだなと思う瞬間や、自分自身の寂しさも紛れていること。この人にもそれが必要なのだと強く思う。やり方なら、茉莉を通して把握している。

『……本当にいいのか?』

『俺でよければ』

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