5-2
やがて離乳食で満腹になった大翔君が眠そうにぐずりはじめると、その場は自然とお開きになった。大翔君をあやしつつ明日香さんも緒川も「なんだか追い立てるようで……」としきりに申し訳ない顔をしていたが、そんなことは全然ない。むしろ居心地がいいあまり配慮が足りず、お昼寝の時間まで居座ってしまったこちらのほうが申し訳ない。
「じゃあ――」
「はい。大翔君の健やかな成長を心から祈ってます。よかったらプレゼントのおもちゃも遊んでください。こういうの慣れてなくて……。気に入ってくれるといいんですけど」
「うん、ありがとう。大事に使わせてもらうよ」
マンションの下まで送ってくれた緒川に一つ頷き返し、陽史はニッと笑う。
緒川も陽史も、もうわかっている。
――ここからは、もう《派遣メシ友》は必要ない。
これからは家族三人……いや、もしかしたらもう一人や二人増えることも十分に考えられる家族と、緒川は家庭を築いていくのだ。そんな家族の近くに自分がいては、やはりそれは野暮というものだろう。喜多もそれをわかっているようで、彼は無言で右手を差し出すと緒川と固い握手を交わす。もう片方の手で目元をこすり鼻もグズグズ言わせているところを見ると、どうやらまたもや感極まっているらしい。本当に熱い男だ。
「二人に出会えたおかげで俺の意識が変わったよ。家族以上に大切なものはないことを教えてくれて、本当にありがとう。やっぱり家族って最高だよ。こんな俺が言えたことじゃないけど、二人にも早く家庭を持ってもらいたい。そう思わせてくれた君たちなら、きっとこれから先、どんなことがあっても、家族で乗り越えていけると思うんだ」
喜多の手を力強く握ったまま片方の手を伸ばして陽史とも握手を交わしながら、緒川は夫として、父として、家庭を持つ男としての顔を覗かせる。なんだか調子がいいなと思わないでもないが、やはり憎めないのは変わりない。だって握る手の力強さや目の強さ、それに何より緒川の佇まいが、以前と比べ物にならないほど凛と強いのだから。
母の万里子が言うには、数えきれないほど危機はあるという。緒川は今回、その山を一つ越えたに過ぎないのかもしれない。でも、と陽史は思う。これから先、どんなことがあったとしても、緒川もきっと家族で乗り越えていくだろうと。
「……喜多さん」
「ああ、そうだな。これ以上はもう忍びない」
「……わかった。本当にありがとう。家族三人、君たちに感謝してる」
そうして緒川と最後のあいさつを交わし、陽史と喜多は連れ立って駅へと向かう。
もう緒川や彼の家族と会うこともないのだろうと思うと、正直、寂しいし名残惜しい。大翔君がプレゼントのおもちゃで遊んでいるところも、そういえば見ていないし。
けれど陽史は、ここで振り向いてしまってはいけないと強く思った。こういう場面ではよく、飛ぶ鳥跡を濁さずと言うが、本当にそうだ。陽史と喜多では去り際まで格好よくとはいかないかもしれないが、だってもう緒川には《派遣メシ友》は必要ないのだ。
「言い忘れてたけど、明日は結婚記念日なんだ!」
すると、陽史と喜多の背中に唐突に声がかかった。
格好つけていたのも束の間、思わず二人同時に振り向いてしまうと、鳩が豆鉄砲を食らったような顔を並べる陽史たちに満足げに笑って、緒川が大きく手を振っていた。
「……は?」
「な、なん……」
顔を見合わせた陽史と喜多は、そう言ったきり言葉が続かない。
最後の最後にこんな隠し玉を用意していたなんて、やっぱりちょっと緒川が憎い。
「おめでとうございますっ!」
けれど、直後に発した声は見事に揃った。
「ありがとう!」
その声に送られながら、陽史と喜多はたまらず涙を流して大笑いした。
しかし、帰りの車中――。
「でも俺は、十代の頃から一人で子供を育ててる母親を知ってる」
涙も乾ききらない中、唐突に喜多が言った。一人で思い出し笑いをしていた陽史は、隣に並んでつり革に手首まで差し込んでいる喜多に目を丸くする。どういう意味だと思う前に、あまりに突飛すぎて話の全容が不透明だ。「……は?」と空気が抜けたような声を発したきり、口をぽかんと開け目をしばたたくことしかできない。
そんな陽史にちらと目を向けると、喜多は電車内の広告を見るともなしに眺める。
「前に言ったか、高校の同級生だったやつとも《派遣メシ友》をやってるって」
「……は、はい」
そういえば、初めて《派遣メシ友》募集の貼り紙を持ってプレハブ小屋を訪れた際、失礼な質問をした陽史に喜多は声を荒げてそんなようなことを言っていた。
でも、それと先ほどの言葉とどう繋がるのだろうか。
けれどその答えは、次の喜多の言葉で大方察せた。
「いや、正確に言うとその子供と、だな。緒川さんのことももちろんどうにかしてやりたいと思っていたが、土壇場で泰野を頼ったのは、俺自身の力が足りなかったのもあるし、その子とメシを食う時間を少しでも多く作りたかったからでもあるんだ。……だって八月いっぱい夏休みだろ? 就活もあって毎日とまではいかなかったが、それでも一日三食、そのどれか一つだけでも誰かと笑って食うメシの時間にしてやりたいじゃないか」
「喜多さん……」
つまり、喜多の同級生の家庭は母子家庭ということなのだろう。十代の頃からということは、少なく見積もっても子供は小学校中学年くらいになっているかもしれない。
忙しい母親に代わって、彼女と同級生である喜多が子供とメシを食っていたのだろう。
夏休みのため家にいることが必然的に多くなってしまう子供に寂しい思いをさせないように、一人でメシを食う機会を一回でも多く減らせるように。その時間をできるだけ確保したくて、喜多は自身の就活の合間を縫って子供とメシを食い続けていたのだ。
「これが正真正銘、最後の頼みだ」
すると、言葉が出ない陽史に向かって喜多が沈痛な声で言った。
「俺の就職先がちゃんと決まるまで、
その先は、ちょうど到着駅のアナウンスに阻まれて聞こえなかった。けれど、喜多の言わんとすることは真剣で切なく、懇願するように揺れるその瞳だけで十分だった。
アナウンスが終わるのを待って、陽史は一つ、大きく頷く。
「――わかりました。そういうことなら、俺にも協力させてください。茉莉ちゃんのためにも、その子のお母さんのためにも。……あと、喜多さんのためにも」
それから、冗談っぽく笑って付け加えた。
「あ、でも、メシ友代じゃなくて、ただのメシ代なら受け取りますよ」
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