4-1
「緒川さん、俺と一緒に奥さんの実家に行きましょう!」
その日の夜遅く、帰省の荷物もそのままに再び緒川の住むマンションを訪れた陽史は、エントランスで彼の部屋番号を呼び出すなり、開口一番、そう言った。
『――は? ……え?』
スピーカーから聞こえてきたのは、まるっきり虚を突かれたような緒川の声だ。
「このままでいいわけがないから一週間の休みを取ったんですよね? 二人に会いに行くための休みですよね? 買ってきたときのままのおもちゃが何個も部屋にあるの、俺、見て知ってます。先々の不安を数えたって、どうしようもないと思いませんか! 奥さんは緒川さんが今どんなことを思ったり考えたりしてるかわかんないんです。緒川さんだって同じことだと思うんです。この休みは、そのためのものだって思うんです!」
けれど陽史は構わず続けた。緒川が出てくるまで、絶対にここを離れまい――そう気持ちを強く持ち、ぐっと力いっぱい握った両の拳をさらにきつく握りしめる。
だってそうだろう。
緒川夫妻は、お互いに本音を出し合っていない。どこまで陽史が介入しても許されるのかは未知数ではあるが、この
これ以上亀裂が深まる前に、なんとしてでも二人に直接顔を合わさせなければ、きっと一番つらい思いをすることになるのは、そのかけがえのない存在だ。
「緒川さん、奥さんの実家はどこですか? 今から行けば何時くらいに着きますか? 会って顔を見て、ちゃんとお互いに本音を見せ合いましょうよ。愛してるって伝えましょうよ! そのための夫婦です。だってお互いにこの人だって選んだ相手じゃないですか!」
声も出ない様子の緒川に陽史は必死の思いで言い募る。
まだ間に合わせられる。本当の手遅れにはさせられない。その一心で。
『……車で二時間。もう遅い時間だし、道も空いてるだろうからもう少し早いよ』
すると、しばしの沈黙ののち、緒川が声を絞り出した。どこか湿り気を帯び、弱々しいようなその声は、けれどすぐにガサガサという音でかき消される。
「お、緒川さん……?」
『ああ、心配しないで。息子に買ったおもちゃを袋から出しただけだよ。こうして眺めると、早くこれで遊んでる姿を見たくてたまらなくなってくるね。実は、有休を取る前から着替えもまとめていたんだ。けど、どうしても決心がつかなかった。でも今、泰野君が訪ねてきてくれたおかげで目が覚めたよ。――すぐに行く。そこで待ってて』
「……はいっ!」
このまま会話を切られるのではないかとヒヤリとしたが、どうやら手元にあった、あの未開封のままのおもちゃを眺めるためだったらしい。先ほどまでとは打って変わって力強く決意に満ちた声で通話を切った緒川は、そのあと本当にすぐに陽史の前に姿を現す。
その姿も、二日前、陽史の前で泣いていた人と同一人物とは思えないほど、しゃんとしていた。休みだからと無精することなく髪を整え、ひげも剃り、服装だってきちんとしている緒川は、ものの数分で準備して出てきたとは到底言えない格好をしている。
「もう行く準備万端じゃないですか」
「……格好だけはね。昨日も今日も、ここまで準備して結局ドアを開けられなかった」
思わず上から下までまじまじ眺めてしまうと、苦笑した緒川がそう言う。
「でも、やっと決心がついたんですね?」
「泰野君のおかげでね。それと、俺に君を紹介してくれた喜多君の」
「ですね」
本当にそうだと思う。
《派遣メシ友》がプラスに働くこともあれば、その逆もある。また青臭い理想論を掲げていると陽史自身も大いに自覚している。けれど、今回は母の万里子の手助けもあり、どうにか土壇場で緒川をその気にさせることができたようだ。それはきっと、偶然立ち飲み居酒屋で知り合ったという喜多のおかげも大きい。喜多がそこで知り合わなかったら、彼が自分の代わりを頼まなかったら、陽史は緒川と知り合うこともなかったのだから。
そういえばあれから喜多から連絡はなく、また陽史もしていなかったが、あの日の面接はどうなっただろうか。いい方向に行っていればいいのだが……結果待ちだろうか。
「――よし。じゃあ、行ってくるよ」
そんなことをぼんやり考えていると、一つ頷いた緒川が一歩を踏み出した。両手に前々から着替えをまとめていたというバッグと息子へのプレゼントを抱えて。
それからつと、陽史の手元の荷物に目をやる。
「その荷物を見ると、泰野君も付いて来たさそうだけど、そこまでの世話はさすがにかけられないからね。引っ張ってでも連れて行かなきゃって思ってくれてたんでしょう? ほんと、どこまでも情けない男だよ、俺は。でも、ここまでケツを引っぱたかれて腰を上げられないほど情けないところは見せられないから。……ちゃんと仲直りしたら、明日香や息子にも泰野君たちのことを紹介する。約束するよ。だから、それまで待っててほしい」
言うと、片手で荷物を抱え直し、ポケットから車の鍵を取り出す。
「いや、これは……」
しかし陽史は途端に口ごもる。結局数十分しか帰省しなかった……というより、帰省にもなっていないような帰省のための荷物なのだが、万里子に言われるまでもなく一緒に付いて行くしかないと思っていたのも事実なので、なかなかその先の言葉が見つからない。
「ああ、いいんだ。泰野君にそこまで思い詰めさせることをしたのは俺だよ」
「違うんです、これは、そういうわけじゃ……」
「本当にありがとう。あとのことは俺が頑張るから」
「……は、はい」
けれど緒川の笑顔に押されてしまい、本当のところは言えないままだ。
そんな陽史とすれ違いざま、その肩にぽんと手を置いた緒川は、
「行ってくる」
力強い眼差しで一つ頷くと自動ドアをくぐっていった。しばし呆然としていれば、数分してマンション前の道路を車が一台、走り去っていくのが見えた。きっとあれが緒川の車なのだろう。暗くて彼の姿は捉えられなかったが、絶対に間違いない。
「ったく……。そこまで準備できてたなら、さっさと行けっつーの」
思わずその場にしゃがみ込んでしまいながら、陽史の口から本音がダダ漏れる。
本当に人騒がせな人だ。けれど、どんなに準備していてもドアを開けるための一歩の後押しが必要なのも本心だったのだろう思うと、悪態は徐々に苦笑へと変わっていく。
半分も歳が違う自分にケツを叩かれないと動けないなんて情けない男だなと思ってしまいつつも、どうにかして手助けしてやりたいと思わされたのは、やはり陽史を前にすすり泣いていた緒川の姿がどうしても嘘には見えなかったからだろう。
「何だったんだ、俺の帰省は……」
ふははと思わず笑ってしまいながら、陽史はすっかり気の抜けた足取りでマンションをあとにした。結局開けることのなかった自分のバッグが、心なしかずしんと重い。
「でもまあ――」
緒川にとって重要な一歩を踏み出す手助けができたのだから、それでいい。
当たり前にそばにいるものと思っていた存在が、実は何物にも代えられない尊いものだということ。ひとつ屋根の下で暮らせばそれが家族ではなく、お互いに努力や愛情をたくさん注いで初めて〝家族〟というものになっていけること。そのためには、わかっているだけでは足りず、手をこまねいているだけでも不十分で、だから時には背中を向けてしまったり、過ちに気づいても自分の力だけではなかなか動けなくなってしまうこと。
それを緒川を通して教わったこの二日間は、きっと陽史自身にとっても尊い二日間だろう。まあ、異様に長い二日間でもあったけれど。でも、誰にとっても糧となる、そんな二日間だったのではないかと思うと、帰路につく陽史の足取りは軽かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます