「――というわけで、事後報告になっちゃいましたけど、彩乃さんとの《派遣メシ友》は彼女のほうから解消されてしまいました。勝手なことをして本当にすみません……」

 ゴールデンウィークが明けた翌日。昨夜遅く横手から戻ってきたらしく、充実した顔をしながら一方では隠せない疲れも滲ませている和真にまた先に学食に行ってもらった陽史は、昼休みを待って喜多の住むプレハブ小屋へと重い足を向かわせていた。

 例のごとく散らかり放題の小屋の中、煎餅布団に膝をつき合わせるようにして向かい合った喜多は、報告を終えるなり頭を下げた陽史に「そうか」と一つ相づちを打つ。

「でも彩乃さんは、何も響かなかったわけじゃないって言ったんだろう? それならそれでよかったじゃないか。泰野の青臭い理想が少しは救ってくれたんじゃないか?」

「そうだとしても、なんていうか……心残りですよ。芳二さんにも言われたんです。『二十歳そこそこの、平々凡々と生きてきたような男に何ができる?』って。本当にその通りの結果にしかならなくて、言葉もありません。きっと彩乃さんはわかってたんですよ、俺にはそこまで彩乃さんの心に踏み込んでいく覚悟はないって。喜多さんは〝秋成君〟だったのに、俺のことは最後まで〝君〟で、名前で呼んでもくれませんでしたし……」

 慰めるように言う喜多に陽史はふるふると頭を振る。

 今さらながら、そのことがじわじわ堪える。

 彩乃本人は特に理由もなく〝君〟と呼んでいただけかもしれないが、そういえば一度も名前で呼んでもらっていないなと気づいたとき、どうしようもない気持ちになった。

 結局のところ、彩乃との間にはいくらメシを前にしても最初からてっぺんも見えないくらいの高い壁があったんだと思い知らされたようで、それがひどくやるせない。

 まだまだ子供だから。君にはわからないことだから。暗にそう言われているようで、自分の幼稚さにたまらなく腹が立ったし、同時に彩乃には最初から最後まで〝これは仕事だから〟と割り切って接せられていたような気がして悲しかった。

 もちろん陽史自身、自分に何ができるわけでもないと思っていた。彩乃に対して何かできることがあると思うことこそ思い上がりだ。けれど、何回かメシ友をして、自分にも何か言えることがあるんじゃないかと、そう思いはじめていた気持ちも確かにあったのだ。

 それは、芳二とのメシ友を経て得た自信か、それともただの傲りか。ともかく、喜多を介してまた会いたいと連絡をもらったとき、これでまた少し彩乃に近づけたと思った。信用しはじめてくれたんだと嬉しかった。そのことに言い表せない期待も持った。

 でも結局、彩乃の心は変わらず今に至ってしまっている。《派遣メシ友》は解消され、自分の青臭い理想が少しは彩乃を救ったとも、どうしても思えない。彼女から最後に向けられた笑顔や、かけられた言葉が、陽史の心を搔き乱す。あるのは一つも足りていなかった覚悟に対する後悔と、彼女とはきっともう会うこともないだろうという喪失感だ。

「それは俺は逆だと思うぞ」

 するとふと、喜多が言った。固く拳を握り込み唇を一文字に引き結んでいた陽史は、俯いたまま自嘲気味に笑うと、吐き捨てるように「何がですか」と問う。

「何がって、彩乃さんは泰野のことを、ほかの誰とも違うと感覚的に察していたから、最初から最後まで〝君〟だったんじゃないか? 名前で呼んでしまえば、これ以上自分を保てなくなりそうだったのかもしれないな。いや、そこまで断言はできないか。俺は彩乃さんじゃないからな。……でもな、誰にでも平等に寂しいときがあるのと同じで、そう簡単にはほどけない複雑なものも、みんな平等に持ってるんだと俺は思う。それをお前にほどかれてしまいそうで怖かったのかもしれない。肩意地を張って生きてきたぶんな」

「そんな……」

 喜多の見解に唖然としてしまい、陽史は言葉が続かなかった。

 もし喜多の言う通りだったとしても、だったらそれでいいじゃないかとさえ思う。

 それの何がいけないんだろう。彩乃が望んでいるのは〝誰かと〟じゃなく、きっと〝家族と〟メシを囲むことのはずなのに。なのに、どうしてそこまで頑ななのだろう。

「そういうこともある。そういう人もいる。それが《派遣メシ友》なんじゃないか?」

「っ。それを言ったら……元も子もないですよ」

「そうか?」

 すかさず喜多がすっとぼける。

「……あのですね」

 怒気を含んだ声で諫めるものの、しかし喜多はどこ吹く風を装い、相変わらず掴みどころがない。なんなのこの人、ほんっと意味わかんねーし。陽史は心の底から思う。

 それはともかく、それが《派遣メシ友》とは、一体どういうことだろうか。

 一見すると格言めいたことにも聞こえて納得しかけてしまうが、悪い言い方をすると、これは人の寂しい心に付け入り、メシ代と、メシ友のレンタル料をもらう商売だ。

 芳二も彩乃もそうだったが、幸いなのはメシ友たちがそれを自分から望んで受け入れていたことだろうか。芳二の場合は小料理屋の前で人と揉めていたところに喜多が通りかかったり、彩乃の場合は具合が悪くなっていたところを喜多がたまたま介抱したりと、印象的な出会い方をしているおかげで、その派遣メシ友の話になっても、そうあまり時間をかけずに喜多が言うところの〝信頼関係〟というものが生まれたのかもしれない。

 ただ、やはり陽史には、あの汚い字で書かれた貼り紙にあったような〝文字通り美味しい仕事〟とは、なかなか思えない部分が多いのも確かだった。

 ただの友達としてメシを食うことはできないのだろうか、そこにメシ友のレンタル料は果たして必要なのだろうか――そう思う自分が確実に胸の中で膨らんでいる。

 もちろん、たった二人を相手にしただけでは、まだまだ《派遣メシ友》の本質はわからないだろう。飄々としている喜多にだって、もしかしたら《派遣メシ友》なんていう突飛な仕事を思いつかなければならなかった大きな理由があるのかもしれないし、あるいは喜多のほうこそ〝誰かと一緒にメシを食うこと〟そのものに飢えていたのかもしれない。

 だとしても、もう……と、陽史は思う。

 彩乃は、失敗したなんて思わないでほしいと言った。でもこれは、どう考えても自分の失敗だと陽史は思う。だって、彼女の言葉が本心からのものでも、陽史を気遣うためのものでも、長く一人で踏ん張ってきた女性を泣かせそうになってしまった事実は変わらないのだ。――それが派遣メシ友だなんて、どうして思えるというのだろうか。

 すると喜多は直後、泰野はいつもタイミングが悪い、とかなんとか言いながら、ポット横に置いたまましっかり五分は経ってしまっているカップラーメンをのそのそと取りに立った。カップを手に取ると、振り向きざまに「あいにくこれで最後なんだ」と含んだ物言いをする。それでも陽史に動きがないと見て取ると、煎餅布団に戻り、ニンニクやニラが効いたブヨブヨの担々麵を豪快にすすりはじめる。赤い汁が実に辛そうだ。

「……もう行けってことですか」

 言われなくてもわかっているが、どうしても口にせずにはいられなかった。

 今後、彩乃はどうするつもりなのか。もしかしたら喜多には何か言っているかもしれないという淡く儚い期待が、陽史の足を執拗に煎餅布団に張り付かせる。

「何を言う、友達を待たせてるんだろう?」

「でも……」

「もうこれで最後なんだ。いくら待ってもやらんぞ」

「いや、そういうわけじゃ……」

「ええい、うるさい! ――彩乃さんには絶対に言うなと口止めされているが、気が向くことがあれば帰ることもないとは言い切れない、なんていう回りくどい連絡をもらったんだ。昨日の午後だったから、おそらく泰野と別れてそう時間は経っていない頃だと思う。……これで満足だろう? 本当はお前が言ったこと全部、彩乃さんの心にしっかり響いてたんだ。お前はお前で頑張ったらいい。そのためにはまずメシを食いに行け!」

 まだなお渋ると、喜多は痺れを切らしたように言う。

 数瞬して意味を理解した陽史は、

「は、はいっ!」

 煎餅布団から立ち上がるや否や、スニーカーを履くのももどかしいまま、首を長くして待っているだろう和真が待つ学食へ駆け出していった。昨日からまるでメシを食う気にもなれなかったが、途端に腹が減ってくる。何をしたいのかも、自分に何ができるのかもわからないが、メシを食えばなんだってできるような気がしてくるから不思議だ。

 ――よかった、本当によかった……。

 走りながらズビズビ洟が出てくる。目の前がぼやけて視界が安定しない。鼻が詰まっているおかげで早々に息が上がり、もう散々だ。でも、そうやって駆け抜けた構内は、いつもとどこかが違っているように陽史には感じられた。今夜にでも芳二さんのところにまたメシを食いに行こうか。昼メシもまだなのに、そんなことを考える自分がおかしかった。


「遅いし!」

 案の定、待ちぼうけを食らっていた和真には怒られた。先に食べているわけでもなく、律義に陽史の到着を待っているところが彼らしく、やはりいい男だなと思う。

 それに、うっかりちょっとした泣き顔を晒してしまっても、和真は何も言わなかった。

「なんかすっきりしたな?」

 たったそれだけを言うと、満足げに笑って「さーて、行くべかねー」と若干訛りながら安いくせに絶品の日替わりA定食(今日は豚の生姜焼き)を取りに席を立つ。

「まだ売り切れてねーよな?」

「もし売り切れてたら五百円のB定食だな。もちろん陽史の奢りで」

「……マジで?」

「マジだべ」

 ちょいちょい訛るところに、相変わらず同郷を感じさせる和真である。


「ふん。よくはないが、まあそこそこ落ち着いてよかったじゃないか」

 予定通り夜に芳二の自宅に上がり込めば、お猪口を手にした芳二はそう言って無言で献杯を勧めた。有難くそれを受けて飲んだ日本酒は、でもまだ、どこかほろ苦い。

「……俺、これから自分に何ができるかわかりませんけど、とにかく頑張ります」

「ふん。わしの寿命が尽きるまでには、とりあえず何かにはなってくれ」

 噛みしめるように言うと、酔いが回ってきたのだろう芳二はツレない相づちを打つ。

「またそんなこと言って……。でも、はい。どこかでそれを祈っててくれる人がいると思えば。そのためには、まずはメシを食わなきゃですね。てことで、いただきまーす!」

「……ったく。このタダメシ食らいが」

 だから、わしのじゃなくて、もっと食いたい人のもんが食える場所があるだろうが。

 眇めた目が口ほどにものを言っている。

「まあまあ。次に帰ったらいっぱいお土産を買ってきますから」

「ふん。なら、あれにしろ。南部せんべいと、岩谷堂羊羹いわやどうようかん。物産展で食って美味かった」

「ははっ。はい!」

 芳二は相変わらず口が悪い。そして、思いのほか岩手のグルメに目がないらしい。

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