4-2
「すみません、もう片付けてもらって大丈夫ですからっ」
ちょうど近くにいた店員に声をかけ、テラス席を飛び出していった彩乃を追いかける。会計は済んでいるので、問題ないだろう。受け取ることなくテーブルの上に置きっぱなしになっていた封筒を取るなり、彩乃が走っていったほうへ陽史も足を走らせる。
陽史と目が合った途端、水の入ったピッチャーを手に固まってしまった店員や、一部始終を目撃せざるを得なかったほかの客には本当に申し訳ない思いしかない。でも今ここで彩乃を追いかけなければ、きっともう二度と彼女に会えないことは確かだから。
「彩乃さんっ。……男の足に敵うわけないじゃないですか」
追いつき彩乃の腕を取ると、陽史は泣きそうな気持ちで彼女の前に回り込んだ。
「……うるさい。ただ若いだけのくせに自慢すんじゃないわよ」
「すみません。若くて、それでいて……青くて」
「なにそれ。遠回しにオバサンだって言ってんなら殴るわよ」
そう言った彩乃の声は、怒りと諦めを混在させたような、ひどく不安定な声色だった。喉の奥にぐっと押し留めるようなそれは、わずかに湿り気も帯びている。
殴ると言いつつ、手も一向に振り上げる素振はなかった。陽史もわかっていた。ただ言ってみているだけだと、本当はそんなつもりなんて一つもないと。
だからこそ余計に陽史の胸は切ないくらいに締め付けられる。年上としても大人としてもプライドがあるだろう女性を泣かせそうになってまで、どうしても言わなければならないことだったのだろうか。その疑問がふっと頭をもたげると同時に、
――『二十歳そこそこの、平々凡々と生きてきたような男に何ができる?』
芳二のその言葉に、本当にその通りだと認めることしかできない。
でも一方では、青臭くて何が悪いと開き直る自分もいた。
だって、陽史にはどうしても彩乃が本心から実家と縁を切りたい、切ったつもりだと言っているようには聞こえなかったのだ。まだ家から出て行けていないみたいでゾッとしたのも本心なら、それとは相反する気持ちも本心なのではないだろうか。
昼日中の街中。通りを行き交う人々が、向かい合ったまま動かない陽史たちに訝しげな視線を送りつつ過ぎ去っていく。二人の間の時間だけが、しばらく止まっていた。
それからどれくらい経っただろうか。
「ああ、もう」
やがて観念したように微苦笑をこぼした彩乃は、ふっと顔を空に向けて言う。
「あーあ、青臭いったらないよー。秋成君とはこんなんじゃなかったんだけどなー」
どこかで聞いたようなそれは、まさしく芳二の言葉だ。それまで二人の間を重苦しく取り囲んでいた空気がふっと弛緩したのがわかり、陽史もたまらず苦笑がもれる。
「はは。前に言いましたよね、彩乃さんで二人目だって。一人目の人も、同じようなことを言ってました。今ではすっかり仲良しで、ただの〝メシ友〟です。つい二~三日前もその人のところに行ってメシをご馳走になっちゃいました。……俺、彩乃さんともそんな関係になれたらいいなって思ってるんです。そのために俺にできることは何だろうって考えたとき、やっぱりこれは彩乃さん自身に使い道を決めてもらうしかないなって」
絶対にそのほうがいいって、そう思ったんです。
そう言うと再度、陽史はあの封筒を彩乃の前に差し出す。咄嗟に掴んだためにちょっとしわが寄ってしまったが、どこかの誰かさんのものよりずっとずっと綺麗なはずだ。あれはあれで、ぐっと胸に迫るものがあったけれど。それは今も大事にとってあるけれど。
「……まだ持ってるの? それ」
「んなっ。置いていけるわけないでしょう、大金ですよ、三万は」
うげーと顔をしかめる彩乃に、陽史は思わず前のめりになる。
これだけあれば、陽史の実家となら豪華に新幹線で二往復はできるだろうか。そういえば彩乃からは大学進学を機に東京に出てきたとしか聞いていないが、とにかく大金であることだけは確かだ。《派遣メシ友》にではなく、もっと大事なことに使ったらいい。
「でも、それは君にあげたものだよ」
すると彩乃は、ちょっと困ったように笑って首をかしげた。
「お金なら持ってないわけじゃないの。仕事を始めた当時から贔屓にしてくれてるお客さんのおかげで今でもそこそこ稼げてるし、こう見えて貯金もしてるくらいでね。だから、やっぱりそれは君にあげる。っていうより、持ってるなり使うなりしてほしいの。……お金のことだけで言えば、帰ろうと思えばいつでも帰れるくらいには蓄えはあるのよ」
「彩乃さん……」
「ふふ。青臭いねえ、君は。無理なものは無理なのよ」
「……」
静かに微笑み、わかってよと目で訴えかける彩乃に喉の奥がぎゅっと詰まる。
ということは帰ろうという気持ちはないということだろうか。〝これからも〟か、あるいは〝今は〟かはわからないが、現時点では彩乃の気持ちが動くことはなさそうだ。
それを暗に示されて、陽史はカッと顔が熱くなっていくのを感じた。駄々っ子を説き伏せるようなそれは、子供扱いされたようで悔しくもあるし、恥ずかしい。しまいには「お願いだから返さないでよ」と封筒を掴んだ手を押され、陽史は耳まで熱くなった。
「ね。私の我儘だと思って、これは君がもらっておいて」
「……でも」
なんとも言えない気持ちで封筒に落としていた目を上げる。そこには、あのときと同じ今にも泣き出しそうな笑顔があって、陽史の胸はまた切ないくらいに締め付けられた。
――本当に終わりなんだろうか、これで……。
おそらくもう陽史とも、きっと喜多とも、彩乃は《派遣メシ友》をするつもりはないだろう。その覚悟が垣間見えるような彼女の笑顔が、胸の奥深くまで突き刺さるようだ。
「でも、ありがとう」
「え」
すると直後、彩乃が唐突に言った。その声に陽史はぱちぱちと目をしばたたく。
「親には親の意地がある。私には私の、君には君の。これはきっと、いろんなタイミングが悪かっただけよ。私がもう十歳若くて君がもう少し歳が上だったら、もしかしたら君が望んだような結果になれたかもしれない。けど、今の私たちじゃ、これが限界よ」
だって私は一回り以上も年上のオバサンで、君はただの学生なんだから。
そう言うと彩乃はくしゃりと笑う。
「だからさ、失敗したなんて思わないでほしいの。君の言うことは青臭いし、現実を知らない理想論だって思ったよ。君に私の何がわかるのって今も思ってる。……けど、心に何も響かなかったわけじゃない。だから家のことも話した。そこだけは本当」
それから、明るく笑って続ける。
「今まで生きてきた中で君くらいなんだからね、こんなに誠実な人は。あと、君は根性なしなんかじゃないよ。これは勘なんだけど、本当にやりたいことが見つかったら、きっと君はどこまでも強いと思う。いつか青臭い理想も実現できるかもね」
陰ながら私も君がそうなれることをどこかで祈ってるよ。
言うと彩乃は、咄嗟に手を伸ばすこともできずに目で追うだけの陽史の横を颯爽とした足取りで歩き去っていった。ふわりと空気が揺れて、その拍子に一瞬だけ鼻を掠めたのは彼女がつけている甘いローズの香水だった。カツカツとヒールの音だけが響き、そのうち通りを行き交う人々の足音と区別がつかなくなってしまう。
「彩乃さん……」
そう呟く陽史の手には、最後まで返されることを拒んだ封筒が所在なさげに握られていた。それは彩乃の固い意志が具現化したものだろう。持っておくなり使うなりと彼女は困ったように笑って言ったが、陽史には今後も使える気は一つもしなかった。
五月の薫風が爽やかに街路樹の葉を揺らす。揺れる木漏れ日に目を落とした陽史は、ズズズと一つ洟をすすった。それからつと顔を上げ、薄水色に澄んだ空に目を閉じる。
「はあ……」
吐き出したため息は長く細く、それでいて、どこまでも湿り気を帯びていた。
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