2-2
こんなに美味いメシを食ったのは、いつぶりだろう?
猛烈な満腹感と、それからも何杯か付き合った日本酒の酔いが眠気を誘う中、陽史はふとそんなことを思った。三月に誕生日を迎え飲酒が解禁になったとはいえ、日本酒はまだ挑戦したことのなかった陽史には、たとえお猪口に数杯でも体が慣れないのだ。
まだ芳二がご飯中なのにと思いつつも、なかなか抗えずにうつらうつらしてしまいながら、去年の正月に実家に帰ったとき以来だろうかと、朧げな記憶を手繰り寄せる。
と同時に、やっぱ俺、寂しかったんだろうな、と思う。
一年の頃はまだ一人暮らしに慣れず、なんだかんだと言いつつ実家が恋しくてゴールデンウィークと盆、それに正月と、年に三回ある大型連休に合わせて帰省した。
陽史の実家は
しかし二年に上がると、東京での生活にも慣れ、実家からは足が遠のいてしまった。けしてないがしろにしていたわけではないが、あらゆる物に溢れた都会での生活は、田舎育ちの陽史にとってそれだけで新鮮で、どうにも刺激が強すぎたのだ。
それに、バイトも続かないし、正直新幹線のチケット代もバカにならない。仕送りと少しのバイト代を工面してわざわざ帰るより、自分の欲しいものを――。そうしているうちにあっという間に一年が過ぎ、実家とはたまに連絡を取り合う程度になってしまった。
「贅沢な時間だったんだなあ……」
「何が贅沢なんだ?」
「え、声に出てました?」
「だから聞いとる。言ってみろ、何が贅沢なんだ?」
心の中で呟いたはずが、どうやら実際に声に出てしまったらしい。
ちびり、ちびりとまだ日本酒を飲みながらそう促した芳二に陽史は、
「こんなに美味いメシを食ったのはいつぶりだろうって思ったら、去年の正月に実家に帰ったとき以来だったことを思い出して。ここ一年は面倒くさくて帰ってなかったんですけど、実家でメシを食ってる時間って贅沢だったんだなあって、今、しみじみと……」
そう言って苦笑した。
思えば、実家特有の煩わしさから解放されたと思ったのも、ほんの束の間だった。大学や、一つも続いた試しはなかったがバイト先から帰っても「ただいま」と言える相手はいなかったし、「おかえり」と迎えてくれる家族も、一人暮らしの部屋にはいない。
当然、部屋の中は真っ暗だ。まず電気をつけなければ始まらない。冬になると冷えた部屋の空気がプラスされ、なんとも物悲しい気分になったことも一度や二度じゃなかった。
炊事洗濯といったあらゆる家事も、もちろん自分でしなければならない。
スーパーに行き野菜や肉や果物を選び、包丁を握って料理する。使い終わった調理器具や皿は自分で洗う。部屋の掃除や洗濯もその通りだ。使った雑巾を洗う、洗った服は干して乾かし、洗剤や柔軟剤が切れたら買い足す。今までは当たり前にやってもらっていたことが、意気揚々と一人暮らしを始めた途端、すべて自分に降りかかってきたのだ。
そりゃあ、最初の頃は頑張ろうと心に決めて頑張っていた。学業とバイト、一人暮らしをしっかり両立させようと。しかし、サボっても注意する人も促す人もいない中では、持って一ヵ月が限度だった。早々に続かなくなり、生活のリズムも徐々に乱れていく。
そうして二年かけて出来上がったのが、今の体たらくな陽史だ。
誰かが何とかしてくれるだろう、誰かがどうにかしてくれるだろう――一人暮らしを始めたからには、その誰かはもういないのに。自分しかいないのに。
……俺はなんてバカ者なんだろう。
当たり前のことに気づけなかった自分が、陽史は情けなくて情けなくてたまらない。
「ふん。そう思えりゃ、それだけでいいんだよ」
「へ?」
いつの間にか出てきていた
「近いうちに帰ってやりゃあいい」
それだけを言って、お猪口に徳利を傾けると再びグイと顎を反らす。
「それだけって……。いや、でも――」
「ったく。情けねえ男だなあ、お前は。それでも付くモン付いてんのか? 当たり
「芳二さん……」
こんな俺じゃ、あまりに情けなさすぎて帰るに帰れない――そう続けようとした陽史の言葉を遮り、芳二がふんと鼻を鳴らす。これでもう何杯目だろうか。だいぶ酔いが回ってきているようだが、そのわりに口調はしっかりしており、だからちょっと口も悪い。
バツの悪い声を出す陽史に芳二は言う。
「さっきの食べっぷりじゃあ、こういう料理はずいぶん久しぶりだったんだろう? わしのじゃなくて、もっと食いたい人のもんが食える場所があるだろうが」
「そ、れは……」
「だいたいな、見栄なんか張ったって仕方ねえんだ。お前はお前でしかねえんだから。情けなくて帰れねえんだったら、その情けねえツラのまま帰りゃあいい。そしたらちっとは見られる顔になって戻ってくらあ。そんときゃまた、こうして飲み食いしようや」
「……」
そうして、すっかり返す言葉を失くしてしまった陽史を焚きつけるように「ふん」と言うと、また徳利から日本酒を注ぎ、豪快に顎を反らした。
芳二さん……。
どうやら芳二の「ふん」は、相手を元気づけたいときにも出る癖のようだ。てっきりカミナリの一つや二つ、普通に落とされると思っていたが、そうでもないらしい。
それはおそらく、芳二にも今くらいの歳の心情に覚えがあるからだろう。喜多からは、どういう性格で今はどんな生活を送っているかくらいしか聞いていなかったが、折に触れてぶっきらぼうな優しさに触れるたび、陽史は芳二のことをもっと知りたいと思う。
そのせいだろうか。
「芳二さんは、今の自分に満足してますか?」
陽史の口から自然とその質問が流れ出ていった。
「は?」
聞き返す芳二の声に、なんとも形容しがたい色が帯びる。
「二十歳そこそこの若モンが偉そうに意見しようってか?」
「いや、そういうつもりじゃ……。でも、派遣メシ友なんて頼むくらいだから、やっぱり胸に抱えているものの一つや二つ、ないわけないじゃないですか。こうしてメシや酒をふるまっている間はもちろん楽しいですよ。だけど、それで満足してますか? さっき芳二さんが俺に言ってくれた言葉は、本当は誰に向けて言いたい――」
「……秋成とは、ただ飲んで食って終わりだったんだがな」
するとまた、陽史の言葉を遮り芳二がぽつりと声を落とした。酒のせいだけではなく赤くなっていた顔は、今はもうただアルコールが回った赤に戻っている。
「喜多さんとは、それだけだったんですか?」
「酒が入りゃ、お互いに身の上話くらいはしたさ。どうしてこういう仕事を始めようと思ったのか家内のことや、話は尽きないからな。だがな、今の自分に満足か、なんて聞かれたことは一度もない。初めて会ったお前に聞かれるとも思ってなかった」
そう言うと、芳二は自嘲するようにしわだらけの顔に微苦笑をこぼした。しかしそれもほんの一瞬のことで、すぐに老武士のような顔に戻ると、おもむろに腰を上げる。
「だいぶ飲みすぎたようだ。……もうお開きにしようや」
「……はい」
芳二のなんとも言えない苦笑は、そのまま陽史の顔にも表れた。
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