2-1

 とはいえ、確信犯で陽史を騙くらかした喜多でも、派遣先のメシ友はそんな喜多を信頼して仕事を頼んでいることだけは間違いなかった。ものすごく気が重くて仕方がないが、なにしろ時間だけはたっぷりある陽史は夕方を待って派遣先へ足を向かわせた。

 ……というより、向かわせるしかなかった。

『見たところ、食い物を買う金にも困ってそうだな?』

 喜多の確信を持ったその言葉と瞳の前では、今日の陽史の格好はあまりにもみすぼらしかったのだ。しかも、どうにか断れないかと思案している最中に腹の虫まで鳴ってしまった。これでは〝そうです〟と白状しているのと同じだったのである。

 しかも喜多は、その音を聞くともったいぶるように言ったのだ。

『芳二さんのメシは美味いぞ~?』と。

 ――一度だけ。一度だけなら行ってもいいかもしれない……。

 空腹と、押し潰した食パンよろしく薄い財布事情に耐え兼ねた陽史は、そうして渋々ながらも『……わかりました』と派遣メシ友を請け負うことにしたのだった。


 まだ夜には早い宵の口。大学からほど近い、昔ながらの木造住宅や平屋が密集している区域の狭い路地を歩きながら、陽史は喜多から聞いた芳二の情報を思い出していた。

 桑原くわはら芳二、八十三歳、一人暮らし。そこが今日の派遣先だ。

 芳二は元来、口が悪く喧嘩っ早い性格だそうで、若い頃はそれでずいぶんと妻や家族に迷惑をかけたらしい。しかし一方では非常に人情味に厚い人で、典型的な江戸っ子気質だという。とにかく熱くなりやすいのが欠点なのだが、そんな芳二を妻の幸枝ゆきえが「まあまあ」と宥めてくれたおかげで、大きなトラブルもなく今までの人生を歩んでこれたそうだ。

〝くれた〟と言うからには、その幸枝はもうこの世にはいない。

 七年前に病気で当時七十三歳だった妻を亡くしてからは、元来の性格と、それを宥める人がこの世を去ったことが災いし、近所から孤立しがちの生活を送っているという。

「気が重いったらねえよー。絶対怒鳴られるし……」

 宵闇に吐き出す気弱な声は、緩やかな向かい風に攫われ耳の後ろへ流れていく。

 喜多だからこそ、そんな芳二と意気投合できたのではないだろうか。変わり者といって差し支えない喜多は、相手がどんな人間でも気軽に話しかけそうだからタチが悪い。

 俺に相手が務まるだろうか……。

「はあ……」

 何度目かもわからない重苦しいため息もまた、宵闇の風に吹かれて飛んでいった。

「ん? 家の前に人がいる?」

 しかし、やがて喜多から聞いた芳二の住所に近づいてきた頃、陽史は、家の前の路地に立って何かを待っているような仕草をしている人がいることに気が付いた。

 暗くてあまりよく見えないが、作務衣を着ているようなシルエットがぼんやりと見て取れる。その人は、ソワソワした様子で路地の左右にしきりに目を走らせているようだ。

 ――もしかしてあの人が芳二さん? 

 八十三歳という年齢を聞いて、寄る年波には勝てずに少しは腰も曲がっているかと思っていたが、ピンと背筋を伸ばし胸を張る姿は、さながら老武士だ。

「あ、あの……桑原さんですか?」

 近くまで行くと、陽史はなけなしの勇気を振り絞って恐る恐る声をかけた。半ばやけくそな気持ちで、ここまで来たんだから仕方がないと自分自身を鼓舞した結果である。

 それに、あんなに待ってくれていたのだ。待ち遠しくなかったわけがない。

「お前が新人か?」

 向かい合った陽史の姿を上から下へ、それからまた上へと見た老武士からは、藪から棒にそんな返事があった。ということはこの人が芳二で間違いないらしい。

「あ、そうです。お待たせしてすみません。初めまして、泰野陽史といいます」

「うむ。秋成のやつから聞いていると思うが、わしが桑原芳二だ。秋成とはよく飲み比べをしたりもしていたが……ふん、お前じゃわしの足下にも及ばんだろうな」

「すみません、つい最近、二十歳になったばかりで……」

 鼻で笑って言われたその一言に、喜多とはまた違う厄介さをひしひしと感じる。こういうのが俗に言う〝江戸っ子〟なんだろうか。いや、そもそも江戸っ子ってなんなんだ?

「まあいい。待ちくたびれたわ、さっさと来い。……春の夜はまだ肌寒いからな」

 すると直後、くるりと踵を返した芳二が顎で陽史を促した。どうやら、もう家の中に入ろうということらしい。勝負できそうにないので、やっぱり喜多を寄こしてくれとチェンジを言い渡されるかと一瞬ビクリとしたが、そういうわけでもないようだ。

「あ、はい。じゃあ、お邪魔させていただきます」

 陽史は、さっさと玄関を開けて中に入ろうとする芳二の背中を慌てて追いかけた。たった今思った疑問はたちまち消え去り、代わりに胸にほんのりとした温かさを感じながら。


「うわー! ご馳走ばっかじゃないですか!」

「……ふん。褒めて喜ばそうったって、そうはいかねーぞ。ほとんどが冷蔵庫に残ってたあり合わせで作ったものだからな。味の保証もない。それでもいいなら食え」

「はい!」

 そうして通された茶の間には、すでに卓袱台の上に所狭しと料理が並んでいた。

 気難しい芳二を前に思わず歓声を上げてしまうのも納得のラインナップは、見た目にも綺麗なほうれん草とゴマの白和えや、色鮮やかで艶やかな刺身の盛り合わせ。しょう油とみりんの甘辛い匂いが食欲をそそる肉じゃがに、さっぱりするだろうきゅうりと春雨の酢の物。あればついついつまみたくなる沢庵や蕪やナスといった漬物、ひじきの煮物に、ごぼうと人参のきんぴらなど、和食の定番おかずがずらりと顔を揃えていたのだ。

 そこがいつもの定位置なのだろう、茶箪笥を背に座布団にどっかりと胡坐をかいた芳二は、おもむろにリモコンのボタンを押すと、正面のテレビをつけた。

 芳二の左側――台所を背にする形で、もう一つ座布団が敷かれている。そこが今夜、陽史のために用意された席らしい。伏せて置かれた茶碗に、箸置きに行儀よく乗せられた箸と数枚の取り皿の前に、陽史も「失礼します」と腰を落ち着ける。こちらは正座だ。

「何を笑ってる? 食いたきゃ自分でよそうんだな。飯も炊けてるし、汁物ならちょっと温めりゃいい。コンロに鍋が乗ってるだろ。好きかどうかは知らんが中身は豚汁だ」

「そんなの好きに決まってるじゃないですか!」

「ふん。なら、わしのぶんも頼む」

「わかってますよ、ちょっと待っててください」

 出し抜けにまたツレない態度を取られるが、陽史はもう少しも気にならなかった。

 これだけの料理を用意するのに、一体どれだけの時間がかかっただろうか。

 冷蔵庫のあり合わせだなんて絶対に嘘だ。昼間に電話をかけたのは、おそらくはこの時間に間に合わせるため。これだけの品数を一人で作ったのだ、材料を買いに行ったり料理をする時間は、きっといくらあっても足りないくらいだったのではないだろうか。

 話を聞いて怖いイメージしか持っていなかったが、そういえば喜多は〝人情味に厚い〟とも言っていた。もしかしたら、ただのぶっきらぼうな人なのかもしれない。

 豚汁が温まるのを今か今かと待ちながら、陽史の頬は自然と緩んでいく。

「お待たせしました。勝手にお盆借りちゃいましたけど、よかったですか?」

 ややして、ちょうどいい具合に湧いた豚汁と炊きたての白米を二人ぶん、手近にあった盆に乗せて持って行くと、すでに刺身を肴に日本酒と決め込んでいた芳二が「いちいち聞くな」と鬱陶しそうな顔をした。しかしその実、料理を運んでくれる人がいることに嬉しさも感じているようで、酒のせいではなくほんのりと耳たぶに赤みが差している。

「お酌させてください」

「ん、お前にできるのか?」

「まあ、人並み程度には」

「ふん」

 そうして突き出されたお猪口に、徳利から日本酒を注いでいく。

 中学に上がると部活だ試験勉強だと父親や祖父の晩酌に付き合わなくなったが、それまではよくこうしてお酌したものだ。日本酒はもちろん、ビールだったり焼酎だったりウィスキーだったり。こうして思い返すだけでもけっこうな数をこなしてきたと思う。しばらく実戦から遠ざかってはいたものの、昔取った杵柄だろうか、手つきに衰えはなかった。

「……陽史っていったか。どうだ、お前も。献杯というやつだ」

 さすがにこういうのはまだだろう?

 注がれた日本酒を一息で飲み干した芳二がくっと顎を持ち上げ、ニヤリとする。

「はい。では、頂戴します」

「お前は弱そうだから半分だな」

 やはり一言多いところはあるが、その顔は楽しげだった。

 そうして軽く酒も入ったところで、さっそく料理に箸を伸ばさせてもらうことにした。いただきますと両手を合わせ、それぞれの皿に付けられた取り箸から皿へと順番に料理を取り分けていく。まずは定番の肉じゃがだろうと、大ぶりのジャガイモを口に放れば、

「ん!」

「どうした、何か言え」

「美味いです! 美味すぎます!」

「ふん」

 目を輝かせる陽史からプイと芳二が顔を背ける。

 そしてそれは、どの料理も同じだった。毎回目を輝かせて「美味い!」を連呼する陽史に、芳二は不機嫌そうに、けれどそれ以上に照れくさそうに口をへの字に曲げて「ふん」と返すのだ。芳二の「ふん」は満更でもないときや嬉しいとき、照れくさくてどうにも言葉がないときなどによくする癖なのだと気づいたときには、陽史はすでにご飯を三杯、豚汁も二杯平らげ、卓袱台の上の料理もそのだいたいは腹の中に収まっていた。

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