第13話

 まだそれほど経っていないのに、横にいるのが当たり前に感じるのは何故だろうか?


 加狩カガリ弘至ヒロシは、ふとそんな考えが頭に浮かび、隣を歩く美女を横目で見た。

 ポッテリとして艶やかな唇、涼やかで色気のある目元、ホッソリとした首からデコルテにかけて妖艶な色香を匂わせた美女──鈴蘭スズラン

 彼女は弘至ヒロシの視線に気づいて、ささやかに微笑んだ。


 何故だ?

 何故こんな、普段生活してたら絶対に同じ次元に存在することすら許されないであろう女性が隣を歩いているのか。

 もしかしてあの日──彼女を見つけたあの日に、自分は知らぬ間に車に突っ込まれたとかの事故にあって、醒めない夢を見ているのではないだろうか?


 だとしたら納得出来る。

 じゃなければ納得出来ない。

 そうだ、これは夢なんだ。

 幸せで残酷な夢。

 醒めたら現実に打ちひしがれる一時いっときの幻。


 唯一、本当に夢でもあって欲しい事が1つある。

 彼女がきてから、事だ。

 日中エアコンを入れっぱなしという事もあるし──

 しかし、たかが半月で2万超えの請求が来た時は、文字通り本当に目ん玉飛び出るかと思った。


 非常勤安月給の加狩カガリ弘至ヒロシには大打撃の請求金額だった。


 バイトを増やそう──


 彼は心に硬く誓った。


「どうしたんです? 私の顔に、何かついていますか?」

 ずっと見つめる弘至ヒロシに疑問を抱いたのか、彼女──鈴蘭スズランが小首を傾げて尋ねて来た。

 手を頬や唇に沿わせて、ついているかもしれないゴミを探す。

「いや、そうじゃないんだ。その……嘘みたいだなって思って」

 いつの間にか彼女を凝視してしまっていた事に気付いた弘至ヒロシは、血圧を急上昇させて首を振った。

 慌てて何事もなかったかのように前へと向き直る。

「何がですか?」

 鈴蘭スズラン弘至ヒロシの言わんとしている事が分からず再度問う。

「えっと……鈴蘭スズランみたいな綺麗な女性と一緒に居られる事が、かな……?」

 弘至ヒロシ的には物凄く勇気を振り絞った言葉だったが、彼女はなんのつくろいもなく朗らかに笑う。

弘至ヒロシさんは素敵な男性ですよ。今貴方に決まった相手がいないのは、まだその方も巡り会うタイミングではないからです」

 気のある女性に言われたら、脈なしとしてガッカリするところであるが、弘至ヒロシ鈴蘭スズランのそんな言葉に優しさを感じた。



 弘至ヒロシ鈴蘭スズランが、『まずは友達になろう』と決めた日から、彼女は体当たりに迫ってくるのを止めた。

 むしろ、適度な距離をとるようになった。


 夜は一緒の布団に転がり込んでくる事もなくなった為、弘至ヒロシは精根尽き果てるまで身体を酷使して気絶するかのように眠る、といった事をしなくて済むようになった。


 弘至ヒロシがバイトでヘトヘトになった日は、夕飯を作ってくれたりお風呂を沸かしてくれたりしてねぎらってくれたが、基本家事は折半で行なっていた。


 今まで疎かにしていた近所づき合いは、彼女が架け橋になってくれて出来るようになったし、今までパスタ料理しか作れなかった弘至ヒロシに、様々な野菜と肉を使ったレシピを教えてくれた。


 ただし、容赦なく弘至ヒロシのファッションセンスのダサさを、鈴の転がるような可愛らしい声でエゲツなく指摘してきたりもした。


 そして。

 女性との距離感の取り方、女性の脳構造から見た考え方、女性の身体構造からホルモン変化による心理構造まで、鈴蘭スズランは女性についてのイロハを弘至ヒロシに教えてくれた。

 ハウツー本というより、かなり科学的な側面からの話だった為、保健体育も担当している弘至ヒロシからしても、とてもタメになる内容だった。


 逆に弘至ヒロシからは、『人と友達として付き合うには』という、怪しい自己啓発本のような内容を鈴蘭スズランに伝えていた。

 人との距離の取り方、扱う言葉のチョイスや、逆に女性らしく見えない態度についてなど。

 かなり弘至ヒロシの偏った好みなども混じっていたが、鈴蘭スズランはフンフンとよく話を聞いて応用しようとしていた。


 彼女──鈴蘭スズランは、人との距離の詰め方は熟知していたが、逆に人と適度な距離を保つ術をあまり知ってはいなかった。


 これでいい。

 これでいいんだ。


 加狩カガリ弘至ヒロシは、時々、子供のように歯を見せて笑うようになった鈴蘭スズランの変化を喜ばしく思った。



 据え膳食わぬは男の恥


 などということわざもあるが、加狩カガリ弘至ヒロシはその考えには断固反対派である。


 最後まで責任を果たせないのであれば、手を出すべきではない。

 逆に手を出すのであれば、向こうから拒否られるまでその責務を果たすべき。


 誠心誠意相手を愛し、そして愛されるよう尽力し、精神的に誠実な関係を結ぶべき。


 しかし、今の自分にはそれが出来るのか?


 ──否。


 ならば、据え膳など懇切丁寧に謝罪して、差し出してくれた相手を労ってから返却すべきである。



 鈴蘭スズランにもその事を直接伝えた。

 なので彼女から『古風な考え方』と言われたのだ。

 しかし。

 いくら崇高な理想を掲げてても、弘至ヒロシの身体は健康な若い男子だった。意識とは無関係に反応する。


 その生理的反応を打ち消す為の、全力疾走であり過重スクワットであった。

 効果はあったし、身体も細マッチョになった。

 いつも夏バテを流行先取りで体験していた弘至ヒロシだったが、鈴蘭スズランの料理指導もあって、今年は夏バテとは無縁である。


 鈴蘭スズランが来てくれて、良い事尽くしだ。

 ──電気代を除いて。



 今日はバイトが夕方で上がった為、外で待ち合わせてスーパーに買い出しに来た。

 まるで恋人同士のようだな──なんて甘酸っぱい気持ちを持って弘至ヒロシはイソイソと待ち合わせのコンビニに行ったが、

 彼女はスキャンダル記事まみれの週刊誌をジックリ端から端まで立ち読みしていた。


 淡い幻想は木っ端微塵になった。


 色気を封印して欲しいと頼んだのは弘至ヒロシ自身だったが……

 まさかここまでなるなんて……


 でもいい。

 鈴蘭スズランとの間柄は、友人とはまた違っただったが、少なくとも当初よりは距離は縮んでる気がする。


 弘至ヒロシ鈴蘭スズランに声をかけ(申し訳なくて週刊誌を購入し)、スーパーへと向かったのだった。



 裏道を通るとスーパーまでの道程がショートカット出来る事を知っている弘至ヒロシは、先程から週刊誌で得た知識の真偽についてを人間心理学の知識を元に考察する鈴蘭スズランを、微笑ましく思いながら隣を歩いていた。


 この時間が──永遠に続くといいのに──


 弘至ヒロシがそんな儚い希望を抱いた時──



 猛烈なガラスの破壊音。

 そして女性の悲鳴。


 そんな音と共に大男が目の前に転がり出て来た。

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