第5話

 その日、加狩カガリ弘至ヒロシは困っていた。


 パッと見、おおよそ体育の先生には見えないヒョロ長い身体。

 撫で肩なので余計に貧相に見える。

 白のポロシャツを着ているものだから、肌の白い彼は余計に貧弱な印象を見る者に与えた。


 ジリジリとアスファルトを焦がす太陽の下、大汗をかきながら、違う意味でも汗をかきながら、彼は困っていた。


 目の前に。

 美女が座り込んでいる。


 人が住んでいるのかいないのか分からないような、半分朽ちて歪んだ木造家屋。

 木々が生い茂り、蔦も生い茂り、雑草もボウボウに生えたその敷地のすぐ脇に、

 美女が目を閉じて座り込んでいる。


 さっきから自分にたかる蚊をペチペチと抹殺しながら、彼はどうするべきか悩んで右往左往していた。


 ここを通りかかったのは偶然である。


 その日は、学校への出勤日だった。

 非常勤である彼は、常勤の教師のように学校に日参する必要はない。

 しかも、夏休み直前である為あまり授業もない。

 事務処理をしなければならない関係で、この日は本当に偶々たまたま加狩カガリ弘至ヒロシはこの道を通りかかったのだ。


 そして、見つけてしまった。


 座り込んだ美女を。


「あのっ……」

 彼は勇気を振り絞って声をかける。

 しかし、蚊の鳴くような声──いや、実際に蚊の羽音の方が大きいぐらいか。


 本来なら、こんな美女に声をかけるなんて度胸は彼にはない。

 しかし、この時だけは違った。

 病気になりそうな暑さと強い日差しの下、いくら木陰とはいえ昼寝をするには危険な場所である。

 ──いや、そもそも普通、人は道端で昼寝しない。


 もしかして、具合を悪くしてうずくまっているのかもしれない。

 熱中症を起こしたのかもしれない。

 じゃなければ、こんな所で座り込んでいるわけがない。


 彼は体育教師。

 実際の強さは別として。

 正義感は強い男。


「あのっ……もしもし?」

 もう一度勇気を振り絞り、加狩カガリ弘至ヒロシは声をかける。

 先ほどよりは大きい声で。


 しかし、美女の落ちた長い睫毛は開かれない。


 ──これはマズイ状況かもしれない。


 本来なら見知らぬ美女に触れるなど、痴漢呼ばわりされても言い訳できないが、そうも言っていられない。

 加狩カガリ弘至ヒロシは、暑さと緊張でジットリ汗をかいた右手で、美女の肩をほんの少し揺さぶった。


 途端──グラリと揺れる美女の身体。

 体育座りしていたその身体が、そのままの体勢で横に倒れようとしていた。


「危ないっ!」

 痴漢、冤罪、社会的抹殺、いつかやると思ってたんですよとかいう身勝手な保護者のインタビュー──

 そんな言葉が一瞬だけ過ぎったが、彼の持ち合わせた正義感の方が強かった。

 倒れそうな美女の両肩を掴み、横倒しになりそうだった身体を辛うじて抱きとめた。

 その瞬間──


 ピピッ


 何処からともなく電子音。

 そして、ゆっくりとフサフサの睫毛が動き、琥珀色の瞳が露わとなる。

 パチリと目を覚ました美女と、その彼女を抱きとめていた加狩カガリ弘至ヒロシの目が、バッチリと合った。


 ヒィっ!!!


 小さく悲鳴をあげる加狩カガリ弘至ヒロシ

 最悪のタイミングで美女が目を覚ました。

 楽しかった人生、辛かった人生、これからの未来の行く末、出会うかもしれなかった可愛いお嫁さん──色々なものが頭の中で走馬灯。


 終わった、俺の人生……


 彼はその瞬間、色々なものを諦めた。


「虹彩登録完了」


 美女がポツリと呟く。

 そして──


「迎えに来るの遅いです。ずっと待ってたんですよ?」


 美女は、甘えた口調で拗ねたように紅い唇を尖らせる。

 今まで自分の膝を抱いていたスラリと細く白い腕を、今度は加狩カガリ弘至ヒロシの首に絡ませた。


「……?

 ……??

 ……???」


 美女が、突然、首に絡みついてきた。

 迎えに?

 待ってた?

 え?

 誰を?

 俺を?

 まさか。知らない人だし──知らないよね?

 え? 知らないと思うんだけど、覚えてないだけ?

 もしかして、知り合い?

 こんな美女の知り合いなんていたっけ?

 ちょっと待って。そもそも『知り合い』の定義ってなんだっけ?


 加狩カガリ弘至ヒロシは、予想だにできなかったその状況に、頭が真っ白になって固まることしか出来なかった。


 そうして暫くしているうちに、弘至ヒロシはある事に思い至る。

『これは新手の強請りなのではないか』と。

 触らざるを得ない状況を作って痴漢呼ばわりし、示談金を毟り取る系の何かではないかと。


 冷静に考えれば、中学のしがない非常勤体育教師の弘至ヒロシに、こんなわざわざ手の込んだ強請りをしかけるような人間はいないのだが、今彼は冷静に物事を考える事ができなくなっていた。

 取り敢えず思いつく限りの言い訳の言葉を並べる。

 人違いです、知りません、下心はありません、何もしてません、ごめんなさい、間違えました、勘弁してください、お金持ってません──


 しかし、どんな言葉を並べ立てようと、彼女は弘至ヒロシの首から腕を離そうとはしなかった。

 それどころか、首に巻きついたまま更に頬ずりまで始める。

「寂しかったです。早くお家に帰りましょう?」

 まるでご飯をねだる猫のように、甘えた声で弘至ヒロシの耳元に囁きかける美女。

 そこで、弘至ヒロシは強請りではない事に(やっと)気づいた。


 あ、これヤバい人だった。

 美人だけど声かけたらダメな人だった。

 好みのタイプだけど関わったら危険な人だった。


 そう気づいてすぐに彼女の腕を振り解こうとした。

 しかし、その腕はまるで金属で溶接されてるかのようにビクともしない。

 そうこうしているウチに、行き交う人の視線が集まり出し、痛いほど弘至ヒロシに突き刺さった。

 なのに、その視線どころか周りに人などいないかの様に気にしない美女。

 そしてそのまま、弘至ヒロシの頬にプチュっと口付けた。


「うわぁぁぁ!」

 居ても立っても居られなくなった弘至ヒロシは、女性をそのまま抱きかかえて自分の家まで爆走した。

 息が詰まって目の前が白ずみ、足がもつれて倒れそうになるほど全速力で。


 築20年越えの古い賃貸マンション。

 何とか辿り着いた自分の住むその棟の、自宅の一昔前の少し古びた玄関の扉を壊さんばかりにブチ開け、やっと手を離してくれた女性を部屋に放り込んで、加狩カガリ弘至ヒロシは床に倒れこんだ。

 慣れ親しんだ古いフローリングが冷たくて気持ちが良かった。


 連れて帰って来てしまった……

 なんだか危険そうな女性を。


 収まらない動悸と呼吸は、もしかしたら全力疾走だけのせいではなかったのかもしれない。


 弘至ヒロシは床にオデコを付けたまま、もしかしたら、あの女性が真夏の陽炎か幻であった事を祈る。

 そしてゆっくりと視線を上げると──

「素敵な部屋ですね。私、気に入りました」

 程よく肉付きの良い脚を伸ばして座布団に座り、ニッコリと微笑む女性の姿が目に入った。


 幻じゃなかった……


 弘至ヒロシは、再度床にデコをつける。

 身体が床にめり込むんじゃないかと思う程重く感じた。


 勢いで連れて帰ってきてしまったけど、これからどうしよう……


 加狩カガリ弘至ヒロシは、ひたすら困惑するしか出来なかった。

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