たぶん、役に立たない『経理入門』

@kanjjsan

第1話 残ったものは(減価償却費)

(これはフィクションです、念のため)


始業時間にはまだ充分余裕のある、朝のオフィス。

IT部の一角。パーティションの奥から聞こえてくる端末のキーを叩く音が、ひと気のないオフィスにひと際響く。ディスプレイには、部員の名前らしきものとアルファベットが読み取れる。誰にも邪魔されない、浅田部長の至福の時間だ。

しかし。

やがて、その時間も夜勤の契約社員と入れ替わりで出社してくる部員たちの喧騒で脆くも破られる。

外資系企業には珍しく、朝礼が始まる。浅田が入社してから始めた慣行だ。

当番が今朝の話題として、新聞に載っていた中国の上海で起こった猫の話を取り上げている。

飼い猫がネズミに襲われ、一夜で白骨になるまで喰いつくされてしまった、というニュースだ。『窮鼠猫を噛む』の例えか。それとも、この話にどう結末づけるつもりなのか、浅田は一瞬期待したが、すぐにそれは裏切られた。これならまだ蛭田(ひるた)課長の《効かないコーラック》のダジャレのほうがましだ。(おっと、これは古すぎた。あまりにも使い古したオヤジギャグだ。)

と内心反省する間もなく、誰だ?遅れて入ってきたのは。また、あいつか。皆の視線が一斉に注がれる。


 マンネリ気味になった朝の光景も15分ほどで終わると、部員たちは屠畜場に連れられていく肉牛が寸でのところで解放されたように各々自席にもどり、仕事に取り掛かった。

「蛭田さん、ちょっと」

浅田は席に着こうとした課長を呼び止めた。

この会社では新しい社長に替わってから社員を呼ぶときは、職位にかかわらず『さんづけ』で呼び合おうと通達があった。だから、社長であろうと課長であろうとお互いが声を掛け合うときは皆、『さん』づけと決められた。

社内を開放的な雰囲気に、仕事に関する意見は平等であるべきだというのがその主旨だという。最初のうちの戸惑いも少し時間を置くと皆慣れてしまったようだ。

蛭田は、無表情な部長付き秘書の前を通り浅田の後をついて行った。


浅田部長は、三年前に購入したDS/80システムの償却状況について情報を用意するよう指示した。

(機種の入れ替えでも考えているのかしらん)

と、蛭田課長は今終えた朝礼の話と重ねて思いを巡らせた。

とりあえず、蛭田は、現在の資産状況を確認する前に経理部の山下次長のところで『減価償却』の説明を受けようと思った。それはそうと、さっきのニュースの話題、『窮鼠猫を噛む』が『九索(きゅうそう)でハコになる』といわれたようで昨晩の麻雀の負けに当てつけられたようであまりいい気がしなかった。とは言え、朝礼当番が昨夜のことを知るすべもなし。

(あいつ、どこから俺の負けの話を・・・)


 山下次長のテキトーな説明では・・・

通常、10万円以上の器具、機械、車両や建物関連のいわゆる固定資産、あるいはソフトウエアのような無形資産を購入した場合、経理上は一括で費用化せずその耐用年数に基づいた額を償却費という名目で期間配分しなければならない。

一度に費用・損金化してしまえば大きな資産を購入した場合は、状況により赤字決算となり、税務上はもちろん損金と認められないし、他の通常期と比較した場合公正な評価ができなくなってしまう恐れがある。

税務当局は経営の健全化や会社の管理上をその主旨というがもちろん当局の第一主眼は会社を生かさず殺さずに継続的な税の徴収をするところにある。

会社にとっては資産購入により手元資金が減少しているところに加え、納税という支出がかさむわけであるから、資金的な面だけで見れば一時的にはあまり歓迎できる方法ではない。

まあ、それは別の問題として、償却方法には、定額、定率の選択と併せて、資産の種類により耐用年数が決められており、それに沿った形での損金が認められている。

建物であれば、最大50年、自動車は4年、果樹園を生業としていれば、蜜柑の木は28年、柿は36年など。畜産関係であれば、牛は6年、競走馬については4年、繁殖馬になれば6年などと細かく規定されている。

法定通りの償却をすれば耐用年数後には、以前は残存価額として5パーセントとか10パーセントが残ったが、現在は資産として会社にあるかぎり1円の備忘価格で記帳されるだけだ。


浅田部長は外資系企業では当たり前の、外部からのヘッドハンティングで迎えられた。ITに関しては最新の知識を持っているということでシステムの大規模な入れ替え、変更に必要人物として迎えられた。この分野ではある程度評価されているという。

温和な性格で他部署の責任者にも外資系では珍しくあたりが柔らかいという社内の評判であったが、部内ではそれなりに部下に対しての仕事上の指導は厳しかったといううわさもあった。

一方、女子社員間の話題は、浅田部長の年齢不詳のことだった。

(ああ見えて浅田さんはいったい幾つなのかしら?)

その原因は、どうやら違和感があるほどふさふさとしている頭髪からきているらしい。社員の仕事内容や技量以上にこういうところに大きな関心を持つのが女性社員の感性だ。

(あれは自毛なのかしら?それとも)

というのが彼女らの関心事だった。

確かに、いつみてもきっちりと七三に分けた髪型で一毛たりとも乱れた様子がなかった。もし、女子社員たちの噂どおりであったのなら、当時として「それ」はかなり高額のものであったであろう。

以前、元プロ野球出身のタレントが脱税で『かつら』を経費扱いうんぬんという言い訳をしてマスコミの恰好の話題として取り上げられていた。

タレントとしての芸能活動に必要であれば税務上の耐用年数表にもとづき2年で償却として経費として認められるが、一般人やサラリーマンの必要経費としては、通常それは適用されない。


浅田部長は順調に業務評価を上げていったが、また、外部からヘッドハンティングされたのか、自らこの会社に見切りをつけたのか、やはり2年程で転職していった。

(やはり、女の勘は当っていたのだろうか?)

と山下次長は、最近若いときのような『g』を感じなくなった自身の頭頂部を気にしながら思った。

一方の蛭田課長は、といえば。

彼の経歴は確かではない面が多いが、山下が最初に彼を見かけたのは渋谷から以前会社のあった西麻布までのバスの中だった。大きなビジネスバックの上にパソコンを広げて熱心に英文レターを目で追っているところだった。朝の混雑した通勤バスの中でも仕事に集中している姿は、人目がなければいつでも気を抜く機会を狙っている山下には考えられない光景で、その時は蛭田が優秀な社員にうつった。

学生時代はW大のグリーンクラブに在籍していたとかで、結婚式に呼ばれると必ずその美声(?)を披露しているらしい。会社の行事や普段の飲み会に出るときは必ず、カバンの中に常備しているテープを取り出し店のカセットレコーダー(古い!)でオペラを歌いだす。最初のうちは、みなおとなしく聴いているが、そのうちアルコールが回ってくると段々耳障りになってくる。だいいち、酔っ払いにオペラは全くと言って合わない組み合わせだ。酒の肴にしては悪酔い必至だろう。それでも、自分の持ち歌を一通り終わらせないうちは決してマイクを離さないから、しばしば周りの者を辟易させた。

仕事の進め方も慎重すぎるぐらい慎重でなかなか実行までには結びつかない。『メビウス蛭田』とも陰ではあだ名されていた。話をしているうちにまた最初の話題・質問に戻ってしまうからだ。

そんな彼も、定年後の再雇用制度を利用し、いまだ蛭のようにベッタリと、周りの空気を読むことなく勤めている。男子の平均寿命を人の耐用年数と勘違いしているのか、備忘価額も気にすることなく、まだまだ勤めるつもりらしい。

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