六 月光

 お線香を絶やさないようにと、今夜大人たちは寝ずの番をするという。

 祖母の亡骸は、母屋から離れへと移された。かつて、祖母が住まいとする場所だったという。


 その夜、布団にもぐりこんで目を閉じても、なかなか眠れそうになかった。

 暗い天井を睨みながら、正平さんに聞いた話を何度も頭の中でくり返していた。

 そして、同時に思い出すのは、昼間に見たあの人――恐らく鬼であろう人。

 やっぱりダメだ。 

 もう考えるのはやめようと思ったけれど、鬼の話がずっと気になって仕方がない。

 わたしは、夜具を跳ね除けると、のそりと起き上がった。

 いつの間に雨の音も聞こえない。どうやら雨が止んで月が出たようだ。そっと障子を開いて硝子窓に顔を寄せると、外の様子を確認する。

 いつの間にか、月を隠していた雲も空の彼方へ追いやられていた。これなら灯りも必要ないだろう。

 音を立てないように襖を開くと、抜き足差し足で暗い廊下を進む。階段を降り廊下を進み、厨にある勝手口から外へと抜け出した。

 母屋から祖母の亡骸がある離れへ行くには、いったん外へ出なければならない。古びた下駄を爪先に引っ掛けると、ぬかるんだ地面をそっと歩き出した。

 少し湿った風が吹いた。かすかに潮の匂いがする。海辺に出るには遠いのに、少し不思議な感じがした。

 何気なく空を仰ぐと、薄雲がゆっくりと流れる。途端、真珠色に輝く月が顔を出した。

「きれい……」

 嫌なことなど何もかも忘れてしまいそうな美しい月だった。悔しいけれど、今まで見た中で一番綺麗に見える。

 月から視線を引き剥がした その時だった。


 びちゃり。

 背後で、ぬかるんだ地面が音を立てた。

 反射的に身体が動いた。すばやく物陰を探し、近くにあった大きな庭石の影に身を潜める。

 びちゃり、びちゃり…………。

 息をするのも忘れ、わたしは音に聞き耳を立てた。

 びちゃり、びちゃり、びちゃり、…………。

 どんどん足音が近付いてくる。

 逃げなくては。でも、恐ろしくて足が動かない。

 びちゃり。

 足音が目の前で止まった。息をするのすら苦しい。庭石にすがりついた手が震えているのがわかる。油断をすると、声を上げてしまいそうだ。足音の主の姿を確かめることもできず、ただ肩を震わせていた。

 びちゃり、びちゃり、びちゃり……。

 どんどん足音が遠ざかってゆく。

 ……一体、どこへ行くのだろう?

 躊躇ったのは一瞬。恐る恐る庭石から額を離すと、足音の主の姿を探した。

 いた。

 月明かりに浮かび上がる姿に、思わず息を飲んだ。

 やっぱりそうだ、あの人だ。

 背中を覆う、もつれた黒髪。闇と同じ色をした墨染めの衣から伸びた細く青白い腕。

 気が付いたら、彼の後を追って歩き出していた。

 もうやめた方がいい。ついて行くな。心の中の誰かが忠告する。けれど足が止まらなかった。

 歩いて、歩いて、歩いて……彼は離れにたどり着くと、土足のまま縁側に上がり、するりと中へと上がり込んでしまった。

 あまりにも堂々と忍び込んでいく姿に、呆然としてしまう。

 だけど離れには、寝ずの番をする大人たちがいるはずだ。こんな真夜中に見知らぬ人間が入ってきたら、黙っているわけがない。

 しばらく耳を澄まして中の様子を伺っていたが、いくら待っても大人たちの声は聞こえてこない。

 胸がざわざわする。もう母屋へ戻った方がいい。

 だけど……。

 意を決すると、わたしは雨戸の隙間からこぼれる光に向かって歩き出した。

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