五 鬼の所業
「なきがら?」
「そうだ」
正平さんはゆっくり頷く。
「本当は死んだ日に寺へ連れて行かなければならないのだが、生憎この雨だ。今夜は坊主たちと供に寝ずの番でもするそうだ」
「雨だとか、寝ずの番だとか、ずいぶん大げさですね」
「……知りたいか?」
何を、と聞かなくてもわかった。家人たちの不可解な行動の理由であろう。わたしは深く考えず、ただ好奇心に任せて迷いもなく頷いた。すると正平さんは薄くほほ笑む。
わたしが知りたいと答えると確信していたかのように。
「郡司の者は、死んでも荼毘には付さず、土葬もしない。鬼にその身を喰わせるのが慣わしだった」
「鬼、ですか」
突拍子もないことを言い出した。わたしを怖がらせようと企んでいるのだろうか。でも、彼が冗談や戯言を好む性分には見えなかった。
「昔の話だ。寺に運ばれると鬼が手出しができないと知ってからは、そうしている」
「……あ」」
この大雨の中で、棺をお寺まで運ぶなんて無理だ。だが郡司家の祖母の亡骸は、今この家にある。
鬼が喰らうのには、絶好の機会に違いない。正平さんの話を鵜呑みにするなら……の話だけれど。
ことん、と目の前に杯が置かれた。正平さんは手にした酒器を傾け、溢れる寸前まで清水のようなお酒を注いでゆく。
「これは?」
小さな杯には溢れるほどのお酒で満たされていた。
「酒だ」
それくらい見ればわかる。
「そうではなくて」
まさかこれを飲めと言うのだろうか。
「酒は供養にも清めにもなる。飲め」
素っ気無く告げると、正平さんは自分の杯に口をつける。
「飲めと言われても……」
これまでお酒と呼ばれるものを口にした試しがあるのは、酒粕を溶いた甘酒くらいだ。でも、正平さんがまるで水のように飲んでいるのを見ていたら、実はとても美味しいもののように思えてきた。好奇心に打ち勝てず、恐る恐る杯に唇をつける。
お酒に舌が触れた途端、ひりっとした甘いような苦いような、へんてこな味がした。
「美味しくない」
思い切り顔をしかめ不満を唱えると、正平さんはかすかに唇をゆるませた。もしかしたら笑ったのかもしれない。
からかわれっぱなしも面白くない。我慢して口の中に残ったお酒を飲み下すと、とにかく何かを言ってやらなくては気が済まないと思った。
「子供だと思って、からかわないで下さい」
「からかってなどいない」
平坦な声で正平さんは言うものの、そういうところが、まともに取り合ってくれていないような気がして癪に障る。
「鬼だなんて、いるわけがないじゃないですか」
唐突に、昼間に見た不思議な男の人の姿が思い浮かぶ。
まさか。わたしは首を振った。鬼なんて、いるわけがない。
二人の間に沈黙が流れる。騒がしい周囲から、わたしたちだけが取り残されたようだ。
ややあって、正平さんはぽつんと呟いた。
「信じようが信じまいが、お前次第だ」
突き放すような発言に、わたしはますますむっとなる。
「じゃあ、教えてください。どうして鬼は亡くなった人を食べたりするのですか?」
半ばやけっぱち気味に訊ねてみる。
「鬼だからだろう」
予想通り返ってきた答えは素っ気無い。
「どうして鬼だと人を食べるのですか?」
「お前は『どうして』ばかりだな」
「あ……」
本当だ。さっきから馬鹿のひとつ覚えのように「どうして」を繰り返している。
「変わった娘だな」
呆れていると思いきや、正平さんの口調は不思議と穏やかだった。
「……別に。変わってなんかいません」
変わった娘。お前は劣っていると言われているような気がして、好きじゃない言葉だ。
でも、どうしてだろう。正平さんに言われても、あまり嫌な感じがしない。
「変わっていますか、わたし」
「鬼の所業に疑問を抱く者など、そうはいない」
「でも、そんなことをするには理由があるから、と思うのはおかしいでしょうか? 鬼だからといって、何の理由も無しに人を食べたりしないのでは……」
酒器に手を伸ばそうとした正平さんの動きが止まった。
またおかしなことを言ってしまったらしい。正平さんの視線を痛いくらい額に感じながら、もう何も言うまいと堅く唇を引き結ぶ。
「ふ」
小さく息を吐き出した正平さんは、額を片手で押さえると、俯いたまま小刻みに肩を震わせた。
どうしたのだろう。笑っているようにも思えた。でも、もしかして泣いているのかもしれない。不安になって見守っていると、正平さんはようやく顔を上げた。
「やはり、お前は変わった娘だ」
どうやら笑っていたようだ。少しだけ安心する。
「恐らく罰だ」
「罰?」
正平さんは手にしていた杯のお酒を、一気に飲み干した。
「罰を受けるべき者が、当然の報いを受けただけの話だ」
正平さんの話は曖昧で、よくわからなかった。ただ、正平さんは鬼の存在を信じているのだということだけは、何だかとても伝わってきた。
わたしはどう受け止めるべきだろうと頭を悩ませていると、正平さんは手を伸ばし、わたしの頭をくしゃくしゃとかき回した。
「真面目に取らなくていい。戯言だ」
とても戯言を言うようには見えない面持ちで呟くと、乱れたわたしの髪を指先ですくい上げた。かすかに頬に触れた指先は、ひどく冷たかった。
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