シーとヴィア・ドロローサ

ユッキー

第1話


イエスは、ローマ総督ピトラの官邸で十字架刑の判決を受け、鞭で打たれました。

十字架を背負わされ、群衆から罵られながら何回もつまずき、処刑の場のゴルゴダの丘まで歩きました。

現在、この道がヴィア・ドロローサ(悲しみの道)として、巡礼の道になっています。




今年のゴールデンウィークに、軽井沢へ2泊3日の旅行に行きました。

愛犬シーズーのシーも一緒です。

プリンスホテル東館のドッグコテージに泊まりました。


2日目の午後は、昼食の後に、本当に久しぶりに旧軽井沢まで出かけてみました。

ぜひシーと一緒に、訪れてみたい場所があったからです。



JR軽井沢駅北口から旧軽井沢銀座の入口のロータリーまで、軽井沢本通りを約1.8km。

徒歩で約20分。

入口のロータリーから旧碓氷峠方向へ向かう約500mの区間が、旧軽井沢のメインストリート(旧軽井沢銀座)になっています。


プリンスホテル東館のドッグコテージから、プリンスショッピングプラザを抜け、JR軽井沢駅の陸橋を渡り、旧軽井沢銀座へと向かいました。

あたたかな五月晴れでした。


シーは、息をハアハア言わせながら、陸橋を越え、旧軽井沢へと続く通りを歩いてくれました。

すれ違う多くの人たちからは、一様にあたたかい眼差しが向けられました。


シーズー?

可愛い

リボン付けてる


ゴールデンウィークということで、旧軽井沢銀座の入口のロータリーから、メインストリートの方は、たいへんな人混みでした。

ひとまず、ペットボトルから携帯用コップに水を注いで、一休みしました。

シーは、長い距離を歩いたので、夢中になって飲んでいます。


シー

ここが軽井沢銀座だよ

すごい人だね


シーは、水を飲み干すと、疲れたのかアスファルトの歩道に腹ばいになって、ハアハア言っています。


ちょっと人が多過ぎるね


私は、旧軽井沢銀座のメインストリートが、あまりにも混雑しているので、進入するのを諦め、通りの西側にある聖パウロカトリック教会に向かうことにしました。

そここそが、シーと一緒に訪れてみたい場所でした。



ロータリーから、西側の三笠通りに入り、少し進んで右折するとすぐに教会です。

シーは、時々立ち止まりながらも、やはり息をハアハアしつつ歩いてくれました。


もうどれくらい経つでしょう。

大学を卒業し、ある企業へ就職したものの、逃げ出すように軽井沢を訪れた以来です。

もう教会の姿形もほとんど記憶に残っていません。

シーが前を歩きながら、やがて教会の入口が見えて来ました。

左側の門には、「聖パウロカトリック教会」の木製の看板が掲げてあります。


シー

ここだよ


本当に久しぶりに見た教会は、思っていたよりも小ぢんまりしていました。

鋭角な三角屋根が特徴的で、屋根の先端には十字架が聳えています。

しかし、歴史を感じさせる木造の佇まいは、厳かで慎ましく懐かしくさえ感じられました。


シーは、ハアハア息を切らせながら、聖パウロカトリック教会を見上げていました。

そして、初めて訪れた時の記憶が、蘇って来ました。


あの時、ミサで




まだ大学を卒業して間もない頃の6月、朝仕事には向かわず、東北新幹線に乗っていました。

目的地は、軽井沢でした。

堀辰雄の小説を読んで、単純に軽井沢に憧れていたのです。


軽井沢に着いてすぐに、旧軽井沢銀座まで行き、聖パウロカトリック教会を訪れました。

堀辰雄の小説にも登場する教会です。

「風立ちぬ」の最後の章「死のかげの谷」を読んでいました。

まだ携帯もない時代でしたけれど、朝のミサの時間を確認し、民宿に泊まりました。

そして翌朝、時間通りに朝のミサに参列したのです。



快晴の朝でした。

高原の澄んだ空気が、心を浄化してくれるようです。

小鳥のさえずりを聞きながら、期待に胸を膨らませて歩きました。

私は、キリスト教を信仰しているわけではありませんが、どこかで救われたいという思いがあったのです。



朝の聖パウロカトリック教会は、静粛さの中に佇んでいました。

なにか厳かな気持ちになりました。

私は、おそるおそる正面の扉を開けました。

聖堂は薄暗く、もうすでに何人かの信者が、最前列の木製の長椅子に腰掛けていました。

やはり神聖な雰囲気に包まれています。

大学のプロテスタントの礼拝には、何度も出席したことはありましたが、カトリックのミサは初めてです。

とりあえず、中央の通路を進み、右側の2列目の席に腰掛けました。


正面を見ると、祭壇の奥の窓ガラスに、十字架に磔にされたイエスの像が飾られています。

カトリック教会の聖堂も初めてだったので、イエスの像がとても新鮮で、聖なる尊いものに感じられました。



やがて司祭が現れ、ミサが始まりました。

司祭は、初顔の私を一瞥しました。

その後、どのようにミサが進められたのかは具体的には覚えていませんが、聖歌が歌われ、アーメンを唱えました。

そして、聖体拝領が始まり、司祭から参列者にパン(聖体)が授けられました。

何もわからない私は、他の参列者と同じように、パン(聖体)を授かれると思い、祭壇の前に立ちました。


あなたは洗礼を受けておりませんね


司祭は、初顔の私に確認しました。

当然、パン(聖体)を授けてもらうことはできません。

それでも司祭は、頭の上に手を置いて、祝福してくださいました。

私は、自分の無知が恥ずかしくなり、顔が紅潮しました。

すると、右側の最前列の席に座っていた白人の少女が、クスッと笑ったように感じました。

私は余計に恥ずかしくなり、すぐに少女の後ろの木製の長椅子の席に戻りました。


斜め前方の、少女の横顔が見えました。

金髪でお下げ髪の、まだ小学校低学年ぐらいの少女です。

彼女は、微笑みながら掌を合わせ、黙祷していました。

閉祭の歌が歌われ、司祭は退堂しました。

私は座ったまま、ミサの余韻に浸っていました。

十字架のイエスの像から、なにかを感じていました。

ふと、イエスがゴルゴダの丘へと、十字架を背負い歩いていた時、彼を憐れみ額の汗を拭うようにと、自らのベェールを差し出した女性がいたことを思い出しました。


どうか祝福を

アーメン


そう心の中で呟いた時、ようやく先ほどの少女が、目の前に立っていることに気づきました。

はち切れんばかりの可愛らしい笑顔でした。


You dropped something. Is this yours?

あなたは何かを落としました

これはあなたのものですか?


少女はそう言って、タオルハンカチを差し出しました。

それは私のハンカチでした。

どうやら、先ほど祭壇の前に立った時に、ズボンのポケットから、知らず知らずに落としてしまったようです。


ありがとう


私は、慌ててお礼を言って受け取りました。

彼女が、日本語を理解していたかはわかりません。


It’s my pleasure.

どういたしまして、嬉しいです


少女は、ニコリと微笑みました。

そして、扉の前で待つ両親のもとへ、お下げ髪の先を、ぴょんぴょん跳ねらせながら走って行きました。

まだ若い両親は、娘の行いを讃えるかのように、両手を拡げて彼女を迎えました。


そんな光景を眺めながら、私は無意識のうちに、額の汗をそのタオルハンカチで、拭っていました。

汗が染み込んだそのハンカチには、1匹の犬が刺繍されていました。


あの子は

ハンカチを落としたのを見て笑ったんだ


祝福あれ



後日、イエスに自らのベェールを差し出した女性が、イスラエルの敬虔なヴェロニカという女性であったことを確かめました。

イエスが申し出を受けて、額の汗を拭い彼女にヴェールを返すと、そのヴェールにイエスの顔が浮かび上がったという奇跡とともに…




シーは、聖パウロカトリック教会前の広場で、腹ばいになって休んでいました。

観光客が皆、シーを一瞥して通り過ぎます。

私はシーを抱っこして、教会の正面の扉を開けました。

さすがに、犬を同伴して聖堂に入るのはマズイと思い、入り口に立ったまま、中を覗きました。

天井が三角に尖っていて、中央の通路を挟んで、左右に木製の長椅子が並んでいます。

正面に祭壇があり、その奥の大きな窓ガラスに、十字架に磔にされたイエスの像が飾られていました。

あの時と同じです。


シー

よく見ておいで


シーは、大人しく抱っこされたまま、大きな瞳で、正面奥のイエスの像を見つめていました。




教会から、軽井沢プリンスホテル東館ドッグコテージへの帰り道。

先を行くシーは、やはりハアハア息を切らせながら歩いていました。

ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)のことを思いました。


シー

疲れたら少し休んでもいいよ


私たちは、立ち止まり、ペットボトルの水を、分け合って飲みました。

シーの顔が水で濡れたので、タオルハンカチで拭いてあげました。

そのタオルハンカチを見ると、1匹の犬の刺繍がしてありました。

北の方角の青空の下に、浅間山が、私たちを見守るように聳えていました。

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