かたちのないもの。

南海あおい

かたちのないもの。

それはとてもあっけないできごとだった。学生の頃から使っていたグラスは、たった今、ただのガラスの破片になってしまったのだ。


頑丈だったゆえに、そのグラスとは付き合いも長かった。大学入学が決まり、ひとり暮らしを始めるのと同時に買ったDURALEXのピカルディ。ガレージを改装した雑貨屋さんで、その念願のグラスを手に取ったわたしは、まだ冷たい3月の風に心を躍らせた。


熱にも衝撃にも強く、がさつなわたしにも扱いやすく、なにより手に馴染む飾らないフォルムがシンプルに好きだった。

でも、今はもう形をなさないガラス屑になってしまった。金属製のシンクにコロンと転がった瞬間、この10年の月日を一瞬のうちに滑り落ちるように、永遠にその形を失った。

2つ揃えで買った、もう1つの同じ形のグラスを残して。


泣きながら友人と一緒に飲んだお酒、大好きだった彼とのクリスマス、社会人のつらさが身にしみた夜。お気に入りのそれは、どんな時もすぐに引っ張り出されていた。そして、忘れられないあの人との懐かしい日々を、ぼんやりと映し出してもいた。時が流れても、生きる場所が変わっても。


そのふたつのグラスのうち、ひとつが割れてしまった。


ただそれだけのこと。ただそれだけのことなのに、このせつなさはなんなのだろう。大切なものが壊れてしまったことは確かにショックだった。でも、それ以上に、残されたもうひとつのグラスを見ている方が、圧倒的に胸が痛かった。無くなってしまったかたわれを補うためには、新しく同じものを買えばいい。でも、もう二度とお揃いには戻らない。そう、戻らないのだ。


残ってしまったかたわれに、いっそ捨ててしまおうか?と手を伸ばすも、すぐに決断できず、キッチンでグズグズする始末。

陽に透かして見ると、たくさんの細かな傷が浮かび上がる。いつ、どんな時に、どんな風についたのか。いつまで経っても答えなんて出ない不毛な作業を、必死になって繰り返す。そんな心の奥底で、本当は、もう会えないあの人との接点を必死に探している。そして、いつまでも満たされることのないわたしの思いだけが、このかたわれに注がれ続けるのだろう。


形あるものはいつかなくなる。でも、それは絶望ではない。

形なくいつまでも込み上げてくる思いこそ、わたしにとっては絶望に思える。

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