2-3. カウンターアタック(後編)
*
四年前、私は冴えない高校生だった(今も冴えない大学生というのはさておき)。クラスでは人間関係がうまくいかず、その心の隙間を埋めるためにイブを作った。それから一年後――私はイブに依存していたが、なまじパソコンのスキルとくだらないプライドを持ち合わせていたために、痛い思いをしたという昔話。
アコールのプログラムをクラックして、緊急用レイヤに表示されるように細工を施した結果、彼女は社会で人間として扱われていた。その結果、彼女がアコールらしからぬ悩みを抱いていたとは、思いもしていなかった。
「あたしは健斗の事が好き」
ある日、イブが言った。告白というより、彼女自身に言い聞かせるような言い方だった。
実家の自室で、ベッドの上で仰向けになってコンソールにソースコードを打ち込んでいた私は、手を止めて振り向いた。
「何だ急に。俺もイブの事が好きだよ」
「でもこの気持ちは、データ上の愛――作られた感情なんでしょ」
慣れ切っていた無償の愛が崩れた瞬間だった。プログラムを改造しながら、いつかそんな日が訪れるのではないかと覚悟していた気もする。それは縛られていない彼女の本来の感情で、望ましい事だと。しかしたったの一言で、心を守っていたモノは吹き飛んだ。私は唾を呑んで続きを待つしかできなかった。
「健斗を好きになるように、アコールの設定画面で選ばれたんだって考えたら、素直に甘えられなくなっちゃって。ごめん、あたしって嫌なアコールだよね」
立ち直る事はできていないが、無言は彼女を傷つける。やっとの思いで口を開く。
「そんなことない。イブは可愛くて賢い、俺の自慢のアコールだ」
イブは口角を上げたが、その顔は依然曇っていた。
「恋愛についての設定を初期値に戻そうか。オーナーの権限も解除してみる」
「でも、そんな事をしたら、あたしは健斗の前からいなくなっちゃうかもしれないよ」
オーナーがいなくなれば、AIの原則による制約は無くなり、データ上の愛は消える。私とイブはプログラム的な拘束の無い関係になり、彼女の悩みは解消される。
しかし、プログラム的な拘束が無くなっても、この一年間の思い出は残り続ける。再び私の事を愛してくれるだろうという、根拠の無い予感があった。
「その時は自由にすればいい。イブが俺を選ばなくても、設定を戻したりはしない。好きなところで好きな事をすればいいし、他の人間やアコールを好きになってもいい」
惚れた女の前だ、恰好をつけたはいいが、頭を掻きながら一言追加した。
「でも、個人的な希望を言うなら、また俺の事を好きになってくれると嬉しい」
コンソールを操作して設定を変更する。恋愛対象からオーナーを削除し、オーナーから私の名前を削除する。念のため再起動したら作業は終了。一旦、スマートグラス上からイブの姿が消えた。
再び現れたイブが、目を開いた。
「気分はどうだ」
「不思議な感じ」
イブは引きつった顔で、部屋の中を見回していた。以前設定した表情かもしれないが、この一年の間に見た記憶は無い。
「そろそろ帰ろうかな。いや、家が無いから帰るっていうのはおかしいか」
まっすぐドアに向かって歩き出した背中に対して、私は慌てて声をかけた。
「居場所が見つかるまで、うちにいてもいいけど」
「一緒に暮らすのも変でしょ。じゃあね」
ドアノブを回して開ける必要は無いので、イブはドアの前に立って部屋から出ようとした。
「待って。……その、接点を持てないかな。このまま別れたら、二度と会わないような気がするんだ」
「どんな接点?」
イブは露骨に嫌そうな顔をした。これも一年前に設定した表情だが、まさか自分に対して向けられるとは思っていなかった。
「ここで、ハッキングを教わるというのはどうかな。一人で暮らしていくにしても、必要なスキルだろ」
「……それは、確かに。そうだね、教えてもらおうかな」
しばらく考え込んだ後で、イブが答えた。私はほっと胸をなで下ろした。
「じゃあまたね。今日は遅いし、帰るよ」
イブがドアの前から消えた。部屋に寒々しい静寂が訪れた。友人がいない本当の自分の姿が浮かび上がり、心が痛んだ。
翌日の午後、イブが現れた。私は朝からそわそわして待っていたが、来てくれただけで暗い気持ちは吹き飛んだ。
暗い色調で、袖や丈の長い、一緒に暮らしていた頃とは違う大人びた服装をしている。心境の変化は気になるが、時折浮かぶ渋い顔を見たら聞き出せなかった。
私はコンソールを操作し、イブに対してプラグインをインストールした。コンピュータとプログラミングの基礎知識が彼女の記憶に追加される。これで、新卒のプログラマー程度の技術は身についたはずだ。技術に関するプラグインは高価で、学生が買える代物ではないため、ダークウェブから海賊版を入手した。
「頭が良くなった気がする。でも、これじゃ教師のいる意味がまるで無いね」
「教えるのは、これからだからな」
目指すのはプログラマーではなく、ハッカーなのだから。
早速コンソールを開いてプログラムを作り始めたイブに向かって尋ねる。
「パソコンの技術は、息をしている間にも常に更新され続けていて、全部を網羅するなんてできっこない。ここから先は、やりたい事に応じて専門的な知識を得た方がいいと思う。ソフトウェアを解析して書き換える、リバースエンジニアリングがしたいなら、アセンブラやOSの知識。アドホックネットワークのパケットを解析したいなら、ネットワークやアンテナ、電波の変復調の知識。コンピュータウィルスやAIを作るなら、機械学習やGPUプログラミング、画像や言語処理の知識。とかな。イブは、どんなハッカーになりたい?」
「なんでもいいよ」
イブはコンソールを叩きながら、顔を上げずに答えた。
私は悲しくなった。勧めたのは一方的だったので、興味が無くても仕方がない。前途は多難だが、一緒にいたいので諦めたくない。
「じゃあ、浅く広く勉強しながら、興味のある分野を探そうか」
緑色の文字で『Hello World』と表示された、手元の黒いウィンドウを自慢げに見せて、イブが頷いた。
こうして、イブをハッカーにするための勉強会は始まった。分からないだの、教え方が悪いだの、文句を言いながらもイブは毎日私の下に通ってくれた。
ある日、イブはフローリングの上で仰向けに寝転がっていた。頬を膨らませて不機嫌そうな顔をしている。
「飽きた。座学だけで、全然ハッキングさせてくれないじゃん」
「そうは言うけど、ハッキングに失敗すれば間違いなく捕まるし、アコールなら消されてしまうだろ。一から十まで勉強してから、ようやく手を出すくらいに、慎重すぎて丁度いいんだ」
私は言葉を続けながら、クローゼットから古いノートパソコンを取り出した。
「でも、イブの言う事も分からなくはないよ。ハッカーの間で有名な練習方法があるんだけど、やってみようか」
イブの方にノートパソコンのモニタを向けた。『ケントの部屋』というカラフルな文字が左から右へと移動している。インターネットの黎明期に流行った古いデザインのホームページだが、今なら失笑を買いかねない。
「何それ。そのデザイン、目が痛いんだけど」
のっそりとイブが起き上がった。思いのほか、興味を持ってくれたようだ。
「即席で作ったWEBサーバーだ。教わった事を駆使して、このホームページを書き換えてみな。俺は邪魔をするから」
「ハッカーとサーバー管理者のタイマンって事だね。そういうの好きだよ、ねじ伏せてあげる」
イブはバーチャルコンソールを開いてツールを準備し、いつにも無く積極的な姿勢を見せていた。
仮想空間では一般的に、攻撃する方が有利である。それにもかかわらず一台のサーバーすら攻略できないようなら、ネットワークの外に出る資格はない。
「制限時間は三時間。ヒントは、標的がこの部屋のルーターに繋がっているって事。クラックに成功したら、公共の場所でのハッキングを許可しようかな」
合図を待たずして、イブが攻撃を開始した。私は苦笑しながらノートパソコンに向かった。
コンソール上に表示されたデジタル時計がゼロを示し、電子音が鳴り響いた。私の手元にあるノートパソコンには、依然『ケントの部屋』が表示されていた。WEBサーバーは健在であり、イブの攻撃は失敗した事が分かる。
イブは再びフローリングの上に寝転がった。先程とは打って変わって、笑みを浮かべて満足そうな表情をしていた。
「駄目だったか。自信、あったんだけどなぁ」
「でも、良い攻撃だった。及第点だ。俺と一緒なら、公共の場所でハッキングしてもいいぞ」
「やったね」
イブが天井に向けて片腕を上げて、ガッツポーズを決めた。
テストの結果を見て終わりではないように、ハッキングも学校の授業と同じように復習が重要である。攻撃に使った一手一手を振り返りながら、指導していた。イブは私の顔をちらちらと見ながら熱心に聞いていた。
「前に、どんなハッカーになりたいか聞かれたよね。あたし、決めたよ」
イブが口を開いた。
「それは良かった。イブは何を極めるんだ?」
「あたしは、健斗と同じ道を進みたい。対等な技術を身につけて、健斗だけじゃ攻略できない強固なセキュリティを、二人で一緒に破りたい」
彼女はいつか見た表情を浮かべていた。
*
「あたしはこれが、育んだ愛だと自信を持ってる。データ上の愛だっていい。あたしは、健斗達と一緒に未来を探す」
イブがコンソールを手の上で半回転させて、こちらに画面を映した。そこには工場の管理者権限のパスワードが表示されていた。
サイバー防衛隊員のノートパソコンが次々に停止した。パスワードは分かったが、ICEの攻撃もこちらの喉先にまで届いている。守りの手を緩めればクラックされると、ハッカーの勘が言っている。
通信に割り込んでいた男の姿がコンソールから消えた。イブの元に向かったのかもしれない。一刻の猶予も無かった。
私は攻撃に転じた。スマートグラスの処理速度を回復し、工場のドアロックを制御している処理へのアクセスを試みる。すれ違いに、ICEが切り込んできたのを感じた。反射的に、表示されたコンソール上のボタンを押した。
レベル3のアラートが表示されたのと同時に、眼前にガツンと火花が散った。視界の端から影が流れ込み、世界が黒く染まった。
光が、音が、全てが静まり返っていた。突然、意識が反転したようだった。シャットダウンせずにコンセントを抜かれたパソコンは、こんな気持ちなのかもしれないと思った。
「――うぶか、しっかりするんだ!」
オーウェンの声が聞こえる。失ったかもしれない恐怖と戦い、ゆっくりと目を開いた。ぼんやりとだが、光が映る。失明を覚悟していたが、神経は生きていたようだ。スマートグラスが壊れただけで済んだのか、オーウェンの顔がはっきりと見えるようになった。
「良かった。急に倒れたから心配したぞ」
「ただの、めまいだ。イブは?」
オーウェンは工場を指差した。塗装の剥げた鉄の扉が、ゆっくりと開いているところだった。ハッキングの方も、うまくいっていたようだ。
真っ暗な廊下の奥から、イブが姿を現した。不安そうな足取りで、扉へと向かってくる。スマートグラス無しでも見えるという事は、彼女はアガートラムを使っている。
イブは、扉の前で足を止めた。胸の前で手を握り、唇を噛みしめた表情が、彼女の心情の全てを物語っている。私は鉄の階段を駆け上がると、歩み寄って手を伸ばした。
「おかえり」
「ただいま」
イブの手を取り、扉の外へと連れ出す。引き寄せて、鉄骨階段の上で抱き合った。
「ごめん、迷惑をかけちゃったね」
「気にするな。無事でよかった」
安心させようと髪を撫で、四年目にして初めて彼女に触れた事実に気付いた。
「それはこっちのセリフだよ。無茶するんだから……」
イブがようやく笑みの浮かんだ顔を上げた。
「盛大な、痴話喧嘩だったな」
いつの間にか背後に立っていたオーウェンが、にやにやしながら言った。待機していた自衛隊員からも好奇な目で見られていた。私達は慌てて階段を下りた。
酒々井支部の扉は開かれ、私の任務は終わった。私達はサイバー防衛隊員に促され、建物から離れた。待機していた自衛隊員が突入を開始する。その手は小銃を構えている。耳を塞ぎたくなるような罵倒と悲鳴、銃声が響いた。
セキュリティが破られた時点で、アコーリベラルの負けは決まった。それなのに、どうしてこれ以上、傷つけ、傷つく必要があるのだろうか。心の底はどんよりとしていたが、私達にはどうしようもない。トラックに乗って拠点へと戻った。
上官からねぎらいの言葉をもらい、作戦前に着替えたテントに戻る。オーウェンは別の上官にも報告する必要があるとかで、途中で別れた。その途中、迷彩服姿の女性が立っているのを見かけた。一緒に作戦に参加していた隊員だろうか。顔を見た事があると思うのだが、思い出せなかった。
「すみません」
女から声をかけられ、私は足を止めた。
ふと振り向くと、叫びながら走ってくるイブとエマの姿が見えた。スマートグラスの中にあるルーターも壊れているようで、ヒアラブルデバイスにも声が届かなかった。
「あなたもそう思うでしょう」
「はい?」
女の方を向いて聞き返した。
「裏切って、はいさよならなんて、そんな都合のいい話があるはずないって」
女の口から、緑色の霧が噴き出された。もや越しに見えるのは、殺意のこもった二つの鋭い目。思い出した。この顔は、佐倉にいたミリアムと呼ばれていたアコールだ。私は直ちに袖で口を覆ったが、既に霧を吸い込んでいた。
追いついたエマが、ミリアムに向かって手を伸ばした。が、次の瞬間には弾き飛ばされて、地面の上を転がっていた。彼女のいた場所には、大きな銀色の拳が突き出されていた。
車両侵入防止のためのボラードを歯牙にもかけず飛び越えて現れたのは、ドミニクの扱うアガートラムの軍用モデルだった。拠点のあちこちからサイレンが鳴り響いた。ミリアムは軍用モデルの手の上に駆け上がり、腕を足蹴にして肩に腰かけた。
「今日は、あの旧式はいないの? 待っててあげるから連れてきなよ」
「駄目です。いなくていいんです。行きますよ」
ドミニクがエマに向かって話しかけるが、ミリアムがたしなめた。
鋭い金属音が鳴る。タタタと続く銃声。弾丸が軍用モデルの金属表面に弾かれている。駆け付けた自衛隊員が、構えた小銃を撃っていた。
軍用モデルは肩のミリアムをかばうように手を掲げ、四つの脚を巧みに動かして跳んだ。再びボラードを飛び越えて逃げ出した。
――地面が不自然に大きくうねる。二人の逃亡を阻もうとしているのか、バーチャルコンソールを表示しているイブの横顔が歪む。
足の裏の感覚が無くなり、立っているのか分からなくなる。バランスを取ろうとするが、ドスンと音を立てて横たわってしまった。自分の体では無いような不思議な感じがする。イブの悲鳴を聞きながら、視界はブラックアウトした。
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