3.13 ここからが本番です

 男――逃走犯は警察の追跡を振り切り、石油公社新社屋ビルの屋上にたどり着いた。夕方に対峙した冴えない魔導士も、途中から追ってきた銀髪の少女も、そこにはいない。予定通り逃げおおせたことに安堵したのか、笑みを浮かべている。

 あたりを見回しても、ここより高い建物はない。荒事において、どこに陣取るかは非常に重要だ。高所にいれば狙撃される可能性はぐんと下がるし、ヘリ以外に警戒するべきものはない。

 とはいえ、旧市街をさんざん逃げ回り、新市街を駆け抜け、王都も最高層のビルで垂直登攀とはんを決行したのである。夕刻とくらべると、彼の顔には相応の疲労が浮かんでいた。

 ため息をついた男の耳が、非常階段を駆け上がる何者かの足音を捉えた。警察が登ってくるにはいくらなんでも早すぎるし、あの足の速い少女がここまで追ってくるにしても、本来はまだ猶予があるはずだ。

 ずいぶんしつこい連中だ、と舌打ちする。とはいえ、悪態をついたところで、何者かがここに近づいている状況は変わらない。


「しゃあねぇなぁ……!」


 逃走犯は残忍な笑みを浮かべると懐から拳銃を抜き、唯一の出入り口に狙いを定める。

 近づく足音に高まる緊張。逃走犯の鼓動は自然と早まり、拳銃を握る手にも力が入る。


「やっ!」


 短い気合の声とともに、銀髪の少女――ローズマリーが扉を蹴破って転がり込んできた。

 直後、彼女の視界に飛び込んできたのは先程までずっと追い続けてきた逃走犯、そして彼女に向けられた銃口。

 思わず表情を強張らせた少女に向け、男はためらうことなく引き金を引く。


 だが、その弾丸は少女まで届かない。


 少女の足元にいる黒猫クロが鋭く鳴いた刹那、銃弾は黒い魔力塊に遮られ、床に転がる。


「あ……ありがとう、クロちゃん」


 油断するなよ、と言いたげに振り向いた黒猫を見て、自分の行動がいかにうかつだったか思い知ったローズマリーの額に、汗が流れる。

 男は幾度も引き金を引くのだが、弾丸は少女まで届かず、足元に転がる空薬莢の数が増えるばかりだ。


「ずいぶん風変わりな使い魔を飼ってやがんな。こいつは計算外だ」


 飼われてるんじゃない、自分がこの娘の面倒を見ているんだ、とでも思っているのだろう。クロは不満げに唸り声を上げる。


「それにしても、やけに早く登ってきたじゃねぇか。その様子だと、エレベータ・シャフトを使ったな? 綺麗なお顔が台無しだぜ?」

「あなたには関係ありません」


 クールに答える少女だが、その銀髪と可愛らしい顔が油で汚れているのみれば推測は容易だ。先程までつけていたエプロンドレスは、命綱代わりの手錠と一緒に昇降路の中に置いてきた。メイドらしい装いは、いまや埃で薄汚れたホワイトブリムだけである。


「ずいぶん自信たっぷりのご様子ですが、ここから逃げる秘策でもご用意しておられるのですか?」

「お嬢ちゃん、あんたはずいぶん速く動けるし、高く飛べるみたいだけど、見たところ上下方向の動きにはそれほど慣れてないみたいだねぇ」


 ローズマリーは何も答えない。

 相手がべらべら喋るというなら、好きにさせておく。魔法の特性を分析できる失言が零れれば、なおよし。そこから反撃のきっかけを掴むだけだ。


「正直、旧市街で追っかけっこしたままだったら、俺が捕まってそれまでだっただろうな。だが、高いところに一旦登っちまえば、話は別だ。そこに何がしかの足がかりがなきゃ【加速】を生かせないあんたとはちがうのさ。

 そこに壁がある限り、俺はどこまでも行ける。その気になりゃ、無傷でここから降りることだってできる。前後左右の動きじゃあんたに敵わなくっても、上下方向まで活かせば、いくらでも逃げてみせるさ」


 逃走犯は疲れてこそいるが、どうもハッタリをかましているわけでもなさそうだ。


 ――屋上ここから下りられたら、私にはもう追えない。


 少女にとってはここからが正念場だ。

 自分の魔法でどうやって逃走犯をここに釘付けにしておくか。心身ともに疲弊しているが、それは相手も同じことと言い聞かせ、ローズマリーは次に打つべき手を必死に考える。

 少女が小さく指を鳴らしたのを合図に、クロが左肩に飛び乗った。猫の手を借りなければ、シドやアンディが来るまではおそらく持たない。肩に乗る重みとぬくもりが、彼女に安心と落ち着きをもたらす。


「じゃあな、お嬢ちゃん。もう二度と会うこともない――」


 言い終わる前に後ろに駆け出した逃走犯だが、二歩も進まないうちに足を止めた。


「またお会いしましたね」


 彼の眼前にいるのはローズマリー。先程まで非常階段の入口にいたはずの、メイド服の少女だ。

 一瞬で背後を取られ、先程まで余裕の笑みを浮かべていたはずの逃走犯は、驚きと困惑と焦り、そんなものがないまぜになった表情を浮かべている。


「お嬢ちゃん、手ぇ抜いてやがったのか……!」


 ローズマリーは何も答えない。そんなことを教える義理立てなんてない。

 一見いつもどおりの涼し気な表情だが、見るものが見ればかなり無理をしているのがわかるだろう。彼女も目一杯の綱渡りをしてきたのだ。ここで逃走を許してしまえば、もう追うチャンスはなくなる。


「鬼ごっこはまだ終わりではありませんよ、むしろここからが本番です」


 もう一段階、ギアを上げる――。


 逃走犯の一挙一動を見逃すまいと、残りの気力を振り絞って集中し、どこへでも駆け出せるように姿勢を落とすローズマリー。本来それほど得意でない持久戦に持ち込むと腹に決めた彼女の眼差しの温度が、さらに下がる。


「引き続き、鬼は私」


 ここから降ろさなければ、シドとアンディが来る。そうすればきっと勝機はあるはず。

 その一念だけが、彼女の細身の体を支えていた。

 肩の上のクロを軽く撫でると、ローズマリーは不敵な笑みを浮かべて宣言する。


「私が音を上げて、あなたがまんまと逃げおおせるのが先か。あなたが逃走を諦めて縛につくのが先か。勝負です……!」

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