2-10.外科女医 笹山ゆみ Emergency Doctor救命医

 消えかかっている命、その命を繋ぐ……だが私達医者は神ではない。

 どんなに、どんなに懸命に患者に、その手技に向き合っても限界はある。外科医は……医者も人である。だからこそ「医者である事は一人の人であれ」人であるからこそその技術を向上できるのだと……

 外科医はその手の動きだけが命だ

 彼奴が言う手技の上達は、うまくなることではなかった。

 まして器用になる事でもない。

 どんな時でも、その手を止める事を止めないその精神力と想いを持つことにあった。


「その手を今、止める事は……許されない」


 3階からの転落……事故ではない。この子は自らその命を絶とうとしたのだ。

 右手首はカッターで切られていた。

「出血がひどい」

「血圧80……」

「上原、まずはその右手首の血管を縫合。出血を止めろ」

「はい……」緊迫した状態で緊張感と言う感情よりも、先立つ助けなければ、その思いが怒号を呼び起こす。

 患者の躰がびくっと痙攣をおこす。

「まずいショックだ。DC準備」その瞬間心電図モニターはまたあのかん高い音を鳴り響かせる。

 その時頭の中で彼奴の声がした。

「なにあせってんだ、お前らしくねぇな」私の向かいに彼奴が立っている。

「心嚢に血液が溜まっている。この状態はそうだろ、いつも言っていただろ、一点だけに捕らわれるなって……」

 ハっとなりモニターを見る。波形は……すかさず注射針を心嚢壁に差し込む。

 血液が針先から飛び出していく。

「心拍戻ります」その声にもう次の段階に私の手は動く。

 大同脈乖離だいどうみゃくかいりそれにより心嚢に血液が流れ込んでいる。

「開くぞ!」

 メス、彼女の胸にメスが入るこむ。

「そうだ……手を止めるな! 次に行う事はその次は……オペは詰将棋だ。その先手を描き手を動かせ」

「ガーゼ、もっとだ……」開いたとたん血があふれ出る。

「どこだ! 出血しているのは……」まさぐる指先にその目、ガーゼで血液を抑え込む。

「輸血量をもっと増やして」

 助けるんだ……助けなければいけない。たとえ自らその命を消そうとしたにせよ。この子は生きなければいけない。いや生きる権利を放棄してはいけない。

「あった、ここだ。鑷子、サンゼロ」損傷した大動脈を縫い合わせる。針を入れ、鑷子で糸を引く

「は、速い……」その手技を上原が目にしながら思わず漏らす。

「そうそう、手は止めるな! 縫いは正確に規則正しく縛れ!」

 今日はずっと彼奴の声が遠くで聞こえる。

「お前なら救える……絶対に! 救え、この命を……」

「そうだな私ならこの命救える。いいえ、救わないといけないんだ」

 今日、大友霞さんが選択したDNRオーダー、そしてBSCオーダー、正直私は平静を保っていたが、心の奥底に何かが刺さったような感じを受けた。

 本当はまだずっと、ずっと生きて行きたい。その思いがないのではない。大友さんは生きたいんだ。まだ……ずっと、いつまでも。

 でもそれを許してはくれない事を彼女は、自ら理解し悟ったのだ。そう自分の死と言うものを受け入れた。

 私達に出来る事には限りがある。私は彼女のオペを途中で止めた。

 それは……判断と言う言葉だあれば正当化されるだろう。

 しかし、出来る事ならすべてを、終わらせたかった。「もうい一度は……ない」

 その言葉の想いに。

「人工心肺の準備をしてください」

「え、ここでですか?」

「PCPS《経皮的心肺補助》オンビートで心部 乖離かいり修復を行う」

「ゆみ、今私もそっちに入るわ」優華が隣の処置台から声をかける。

「分かった。そっちはもういいの?」

「ええ、あとは頭部CT出の判断だから」

 急速に室内の動きが速くなる。それに伴い緊迫感も増す。

 でも私は次第におちつきが戻ってくる。いつもの様に、そして何も変わりのないいつものオペをする感覚。

 気持ちが穏やかになるこの感覚。不謹慎かもしれないが、彼奴に抱かれているようなそんな安らぎさえも感じていた。

 この救命の施設はオペ室と何ら変わりはない。緊急のオペに伴う為に必要な機器は全て取り揃っている。しかし、救命は一時的に命を繋ぎとめるのが役目だ。

 今はその命を繋ぎとめるため、全て出来る事をここで行う。

 麻酔科の医師による麻酔も患者に投入された。全ての準備が整う。

 無言のまま手は動く。

 心嚢を切り乖離部を目視する「血圧低下」それは承知の上、だからこそPCPSを使った。

「良かった思ったよりもダメージは低そうだ」

「そうね。ガーゼもっと……吸引急いで」優華の手が患部を修復しやすい位置に持ってくる。

 患者、彼女の心臓は動いている……その動いている心臓に針を通す。そして糸を通し縛る。その繰り返しを行い損傷部の修復を行う。

「縫いは迷うな。そして柔らかくきつく掬びこめ……資質が変わったらそれに準じた強さを保て。その手の感覚をいつも確かめろ」

 彼奴が私の横でいつも言っていた。あの頃、私の手を取り彼のその手の温もりを感じながら二人でやって来た練習を今も思い起こす。


「自分の手技におごるなかれ」

「俺たちには終わりと言う言葉はない」


 その通りだ……今があるのは日々があるからだ。その日々を大切にしなければいけない。腕を磨く、いや心を磨くことがその明日に繋がるんだと……


「クーパー」パチンと最後の縫い目を閉じ縫いし糸を切る。

「PCPS遮断……」

「バイタル安定、血圧戻ります」

 規則正しくこの子の心臓は動いている。生きている……その鼓動がこの子の生きる証だ。

 閉胸しすべてが終わった。この子の命は繋ぎ留められた。

 ふと顔を上げると半開きのドアの向こうにあの背中が見えた。

 田辺光一外科部長のあの背中が……その時見た部長の背中は彼奴の背中と同じに見えた。

 吉岡夏美よしおかなつみ17歳。彼女はICUへと移された。

 救える命を……たとえ彼女が経とうとしたにせよ。消せる命など人もないんだから……

 優華が受け持った患者は脳梗塞だった。CTの検査結果オペの適応範囲を超えていた。

 ここに搬送されてくる患者の生存率は決して高いものではない。高度救命センターの宿命とでも言うのだろうか? 搬送される患者の多くが重傷者及び心停止などの重篤な患者が多いからだ。搬送された時にはすでに手の施しようがない状態なる場合が多い。それでも私達は懸命にその命を何とか繋ぎ留めようと一身に向き合う。それが今の私の職場であり現場なのだから……


 しかし何故、今日はあんなにも彼奴が私に語り掛けて来たんだろう。

 処置をしている間ずっと何かを感じていた。もしかしてあの背中、田辺部長がずっと見ていたのか? 

「どうですか3年目の居心地は? いや何ね、僕もその3年目が大きな節目だったんでね」

 あの時声をかけられた時の言葉がよみがえる。

 彼は私に何を言いたかったんだろうか?

 まさか。私が田辺部長を気にしている……そ、そんな事は間違ってもない。

 彼は妻子持ちだ。しかもその妻はあの脳外の田辺理都子たなべりつこ先生だ。アメリカの医療を学びこの病院の脳外のスペシャリストだ。私など足音にも及ばないような人だ。

 そうだ……多分私は田辺光一に気があるのではない。その背中に、彼の背に背負うあの背中に懐かしさを求めていたんだろう。


 梛木杜朗なぎとあきら私が愛した人。そして私が追い求める背中を持つ男

 朗が突然私の前から姿を消してもう5年の月日が流れていた。

 彼奴は一通の手紙を部屋に残して忽然といなくなった。


「ゆみ、さよならだ。外科医としての腕を日々磨け、そしてその自分の手技に溺れるな。また会える日が来ることを願って」


 彼奴が残して行ったのは、たったこれだけの短い言葉だった。

 でもそれも彼奴らしい。

 彼奴が姿を消した後その消息を追った。しかし、彼奴の実家の病院は親父さんが亡くなったことで閉院していた。彼奴の家族はその父親だけが唯一の家族だった。昔のバスケ仲間にも聞き歩いたが、朗の消息は途絶えたままだった。


 いつものガラス張りのラウンジでコーヒーを飲みながら、澄みきった空を眺め。


「馬鹿、朗……お前は今どこに居るんだ」と心の中で叫んでやった。

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