2-11.外科女医 笹山ゆみ Emergency Doctor救命医

 医師になって10年以上になるこの時期、道に迷う事も出てくる。


 本当に私はこの外科医と言う仕事に向いているのだろうか? 歳も、もう30を過ぎた。普通なら想う旦那がいて、その傍に我が子がいても不思議ではない歳。たまにそんな生活にあこがれる時がある。


 もし、あきらが私の傍にいてくれたのなら、私は彼と結婚をして彼の子をこの世に授かっていたのだろうか?

 女としての幸せ……。それを犠牲にするだけの価値がある仕事であるのであろうか? そんな迷いとも似た想いが私を包み込む。


 救命に関わらず、医師と言う仕事は過酷だ。


 女性だから、出来ない。女性だから仕事の労を増やせない。そんな甘い事は思ってもいない。まして性別など関係なく、その責任は重くこの手にのしかかる。

 それに外科医はその領域からまた一つ逸脱したような世界観がある。


 今日も救命には患者が搬送されてくる。この高度救命センターは、救急患者にとって救いの場だ。緊急搬送されてくる患者の大半は重度外傷や、緊急性を要する症状の患者ばかりだ。まして受け入れ先をたらい回しされて最後の砦として搬送されてくる患者も実際少なくはない。


 救急車で一時間もの間搬送され、ようやくこの救命センターに到着した時にはもう手遅れの状態である場合も……正直、処置さえ早く施せれば救える命も閉ざされてしまう。

 そんな時、告知を行うときに受ける患者の親族からのその悲しみ、いや、怒りの矛先は担当し受け入れた医師に向けれらる。

 私も何度もその経験をした。

 高度救命センターは、通常の救命センターとは内容もその施設の設備も、そしてその責務も大きく違ってくる。



 一本のホットライン。エマージェンシーコールが鳴り響く時、私の心臓はその音に反応するかの様に鼓動を高ね、搬送されてくる患者に向き合う。


 高らかに室内に鳴り響くエマージェンシーコール。

 その一本のコールがこの場を戦場へと化すのだ。


「はい、城環越救命センターです」

「西部救急山岡と申します」

 西部救急? その名を訊いた時一瞬何故? と言う疑問が私の中で沸き上がった。

 西部救急はこの城環越救命センターからおよそ30キロ圏外の救急隊だ。その救急隊員からの連絡を受ける事は珍しい。


「西部救急? どうなされました」


 西部救急隊員の山岡は想い詰まる様な声で、返す……



「22歳女性、挙式中腹痛と共に倒れ、現在意識レベル低下。我々が到着した時はまだ意識がありましたが現在JCS30-R(意識レベル表示。刺激と呼び掛けにかろうじて反応する状態且つ不穏である状態)に低下。心拍80に低下、血圧96の80……現在受け入れ先5件不可との事。親族より患者には以前より心臓に疾患がある模様。そちらへの受け入れを要請いたします」



 心臓に疾患? そして腹痛。JCS30と、つたえられたバイタルからすれば危険な状態である事は明らかだ。近くの救急指定病院ではこの心臓疾患がある事で手を引いたのか? 受け入れを拒否されている。


 高度救命指定センターはこの城環越医科病院と北部医科総合病院の二つがあるが、まだここ、城環越の方が北部よりはるかに近い事は確かだ。


 だが、状態は一刻を争う。救急車で現地から搬送するにしてどんなに早くても40分は掛かるだろう。そんな時間の余裕はないようだ。


 今現在、この救命センターにも救急患者が搬送されている。処置台には重症患者2名の処置が行われている。ましてもう一本先にコールが届いている。その患者の受け入れをも承諾している状態だ。まもなくその患者も搬送されてくる。


 救命のスタッフ全員がフル稼働の状態だ。現在常勤している救命医は5人。現場はすでに戦場と化していた。ER部長、笹西直人ささにしなおとも今患者の処置に追われている状態。


 救急隊員とのやり取りの音声は室内に流れ、すべてのスタッフがその状況を聞いている。処置を施しながら笹西部長が口を開いた。


「笹山、その状態で40分かけてここへ搬送しても助かる見込みは低いだろう。受け入れる事は可能だろうが、搬送にあまりにも時間がかかりすぎる。残念だが……」


 その笹西部長の言葉に諦めきれない想いを感じたが、現実は部長の言う通りだ。例え、受け入れを今ここで承諾しても……到着した時には死亡確認をする状態である事も予想されることは確かな事だ。それならばまだ、近くの病院にあたった方が助かる見込みはあるのかもしれない。自分のこの耐えがたい想いを押し殺し、救急隊員に口を開こうとした時。



 受話器から突如聞こえる男性の声。救急隊員とは違う声。



「おい、聞いているか? 患者は妊娠およそ8周目あたりだろう。胎児胎盤剥離の可能性があり。それとおそらく僧帽弁膜症そうぼうべんまくしょうの疑いがある。左心室の肥大化、急性心膜炎を併発している。さっき溜まった心嚢液しんのうえきをドレナージしておいたからバイタルは安定した。そっちの状況はさっき連絡をして把握している。まずはオペ室を確保しておいてくれ。この患者は俺が助ける」



 そう言って通話は一方的に切れた。


 あっけにとられていると、後ろから私に話しかける穏やかな声


「その患者さんは本当に運の良い方の様ですね。オペ室の確保は私が依頼しておきました」


 ふと振り向き、その声の主の姿を見ると。そこにはあの田辺外科総合部長の姿が私の目に飛び込んできた。



「さて私も今日は仲間に加えていただきましょうか。なにせ、今日はすべてのオペ室がフル稼働ですからね」


 白衣を脱ぎ術衣をまといメスを握るその姿。私はその姿を今日初めて見たような気がする。彼のその表情が一変するその変貌の姿を。


 その目の奥は患者に向かう想いと共に彼自身の魂が、その姿を阿修羅のごとく変えていった。まるでとても懐かしいその姿を目にしているような感覚に陥る。


 そう、彼奴。梛木杜朗なぎとあきらのその姿によく似ていたのだから。


 だが、さっきの電話のあの声の主は誰だろう? 「この患者は俺が助ける」なんか物凄く懐かしいトーンの声だったような気がするのは、いま田辺部長と話をしたからだろうか? 田辺部長のあの背中、最近ずっと気にかけていた。朗のあの背中に似ている。背負うものの重さを感じる背中。


 私が追い求めている背中とは違う背中ではあるが、その重みは私に何かをいつも語り掛けている。

 そう、朗がいつも私に投げ変えている時の様に……



「笹山先生、宜しいですか? こちらの患者さんのサポートについていただけると助かるんですが」


 少しの間、ボーとしている私に声をかけ、戦場へと戻すその田辺部長の姿を目にして、やっと我に返った。今私はこんな事を考えている時ではない事を。


 目の前には助けなければいけない命がある事を。

 田辺部長とこうして術式を行うのは初めての事だ。彼の手さばきはまるで無駄がない。そう朗の手さばきにも似ている。本当にこの人と朗は似ている。


 医療に向かう姿勢もそして患者の命に向かうその想いも。同じように感じる。

 それは、私が追い求めているその姿であるのかもしれない。実際私の姿はどう見えているのかは分からないが、患者に向かうその想いはあの二人には負けないつもりだ。


「笹山先生さすがですね。その若さでその手技をお持ちとは。今やこの救命の生命線は笹山先生と奥村先生のお二人にかかっていると言われていますがその通りですね」


 表情は一つ変えることなく私に語り掛ける田辺部長。その動き、そしてその目の厳しさに私さえ身震いするほどの威圧感を感じる。



「血管の剥離と縫合はおまかせいたします。私はこちらの損傷部の修復に全力をつぎ込みますので……」


 クーパー、パチンと糸切り即座に次に取り掛かる。もうすでにこの処置台はオペ室同様の術式が行われている。

 速い、そして適格な手の動きと緻密にしかも規則正しく編み込まれていく糸のその様子は見事なものだ。


「さて、こちらの患者さんはこれで何とか落ち着くでしょう」その言葉通り、バイタルもすべてが正常値を示す様になった。


「検査を行う時間はこれで稼げるでしょう。CT室へ。後は第3オペ室で待機している彼らに任せましょう」


 患者はストレッチャーに移され、CT室で検査後最終的な修復オペを行う。

 時計を見て田辺部長がグローブを外しながら

「もう、そろそろですね。西部からの救急車が到着するのは。笹山先生受け入れよろしくお願いいたします。私はこれで失礼すると致します。後は君達に任せますよ」


 白衣に着替え、またあの背中を私に向け田辺部長は救命からその背中を後にした。



 救急受け入れ口に向かうと、かん高いサイレンを鳴らした救急車がこの搬入口を目指して走ってくるのが見えた。


 そして、その救急車のハッチを空けた途端、私の目に映ったその人は……

 救急車の中で懸命に心マを繰り返していた。


「VFだ。およそ3分前だ。心不全を併発した。すぐにオペ室に」その男は振り向きもせず患者に向き合い戦っていた。


 黒く日焼けした肌に、少し細身の躰。そしてストレッチャーと共に車内から出て来たその人の姿を見た時。


 ドキン、と。私の鼓動は一つ音をたてた。

 ウエディングドレスを着た患者と共にやって来たその彼奴の姿に。







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