2-7.外科女医 笹山ゆみ Emergency Doctor 救命医

「ン――と、今日の外来はこれで最後かな?」

「はい、お疲れ様でした。笹山先生」

「それじゃ、戻りますか」

その時そぉ―と診察室の戸が開いた。

ふと見るとカーテンの隙間から小さな女の子がひょこっと顔をのぞかせていた。

「どうした沙月さつきちゃん」

彼女の名は大森沙月おおもりさつき10歳小学4年生の女の子。

「ゆみ先生、手術してくれるの?」

不安げな顔をしながら私に訊く。

「おいで、沙月ちゃん」

その言葉にちょこんと私の椅子の前に座る。

「沙月ちゃん、手術の前に少し入院して沙月ちゃんの体少し検査しないといけないの、手術はそれから。まだ先の話だよ」

彼女は生まれながらに心臓に疾患がある。

『心房中隔欠損症』、心臓には4つの部屋がある。右心房、右心室。左心房、左心室。

その4つの部屋の中で右心房と左心房の壁に穴がいていて、肺に血液を送り出す右心房に負担がかかる状態にある。しかも右心房と右心室の弁である三尖弁の形状が変形している恐れもある。『エプスタイン奇形』と言う心臓疾患とも言われる。

彼女の病気が分かり通院し始めてもう2年になる。日常激しい運動や心臓に負担のかかる事をしなければ現在は、制約はあるが普通の生活ができる。だが、ここ半年の間、症状はあまり芳しくない。

心音の雑音は以前より大きくなり、息切れや動機などが以前より頻発に発生している。

今日は母親に沙月ちゃんの心臓の検査入院を勧めた。

いずれは手術も視野に入れた検査入院。

それを訊いた沙月ちゃんが不安になり私の所へもう一度やって来たのだ。

「まぁ今回は10日くらいだからな。ちょっとの間友達とも遊べないけど我慢して」

「……沙月友達なんかいないもん。だってみんな運動したりかけっこしたり出来るけど、沙月は出来ないからいつも仲間外れなんだもん」

「そうか……」

「ゆみ先生、もし手術したら私もみんなと同じようにかけっこしたり出来るようになれるの?」

「そうだな……それはこれから検査してみないと分からないけど、可能性はあると思うよ」

うつむいていた彼女の顔が上がり少し明るくなった。

「みんなとかけっこしたいよな」

「うん……」

「先生も頑張るから、沙月ちゃんも頑張ろうな!」

「うん、それじゃありがとう先生」

「じゃあな」

沙月ちゃんにとってはまだ不安はあるだろう。だが彼女も前向きに自分の病気に向き合おうとしている。

「ゆみ先生、お時間大丈夫ですか?」

看護師が時計を見ながら私に言う。

そうか、今日は月例の教授回診の日だった。大学病院は何かとこういう面倒くさい習わしが今も残っている。まぁ、体質的に仕方がないのかもしれない。ここは病院と言う皮をかぶった権力争奪の場であるのだから。

一件見方を変えると大手企業にサラリーマン? いやよく言えば企業戦士のような感じかもしれない。

上司いわば教授にどれだけ、気にかけてもらえるか……はたまたその教授、病院長としての地位を得るため医自分の名声をどこまで高める事が出来るのか。そんな事に時間と労力を費やすものが多いことは確かだ。

野心。と言う言葉を使えば、れっきとしたこれも戦場の中と言えるだろう。

だが私にはそんな野心などかけら一つもない。

同期の医師には、論文のインパクトファクターがどうのこうのと言う奴や、先輩の論文の代筆をさせられたり、日常の業務のほかに自ら仕事を増やす。それが普通であるかの様に行われている世界。

まぁ、どこの施設に行ってもこんなことはよくある光景だ。

だが、大学病院と言うものはその色合いが濃い……いや濃すぎる。

診察や、治療、オペなどは、その症例をまとめる論文の参考資料にしか感じていないという、そんな医療の体制を私はけぎらう。

そう、それはこの私だけではない。彼奴、私が追い求めていた背中の持ち主。

梛木戸朗なぎとあきらが最も嫌う集団だった。

彼奴は、この大学病院のこの体制に嫌気をさしていた。

「俺らの仕事は一人でも多くの命を繋ぐこと。論文を書いてそれを世に残そうとすることが仕事じゃない」

いつしか彼奴は医局の中から孤立するようになった。

その頃からだろう……彼奴は自分を籠の中に閉じ込めてしまったのは。

外科医としての腕は確かなものだ。普通の外科医など足もとにも及ばないほど彼奴の手技は高い技術を持っていた。

どんなに難しいオペも、そしていかなる不測の事態に対しても適切に対応しそれを乗り越えて来た。

まるで何かの医療ドラマを見ているかのように、さっそうと現れ、素早く難関を乗り越え命を繋いだ。

彼奴の手技で文句や陰口を言う。いや言える立場の外科医はあの病院には誰もいなかっただろう。それが彼奴を籠の中に押し込める結果になった。

それでも彼奴を認める人もいた事は確かだ。

第2外科教授、時田芳樹ときたよしき。元彼奴の指導医だった彼は、朗の良き理解者でもあった。

「梛木戸、組織の中にいると言う事は、思いのほか自由は効かない。それどころかその自由を押し通せば弾かれるのは必須だ。お前はこの組織の中では生きて行けない存在なんだな」

一匹狼……それでも彼奴は良かったんだと思う。いや彼奴はあえてあの大学病院と言う組織の中でそれを望もうとした。

しかし、それは疎外感と言う生易しいものではなかった。

利口な奴は難易度の高いオペを朗に振り、自分は簡単な症例をあたかも壮絶に術したかのように言いふらし、朗を罵倒した。

彼奴はそんなもの気にもしてはいなかった。ただ……あいつが一番辛かったのは救えるはずの命が、その医師の未熟さゆえに救えなかった事実に変わった時だ。

「何でだ! なんであの患者がオペ中に死亡しな変えればいけなかったんだ!」

そんな時、彼奴の背中は本当に悲しみと悔しさが滲み出ていた。


大学病院……そこは大きな籠の中にいるようなものだ。

月一の教授回診。毎月教授が患者の監査を行う。いわば我々医師が仕事しているのかどうかをチェックする日の様なものだ。

私から言わせれば難の意味もないように思えるが、各医局の担当が教授を筆頭に病室を巡回する。

たまに指摘もあるが、よっぽどの事が無い限り教授はあまり口を開かない。まぁそれがこの教授のいい所でもあるんだが……

だが元、鬼の外科医と言われたこの教授の背中はどことなく彼奴に似ている。

そして田辺外科総括部長の背中もそれに似ている。

私はこの二人が並ぶ背中を眺めるのが好きだ。どことなく同じ重圧感を感じる背中。彼奴の背中とは違う感じが私を惹き込ませる

まんざらこの教授回診も捨てたもんじゃない。


「笹山先生」ふと田辺総括部長が私を呼び止めた。

その顔は優しく、落ち着いた。何だろう……何か背負っているものを乗り越えた感じがする顔。彼の背中とは全く正反対のその表情に少しあっけにとられてしまうほどだ。

「なんでしょう。田辺部長」

「いや、何ね。3年目の大学病院の居心地はどうかと思いましてね」

「何故そんな事を?」

「深い意味はないんですよ。ここにきて僕も3年目が大きな節目の時期だったものでしたからね」

田辺光一、当時彼はこの病院では有名人? だったかどうかは定かではないが、同じ外科医だった彼女を事故で亡くし、失意のどん底から這い上がるように外科医としての道を究めた人物。そしてその陰には現、病院長である常見晃三郎じょうみこうざぶろうの姿があった事は有名な話だ。

だが、決して常見病院長が田辺部長に対し、特別な事をして今のポストについていると言う事ではない。

田辺光一、彼もまた人の命を繋ぐことにその全てをかけた人物であった。

彼の彼女の残した外科医としてのすべてを彼は受け止めそれを、繋げられる命に注ぎこんだのだ。

彼もまた彼奴と同じ道を歩んでいた人間であり外科医だった。


だが、彼奴は……私の前から忽然とその姿を消した。それも今思えば……あいつらしいことだったのかもしれない。


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