第十三話[翼があるのに]
高校を休学して入院することになって、いろんな人がお見舞いに来ました。友達、先生、親戚その他。志島先輩もその一人でした。苦しいほどに憧れてはいましたが、一方で手が届かないと諦めていた相手でもあります。先輩には彼女がいました。同じ部の、先輩にとっての同期でありとても美しい人です。そして賢い人です。先輩の彼女さんにも、同じくらい違うベクトルで敬意を抱いていました。なので、二人の関係に割って入ろうなどとは考えもしませんでした。とはいえ仲睦まじそうに寄り添っているところなど見ると、胸がひりひり痛んだものです。恋と呼ぶには幼い感情とも感じましたが、やはり想いはままならないものです。
先輩はひとりで私の病室を訪れました。快晴の昼下がりでした。洋菓子の小包を持って、居心地悪そうにベッドサイドに立ちます。生花を選ばなかったのは彼女さんの入れ知恵でしょうか。それとも、インターネットで検索して、規則で持ち込めないことを知ったのでしょうか。
「先輩。来てくださってありがとうございます」
「いや、ごめんね遅くなって。野崎さんは確か、クッキーが好きだったと思って。少ないけど」
「覚えていてくださったんですね」
人に対する記憶力がとても良くて、まめで誰にでも親切なところが本当に好きでした。いつも気遣ってくれたことも、部のなかで馴染めるように声をかけてくれたことも忘れません。たとえこれが恋心だったとしても始める前に叶わないことが知れてしまっているわけです。胸の中がカラカラと音をたてるようなむなしさがありました。
「あの、先輩」
うつむいて、にじんだ涙を見られないように呼びかけます。ん、と首をかしげた先輩にひとつ無茶なお願い。
「ハグしてくれませんか? なんか、元気出ると思うんです」
一瞬とまどったように見えた先輩は、すぐに私の背に腕を回しました。私よりも高い体温が、骨ばった肉体が触れ、離れていきました。
「ありがとう、ございます」
きっと、私の方が呆けた顔をしていたに違いありません。頭の中では今の感触を繰り返し再生しながら、終わっていく憧れを噛みしめていました。今、病気にならなかったらありえなかった出来事でした。ただ、そのために死んでもいいとは思えませんでした。先輩は日常に帰っていきます。私はゆっくりと死んでいくだけです。先輩は、最後まで「頑張れ」とも「早く良くなって」とも言いませんでした。なんとも先輩らしいことです。
想いを清算するには泣いた方が良いのでは、という打算があって、屋上に行くことにしました。ベッドで泣いたりすると、どんな噂が立つかわからないからです。娯楽として消費されるくらいなら、無関心の方が百万倍ありがたいのですが。
屋上はあまりに綺麗さっぱり晴れていて、映画か何かのようでした。給水塔や高くまで組まれたフェンスの網目が影となって、抽象画のような潔さでコンクリートを塗り分けていました。ひときわ大きな影の中で、手足を広げて仰向けに転がります。天はひたすらに透き通って高く、この世のものではないようでした。世界の蓋だけが取り外されて、神様の国が覗いているかのようでした。涙で洗い流すべく訪れたはずでしたが、瞳は乾いたままでした。風が頬の上を滑っていきました。気合を入れて梳かした髪も、今はざらついたコンクリートの上で広がっています。不思議と満たされた気分でした。あと何度、こんな空を見られるのでしょうか。
「何してんの」
思いのほか近くから声がかかりました。視線をずらせば、やせた少年が簡素な銀の車椅子をきらめかせて佇んでいました。いわゆる美形ではないけれど、危うい魅力のある顔立ちです。彫りの深い目鼻に濃く影が生まれています。
「さぁ? それより君は誰? そっちこそ何の用?」
「さぁね。俺はただの患者だし」
「ふぅん。じゃぁ名前見せてよ」
車椅子を音もなく進めて、彼の骨ばった手が無言で差し出されました。思いのほかしっかりとしたつくりで、指もとても長く一瞬だけ見惚れました。入院患者用のリストバンド、そのバーコードの横に名前が印字されています。辺見悠希、読みはヘンミユウキ。
「君は?」
促されて腕を差し出しました。
「ノザキ、ユリ。ユリちゃんて呼んでいい?」
「馴れ馴れしいね、君」
とはいえ嫌な感じはしなかったもので、にやっと笑っておきます。彼、辺見くんは男の割に細い肩をすくめました。と、勢いよく車椅子を操って、町を見下ろすフェンスぎわに。あまり手を入れていなさそうな短髪がふわりとなびきます。広い屋上を満たす光はあまりに眩しくて私は目を細めました。風に乗って歌声が、貧弱ともいえる身体に不釣り合いな切実で張りのある声が届きました。辺見くんは大きな声で歌っていました。知らない曲でした。発音は明瞭で、言葉はいくつも拾えました。恋の歌のようでした。それも、失恋の。タイムリー過ぎて吹き出してしまいそうです。あるいは涙してしまいそうなのかもしれません。私は転がったまま聴いていました。ずっと続けばいいと思いました。風も光も歌も、あまりに快くて。日がわずかに傾いて、声が止みました。また戻って来た辺見くんが、私に気づいてぎょっとした顔をしました。
「まだいたのか」
「悪い?」
出会って一時間も経っていないのに、なぜこんなにもざっくばらんに話せるのでしょう。波長なのかタイミングなのか。なんにしても、私は辺見くんに興味を持ちました。面白そう、くらいの軽い気持ちで。
「ねぇ、ちょっとお喋りしない?」
「ここで?」
「部屋に上がり込んでいいなら行くけど」
「ずうずうしい」
「ダメならいいって」
「特に駄目とも言ってない」
そういうわけで、私は辺見くんの部屋を知ることとなりました。四人ぶんのベッドが並んだ病室の、廊下側のひとつが彼のスペースでした。カーテンで区切られていて陽の光はあまり届きません。こんな天気がいいなら屋上に行った方がよほど清々しいでしょう。枕元のボードには写真やポスターがたくさん飾られています。どれもポップな色あいでちょっとアメリカンな感じです。雑然としているのに全体のバランスは整っていて、ひとつの作品のようでした。すごいセンス。眺めている間にも辺見くんはなめらかにベッドに乗り移っています。そして明るい屋上では気づかなかったもの目に入りました。光の粒。浮遊しては消えていきます。屋内とはいえ昼間からわかるほどの発光。自分の手に視線を落とせば、いたって普通の皮膚があるだけでした。それに安堵してしまうのが後ろめたくて、わざと弾んだ声を出しました。
「辺見くんはさ、いつも屋上で歌ってるの?」
「ん、まぁ」
「どっかに出したりしないの、動画とか」
「えぇ? 考えたこともないけど」
「売れそうなのに」
「今更?」
軽く歯を見せて聞き返されると、答えようがありません。私は今更なんてないと思う、のですが。
「屋上、好きなの?」
「部屋の中にいるとユーウツになるし」
「この病院、屋上たくさんあるよね」
「八、だっけ? 近くのしか行ったことないけど」
「もしよかったら屋上巡りでもしない? かわりに歌をきかせてよ」
「何その条件? でもいいよ。興味はあったし。どれくらい景色ちがうもんだろう」
約束を取り付けて別れました。天気予報では明日も晴れです。どうせ暇なのですから、いくらでも出かければいいのです。その日から、辺見くんと私はあちこちの屋上をめぐりました。廊下を走っては看護師さんに怒られたり、勝手に出歩くなと釘を刺されたり。咎められればそれだけ、なんだか楽しくなってしまって止まりませんでした。私だけが彼の歌を聴きました。あの歌はすべて辺見くんの作ったものだそうで、その部分も含めて私は彼の歌が好きでした。感情を揺り動かされるたび、もっと世界に広まればいいのにと思いました。けれど彼は取り合ってもくれませんでした。
ある日の屋上で、辺見くんは散りました。出会った時と同じように空は晴れ渡っていて、それなのに風で舞い上がる光の断片がよく見えました。きらめく金色の粒子。手を伸ばそうにも、どこを掴んで引き止めるのやらわかりません。ただ、私がずっと彼の背中に見ていた翼は一度も開かれることはありませんでした。どこまでも飛んで行けそうなエネルギーに満ちた歌声は永遠に失われました。空っぽの車椅子と、身につけていた衣服、味気ないバーコード付きのリストバンド、それから武骨なステンレスのタグ。残されたのはそれっきりです。目を離すことなんてしませんでした。網膜が焦げ付きそうな光を、最後までずっと見つめていました。
憧れでも親しみでもましてや恋なんかでもなくて、あれはどういう感情だったのでしょう。まっすぐに伸びていく道の行く末を探すような果てしなさ。無条件の信頼。好きといってしまえばそれまでなのに、もっと語りたくなるような。私は辺見くんに、光の当たるところへ行ってほしかったのです。太陽と風と私しかいないような屋上なんかではなく。
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