第31話

 最近、翠とよく話をする。尤も直接ではなくスマホでするのだが、わたしも翠も三件だけ通話が、かけ放題になるプランに入っているので、三件のうちのひとつにお互いの番号を登録をしている。

 翠は賢ちゃんこと馬富さんのことばかり話してる。よくそれだけ言う事があるかと思うほど話をする。その中身には一緒に暮らしてるので、夜の生活のことなども、あからさまに言うことがある。わたしは正直、親友でも自分と顕さんのことを、開け広げに言う勇気はない。来年、籍を入れたら、少しでも早く子供が欲しいのだそうだ。

 もし、結婚してすぐに妊娠したら、わたしが大学を卒業する頃にはお母さんになってるという訳だ。それを考えると、少し恐ろしいと感じた。翠のことでは無く、時間の移ろい易さに対してだ。

 高座では「外記猿」が鳴っている。小鮒さんの出囃子だ。高座の袖から小鮒さんがすーっと現れた。わたしは見慣れているはずなのに、その出が何時もより綺麗だと感じた。小鮒さんは出から意識してると思った。今日は、何か凄い高座が展開するのではないかと予感めいたものを感じる。

「え〜休憩の後の後半戦でございます。めくりには古琴亭小鮒と書かれております。どうか名前だけでも覚えて帰って戴きとう存じます。何時の世も変わらないのは親子関係ですねえ。出来の悪い子は心配になる。かと言って出来が良すぎると、これまた心配になると言うものでして、年中親は心配してなくちゃならない。難しいものですね」

 簡単な挨拶から噺のマクラに入った。

「おう、おっ母、羽織出してくれ」

「どうすんだい」

「決まってるじゃねえか、今日は初天神なんで天神様にお参りに行くんだよ」

「あきれたねぇ。羽織を拵えたと思ったら、何処に行くにも羽織を着てさぁ。いやらしいったらありゃしない」

「なんでも良いから早く出せよ」

「天神様行くなら亀も一緒に連れて行っておくれよ」

「嫌だよ。あいつを連れて行くとうるせえから。今居ねえから言ったんじゃねえか」

 出だしの場面でも夫婦の関係を見事に表してる。

「お父っあん。羽織着て何処行くの?」

「ほらグズグズしてるから帰って来ちまったじゃねえか」

「亀、お父っあんに一緒に天神様に連れて行って貰いな」

「駄目だよ。駄目! 連れて行かねえよ」

 子供が出て来て三人のシーンでもスムーズに進行している。この噺は基本親子の会話で物語が進行して行くのだが、最初のこの親子三人の場面が、ちゃんと演じられていないと、この後のシーンが上手く行かなくなるのだ。それは父親の背後には、母親の存在があると言う事をお客に感づかせる必要があるからだ。健全な日本の家庭では扇の要は母親が存在しているものだからだ。と小鮒さんは稽古をしながら、わたしに言った。

 高座では天神様に行くシーンに変わっている。この場面で川に亀がいる描写があれば、親子が行く先は亀戸天神という事になっている。出て来なければ、湯島や他の天神様ということらしい。小鮒さんは亀戸天神だった。

「ねえ、お父つぁん、今日はおいらあれ買ってくれーこれ買ってくれーってお強請りしないでしょ」

「ああ、いい子だよ」

「ねっ。いい子でしょ。だからご褒美に何か買っておくれよ!」

 子供の強請りのシーンになった。

「飴買って! 飴」

「駄目だ!」

「ねえ、買っておくれよ」

「駄目だよ。今日は何も買わないって約束だろう」

「だから、只買ってくれって言ってるじゃ無いんだよ。いい子だからご褒美に買ってくれってって言ってるんじゃない」

「駄目ったら駄目だ!」

「どうしても駄目?」

「ああ」

 父親が駄目出しをしたので亀は

「飴買ってくれ〜!」

 と大声を上げる。行き交う人が皆見るので父親は慌てて

「判った! 買ってやるから」

 とうとう根負けしてしまう。

 店先で売り物の飴を散々ねぶり回して吟味する親父に飴屋のオヤジもあきれ顔。

 このシーンをわざと大げさに演じる噺家も多い。寄席などではそれが本流みたくなってる。でも小鮒さんはここは抑え気味に演じて行く。

 飴を買って貰って御機嫌の亀は、飴を舐めながら歌を歌う。が父親に背を押されて落としてしまう。

「わ〜ん、飴落しちゃった!」

「しょうがねえな。何処に落としたんだ」

「お腹の中!」

「食っちまったんじゃねえか!」

 同じように今度は、団子屋の前で、団子を買ってくれとせがむ亀に、根負けして買って与えると

「蜜」が良いと言うので仕方なく蜜にすると、親父は蜜を皆舐めてから息子に渡す。

 このシーンも小鮒さんは綺麗な描写に努めた。

 嫌がる息子を見て親父は団子屋に蜜の壺を開けさせ、その中に団子を突っ込む。

 寄席などではここで切ることが殆どで、この先のシーンは殆ど演じられない。だが、わたしはこの先のシーンこそこの噺の眼目だと思っている。まあ、これは小鮒さんの受け売りだけどね。

 そして噺は後半に入り、お参りをした帰りの噺となる。

 二人は天満宮の参拝を終えた帰り道。亀は、今度は凧を買ってくれるよう催促する。

「あの一番大きいのがいい」

「馬鹿だな、ありゃあ店の看板だ。売らねえよな」

「売りますよ!売り物ですよ。坊ちゃん、買ってくんなきゃ、あすこの水溜りに飛び込んで着物汚しちまうってお言いなさい」

「凧屋! 変な入れ知恵すんじゃねえ!」

 仕方なく、しぶしぶ凧を出店で買い与え、天満宮の隣に有る空き地に息子を連れて行く。親父は帰りに一杯やろうと考えて、小銭を持って来ていたがそれも出来なくなってしまった。

 この辺りの描写も上手い。ブツブツ言いながらも実は親父は、凧を買ったことに満更でもなさそうな感じを、上手く出している。

 空き地に来ると、凧揚げに関しては、子供時代腕に覚えがあったと亀に自慢しつつ、親父はまず自分がと凧を揚げる。そのうちすっかり夢中になってしまう。

 このシーンでも親父の表情を上手く表していた。そして、凧を揚げさせてくれと脇から催促する亀に親父は

「うるせえっ!こんなもなァ、子供がするもんじゃねえんだい!」

 と一喝して凧を渡そうとしない。無邪気に遊ぶ父の姿を見て呆れた亀は

「こんな事なら親父なんか連れてくるんじゃなかった」

 サゲを言って頭を下げると一瞬遅れて割れるような拍手が降り注いた。わたしも夢中で拍手をする、いつの間にか頬を生暖かいものが流れていた。わたしは知ってる。この噺を作り上げる為に、顕さんがどれだけ稽古をしたのか。どれだけ悩んで、噺を作り変えて再構築したのか。わたしだけが知っている。

 トリの福太郎さんが高座に出る前に楽屋を訪れた。丁度、小鮒さんは着物を着替えている時だった。わたしの姿を見つけると、笑顔を見せてくれた。

「見ててくれたかい」

「うん。ちゃんと見届けたよ」

「そうか、ならいいんだ」

 小艶さんが近づいて来て

「顕ちゃん、凄かったな。やられたよ。あそこまでやるとは思わなかったよ」

 わたしは皆さんの邪魔になると悪いので、楽屋を出てロビーの自販機でお茶を買って、座って飲んでいた。噺の途中で会場に出入りするのは良くないとされている。落語会によっては噺の途中では出入り出来ない会もある。この会もそうだった。だから福太郎さんの出来は判らない。他の人の話では、難しい「親子茶屋」を良くあそこまでやった。と言われていた。

 本当は終演後に打ち上げみたいなものを考えていたそうだが、雪が酷くなって来て、JRなどは止まり始めていた。地下鉄も運行本数を減らしてるということだった。そんな訳で打ち上げは中止となった。

「仕方ないな。打ち上げで里菜を紹介しようと思ったけどな」

 顕さんはそう言って今日の出演者にわたしを紹介してくれた。トリの福太郎さんなどは翠と面識があるそうで

「翠ちゃんの親友なんだ!」

 そう言って驚いていた。わたしは他の四人に挨拶をして顕さんと一緒に楽屋を出て会場の表に出た。都心の広い幹線道路にも雪が降り積もっていて、道を走る車の数も減っていた。

「地下鉄動いているかな」

「未だ大丈夫だろう。これから夜になって気温が下がると判らないけどね」

 結局地下鉄で押上まで乗り換え乗り換えてたどり着いた。東武線は間引き運転になっていた。ひと駅なので歩こうと顕さんが言うので、わたしも賛成した。

 広い道路を選んで歩いて行く。普通なら二十分もあれば着くが倍掛かってしまった。でも何とか向島の家に着いた。今日はスノーブーツを履いて来たのが正解だった。

 おばあちゃんが笑顔で出迎えてくれた。おばあちゃんも、今日みたいな日に若者が泊まるのは安心なんだそうだ。確かに何かあれば一人では心配だ。

 夕ご飯を三人で食べながら、わたしは、今日の顕さんの出来を、おばあちゃんに夢中で話した。横で顕さんが苦笑いをしていた。

 その夜、わたしと顕さんは、一緒に毛布に包まりながら窓を開けて、雪の降る猫の額ほどの庭を眺めていた。

「綺麗……」

 雪あかりで薄明るい庭は幻想的で、シーンとなった世界には二人だけしか居ないような錯覚を覚えた。

「里菜……正直に言うけど俺、今日の出来で噺家としてやって行ける自信のようなものが身についたよ。里菜のおかげだよ」

「ううん。そんなことない。わたしは只、傍で見ていただけ。見守っていただけだもの」

「だから良かったんだよ」

 顕さんはそう言って後ろからわたしを包み込むように抱きしめてくれた。わたしはこの夜のことを一生忘れないだろう。

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