第24話

 十一月の二十三日、勤労感謝の日。この日が「馬富、小鮒二人会」の日だった。わたしは、朝から落ち着かない気持ちだった。二人会は夕方の五時半からだ。五時開場、五時半開演となっている。七百あった席は殆ど売れてしまったそうだ。やはりテレビで人気の馬富さんが本格的は落語を演じるので人気が高いのだそうだ。正直、そこが仕方ないとはいえ、わたしは少し悔しい。

 わたしとしては噺の上手さでは小鮒さんも負けて無いどころか、上手いとさえ思っている。毎日深夜まで稽古していたのだ。その努力をわたしは知っている。翠に言わせると馬富さんもそれはそれは稽古したそうだが……。

 朝ごはんを食べた後、バイクで顕さんの家に行く。気が落ち着かないのだ。家に行くと、顕さんこと小鮒さんは思ったより落ち着いていた。

「気が忙しないので来ちゃった。でも、思ったより落ち着いているのね」

 わたしの言葉に顕さんは笑いながら

「ああ、ここまで来てジタバタしても仕方ないしね。それに俺の相手は馬富じゃない」

「え?」

「俺の相手は今日見に来てくれるお客さんだよ。それを忘れちゃ駄目さ」

 顕さんは判っていた。わたしが馬富さんや翠のことばかり考えていたのに顕さんは噺の本質を考えていたのだ。わたしは自分が恥ずかしくなった。

「馬富の奴はアイツが頑張れば良い事で、俺が真に向かい合わなければならないのはお客さんだよ。噺家は、お客さんを楽しませることが重要なんだ」

 顕さんはそう言って自分の部屋で座布団を敷いてその上に座り、今日の演目をさらい始めた。

 よどみ無い口調で噺が語られて行く。何度も聴いたはずなのに、わたしは噺の中に入り込んでしまう。「鼠穴」を語り終えると顕さんは

「本当は今日の二つの噺はくっついているから駄目なんだけどね」

 そう言って少し笑った。

 わたしは言われて初めて気がついた。

「もしかして、くっついているって夢のこと?」

「そう。真逆な噺だけどね。片方は夢だと思っていたのが現実で、もう片方は真実だと思っていたのが夢だったというオチだけどね」

 そうか、でもわざわざ共通する噺を選んだのはワザとだと思った。

「ワザと選んだの?」

 わたしの言葉を聴いて顕さんは

「そう。ワザとなんだ。落語はストーリーで聴かせる芸じゃない。ストーリーも重要だけど本当に大事なのはそこでは無い。噺をする噺家の人間性なんだ」

「人間性……」

「ああ、噺には己の全てが反映される。誤魔化す事は出来ないんだ。だから俺は今日は己の了見をお客に見て貰うんだ」

 顕さんの言葉を聞いて私は安心した。わたしが何かを言う必要なんか無いと思った。


 会場自体は少し早くから借りてあるので早めに市民会館に向かった。会場に着いてみるともうお客さんが並んでいた。凄い人気だ

「凄いねテレビの力だね」

 わたしは並んでいるのは馬富さんのファンばかりだと思っていたら

「あ、小鮒さんだ!」

 数人の人がそんな声を挙げてくれた。小鮒さんのファンも居てくれた事がとても嬉しかった。

「頑張んないとね」

「ああ」

 顕さんこと小鮒さんはそのファンの人に軽く手を挙げて楽屋に入って行った。

 楽屋ではスタッフの人たちがそれぞれの作業をしてくれていた。顕さんは荷物を下ろし整理すると

「里菜、客席で俺の声を確認してくれないか。前にも使ってるけど、今日の音の感じを確かめておきたいんだ」

 そうわたしに言った。これは声を商売にする人なら良く確認する事だそうだ。

「判った。客席に行くね」

 わたしが会場に行くと、舞台の上に出て来た顕さんがマイク無しで声を出す。わたしは両手で大きく丸を描いて結果を知らせる。顕さんの声は後ろの方でも端の方でも良く聞こえた。声の確認が終わると馬富さんと翠が楽屋に入って来た。

「やっほう里菜。いよいよだね」

「里菜ちゃん。また綺麗になったんじゃない。翠もそう思わないか?」

「あら賢ちゃん。里菜は昔から可愛くて綺麗だったわよ。最初に気がついたのが小鮒さんだったのよ」

 全く楽屋入り早々何て事を言っているのだろう。そんな事を言い終わると、やはり馬富さんが舞台に、翠が客席に出て行った。その姿を見送った顕さんは

「奴も緊張してるんだな。あんな冗談を言ってさ。でも里菜が綺麗でか可愛いのは昔からだけどね」

 これまた冗談ともつかぬ事を言っている。

 そして時間となり開場された。並んでいたお客さんがドッと入場してくる。今日は、最初に馬富さんが「笠碁」をやり、次に小鮒さんが「芝浜」をやる。ここで仲入りとなり、休憩の後に馬富さんが「大工調べ」トリが小鮒さんの「鼠穴」となっている。今日の会は形式的には、小鮒さんのプロダクションが主催となってるので、馬富さんがゲストの形を取っているのだ。尤もこれは形式的で、この次に同じ会があれば主催は馬富さんのプロダクションが主催となるので逆になるのだ。

 三人の会は基本、前座も頼んでいないので、めくりから高座返しまでお互いが交代でやるのだが、今日は協会から前座を派遣して貰っている。馬富さんの一門の宝家団々さんだ。

 時間になったので太鼓が鳴って出囃子が流れる。今日の出囃子は録音だ。鳴り物が入る噺では無いから録音で済ませる事にしたそうだ。

 最初に前座の団々さんが出て短い噺の「味噌豆」という噺をする。これは定吉がお店の台所で煮ている味噌豆を少しくすねて食べようとするのだが、中々場所が見つからず。憚りで食べようと扉を開けると店の旦那が先に食べていて、定吉は思わず「旦那、お代わりをお持ちししました」とサゲる噺で、団々さんは無難にこなして高座を降りた。いよいよ馬富さんの「笠碁」だ。

 出囃子が鳴って馬富さんが出て行く。今日は薄緑色の着物に辛子色の羽織を着ていた。これは翠のお見立てだろうか。中々似合っていた。商家の旦那を意識したのだろう。

「笠碁」という噺は

 大店の旦那が二人。店は番頭に任せていますので暇。むしろ暇を持て余しているという贅沢な身分で、二人とも碁が好きですが腕前の方はヘタクソ。碁会所などに行ってもヘタクソ過ぎて勝負になりません。こういうのは、双方がほどほどに力量が合わないと面白くは無いのですね。要するに、勝ったり負けたりが良いと言う訳です。

 ある日も二人で囲碁を打っていますが、よせば良いのに待った無しで始めたからおかしくなりまして、終いには喧嘩にまでなってしまいました。

「こんな家二度と来るか!」

「おう、もう来るなよ!」

 そんな捨て台詞を残して帰ってしまいます。でも、秋の長雨が三日も続くと、退屈で退屈でやる事がありません。囲碁を打ちたくても相手がいないのでつまらないのです。お互いが、そんな思いを感じていて、片方が我慢出来なくなり相手の家に様子を見に行きます。

 相手の店の前を行ったり来たりしているので、さすがに相手も判ります。

「アイツ、さっさと入って来ればいいじゃねえか」

 この辺りの様子を馬富さんは目線の移動で上手く表している。セリフよりも仕草で笑わせる場面なのだと感じる。高座の袖から見ていると上手さを感じるけど、客席の後ろでこの仕草が判るのかが疑問だ。

 とうとう雨の降る中、我慢出来なくなり店の中に濡れたまま入って来て、囲碁を打ち始めますが碁盤に雨がポツリ。おかしいと思って見上げると

「ああ、あんた傘を被ったままだ」

 そうサゲる噺で、後半に笑いが多い噺で最後は爆笑だった。

 さあ今度は小鮒さんの「芝浜」です。小鮒さんの出囃子「小鍛冶」が鳴り出した。わたしは祈るような気持ちで小鮒さんを送り出すのだった。

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